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出向先は、剣と魔法と人事部でした 〜評価されなかった社会人の異世界改革〜  作者: 怪獣姫


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最後の一行

 ギルドの扉を引いたとき、中の空気はいつもの匂いをしていた。紙の匂い。木の匂い。少しだけ、誰かの汗の匂い。


 受付のところで何人かが書類を覗き込んでいた。伊勢は会釈だけして奥へ進んだ。


 シャウプの机の前まで来て足を止めた。


 シャウプは机の上で書類の束を両手で揃えているところだった。書類の角を机の縁に二度ほど軽く打って揃え、それを脇に置いた。その動作だけで顔を上げた。


「来たか」


「はい」


「座れ」


 伊勢は机の前の椅子に腰を下ろした。湯呑みは机の中央近くにあった。前に見たときは左奥にあったから、少しだけ位置が動いていた。


(中央近く)


 その位置を頭の中で控えた。中身があるのかないのかは、いつものように、外からは分からなかった。


「棚の話か」



「ええ」


「動いてるか」


「ラッジさんが、自分の店から先に動かしてくれました」


「配置先は」


「ギルドの窓口、宿の組合、東通りのハーグさんの店。ラッジさんが自分から名前を挙げました」


 液体回復薬の親容器を、一店舗ではなく四店舗に分けて据え置く、という話だった。シャウプが順番をつけてくれたうちの、最初の壁の話だった。


 シャウプは指を一本、机の上で軽く立てた。立てた指の先で、何もない場所を一度叩いた。


「ハーグの店、か」


「ええ」


「ラッジが、自分から、出したか」


「はい」


 シャウプは鼻で短く笑った。笑ったあとに「ふん」とだけ言った。ハーグはラッジと若い頃から合わない相手だ、というのは前にラッジ自身が口にしていた。その相手のところに、ラッジが自分から名前を出したという話だった。


「容器の方は」


「ブリジットさんが、グレアムさんを呼ぶことに決めました」


 シャウプの指が机の上で止まった。


「あの男を、呼ぶのか」


「ええ」


「ブリジットが、自分から、出すと言ったのか」


「私が頭を下げる話じゃない、と。ブリジットさんが、自分が下げに行く、と」


 シャウプはしばらく何も言わなかった。湯呑みに手を伸ばしかけて、途中で止めた。指先が湯呑みの縁の手前で一度宙に置かれて、それから引かれた。


「持っていく絵は」


「組みました」


「中身は」


「一番上に、本数は書きません」


「ほう」


「『冒険者の、握る手まで届く容器の話』と書きました」


 容器そのものの話ではなく、その容器を最後に握る人間の手のところまでを、絵の一番上に置いた、という意味だった。蓋が確実に回ること、中身がこぼれないこと、次の足が踏み出せること——ダンジョンの中で薬を口に運ぶ、その動きの確かさのことだった。


 シャウプの口の端が、ほんの少しだけ動いた。動いてすぐ戻った。


「金の話は」


「書きません」


「納期は」


「書きます。ですが本数の隣に、握る手の数を置きます」


 シャウプはもう一度、鼻で短く笑った。今度は前より少しだけ低い笑い方だった。


「ブリジットが書かせたか、お前が書かせたか、どっちだ」



「……二人で組みました」


「ふん」


「マルコさんも、横で工程の紙を書いていました。三人だったかもしれません」


「弟子のあの坊主か」


「ええ」


「あの坊主、何か書いたのか」


「仕上げの刃は、ブリジットさんの工房の刃と研ぎ方が違うから、グレアムさんの自前の刃が要る、と」


 シャウプは指を机の上で一度、強く叩いた。


「それを、あの坊主が、自分で見つけたのか」


「以前、ブリジットさんがそう言っていたのを、覚えていたそうです」


「覚えていたか」


「はい」


 シャウプは指の腹で、机の木目を一筋、ゆっくりとなぞった。なぞり終わってから、湯呑みにもう一度手を伸ばした。今度は止めずに、口元まで運んだ。だが口元の手前で止めた。中身を口に含む動きはなかった。


「お前の側で、まだあるか」


「……ひとつ、あります」


「言え」


「容器の話を組んでいる最中に、その下に、もう一枚、紙が要ることに気がつきました」


「もう一枚」


「ええ」


「何の紙だ」


「絞る手の紙です」


 四店舗分の親容器が揃ったとしても、その中に詰める液体回復薬を作るには、葉を絞る工程が要る。葉を絞る工程は、いまは布で両側から押す手作業だ、という話を、工房でブリジットとマルコから聞いてきたばかりだった。


 シャウプは湯呑みを口元から下ろした。下ろした湯呑みは、机の中央近くに戻った。前と同じ位置ではなかった。前より、ほんの少しだけ、伊勢の側に寄っていた。


「葉を、絞る、あの工程か」


「ええ」


「あんたの順番では、作り方は容器の次だったな」


「はい。ですが作り方の手前に、絞る手の壁がありそうです。布で両側から押して絞っている、と。両手で押すから、一人で絞れる量に、上限があります」


「四店舗分の容器に、毎日詰めるだけの量を、その手の数で絞れるか、ということか」


「ええ」


 シャウプはしばらく何も言わなかった。



「リリアに、置きに行くか」


 絞る手が何本足りていないか、誰がどの工程を何時間回しているか——その数の出どころは、リリアが日々付けている人事局の台帳だった。シャウプが順番をつけたとき、作り方の話は最初からリリアに頼め、と指名したのも、そのためだった。


「ええ。ですが、その前に」


「前に?」


「明日の朝、マルコさんに連れていってもらって、採取者の小屋を一度見てきます」


「見てから、置きに行くのか」


「自分の側で、形を、先につかんでおいた方が、リリアさんに話を渡すときに、たぶん早いです」


 台帳の数字の手前にある、布で葉を押す手の動きそのものを、自分の目で見ておく、ということだった。


 シャウプは机の上の自分の指を一度見た。指の関節の節を見ていた。それから顔を上げた。


「お前、それ、誰に教わった」


「……教わった、ということでもないんです」


「そうか」


「ブリジットさんが、今朝、私の動き方を、言葉にしてくれました。お前のいつもの順番だ、と」


「あいつが、お前の順番を、言葉にしたのか」


「ええ」


 シャウプはまた鼻で短く笑った。笑った後に、湯呑みをもう一度持ち上げた。今度は口元まで運んで、ほんの少しだけ口に含んだ。含んでから湯呑みを下ろした。下ろした湯呑みは、さっきよりも、もう少しだけ伊勢の側に寄って置かれた。


「順番、ってのはな」


「……はい」


「自分で気づくのが、一番、遅い」


「……」


「だが、誰かに言葉にされた時、初めて、自分の側で、それが順番だったと分かる」


 シャウプはそこで一度、間を置いた。


「俺の昔の話を、前に、一回、こぼしたな」


 伊勢は息を一度だけ呑んだ。シャウプが順番をつけてくれた日の最後に、自分も昔、似たような壁を見たことがある、と低く一言こぼしたきり、聞き返さなかった話のことだった。


「ええ」


「あの時、俺の順番を、言葉にしてくれる人間が、近くにいなかった」


「……」


「それだけのことだ」


 伊勢は聞き返さなかった。聞き返すべきではないと感じた。シャウプの言葉の形は、何かを開示しているのではなく、自分の側に置き直しているような形をしていた。


(持っていなかった、ということを、いま、置いている)


 シャウプ自身が、当時、自分の順番を言葉にしてくれる人間を持っていなかった——その事実そのものを、いま机の上に、誰かに渡すためではなく、自分が一度確かめるために、置いている。伊勢にはそう見えた。


 頭の中でその形を控えた。



「行ってこい」


「はい」


「採取者の小屋は、朝のうちに済ませろ。リリアには、戻ってから、台帳の側で聞け」


「ええ」


「ブリジットの方は」


「今日中に、もう一度、工房に戻ります。絵の最後の一行を、二人で書く、と」


「最後の一行、か」


「ええ」


 シャウプは湯呑みの縁を、指の腹で一度なぞった。


「最後の一行はな」


「はい」


「絵の真ん中の言葉が、もう一度、自分の方に、返ってくる場所だ」


「……」


「行け」


 伊勢は立ち上がった。椅子を引いたとき、湯呑みの位置がもう一度目に入った。湯呑みは、机の中央よりも、明らかに伊勢の側に寄って置かれていた。



 工房に戻ったのは、日が屋根の向こうに半分隠れた頃だった。


 戸を引くと、火床の火はもう低く落とされていた。明日の朝、ブリジットが出るための支度だった。マルコの姿はなかった。たぶん、明日の道のりの段取りを家の方で確かめているのだろうと思った。


 ブリジットは作業台の前にいた。朝、二人で書いた紙を、まだ広げたままにしていた。


「海人」


「はい」


「戻ったか」


「ええ」


「シャウプさんは」


「絞る手の話まで、聞いてくれました」


「順番は」


「明日の朝に小屋を見てから、リリアさんに置きに行く、で合意しました」


 ブリジットは頷いた。それから紙の一番下の、まだ何も書かれていない場所を、炭の棒の先で軽く撫でた。


「ここだ」



「最後の一行を、書く場所」


「はい」


「朝、私はここに、本数の隣に握る手の数を置く、と言った」


「ええ」


「でも、それは、絵の中身の置き方の話だ。最後の一行は、まだ、別の場所に要る」


「別の場所、ですか」


「中身を全部書き終わったあとで、その紙を、グレアムさんの前に置くときに、私の口から、最初に出る一行のことだ」


 伊勢はブリジットの言葉の形を、ゆっくり追った。紙の中に書く一行ではなく、紙をグレアムの前に滑らせる、その動作のすぐ横に置く、声の方の一行のことだった。


(最初に出る一行)


「絵を、テーブルの上に滑らせる時に、添えて言う言葉だ」


「ええ」


「あの人は、絵を見る前に、こっちの顔と、こっちの一言で、火を入れるか入れないかを、半分くらい決める」


「半分」


「残りの半分は、絵が決める。だがその前の半分が、たぶん大事だ」


 ブリジットは炭の棒を紙の上に置いた。置いただけで、まだ書かなかった。


「海人」



「はい」


「お前なら、何を言う」


「私が、ですか」


「言わせる、って意味じゃない。私が言う一行を、お前と一緒に、置きに行く」


「……」


「絵の真ん中は、お前が今朝、丘の上で確かめてきた。最後の一行も、たぶん、その続きにある」


 伊勢は紙の上の、すでに書かれた言葉を上から目で追った。


 冒険者の、握る手まで届く容器の話。容器が何のために要るか。配置。工程の分担。冒険者の、握る手の数。


(同じ場所に、戻る)


 シャウプの言葉が頭の中にあった。最後の一行は、絵の真ん中の言葉が、もう一度自分の方に返ってくる場所だ、という言葉。


 絵の真ん中は、火が何のために要るか、だった。


(火を入れる、というのは、それが届く場所まで見える仕事のことだ)


 今朝、丘の上で自分の側に置いた形だった。鉄を熱して刃を打つ、その手元のことだけを言っているのではなかった。その刃が削った容器を冒険者が握り、ダンジョンの中で蓋を回し、口に運ぶ——そこまでが一筋の仕事として見えていることを、グレアムは「火を入れる」と呼ぶのだろう、と伊勢は思っていた。


 その言葉が、最後の一行として、もう一度返ってくる場所——。


「ブリジットさん」


「うん」


「『この容器を、火を入れる仕事として、見てもらえますか』——では、長いでしょうか」


 ブリジットは紙の方に視線を落としたまま、しばらく動かなかった。


「……長くはない」


「ええ」


「だが、一行には、まだ、もう少しだけ、削れる」


「削る、ですか」


「火を入れる仕事として、見てもらえますか、の手前は、たぶん、要らない」


「……容器」


「容器、というのは、絵を見れば分かる」


「ええ」


「絵を見れば分かる場所は、最後の一行に、置かなくていい」


 ブリジットは炭の棒を、紙の一番下の余白に置いた。


「『火を入れる仕事として、見てもらえますか』——これだ」



 ブリジットは炭の棒の先を、紙の上で動かした。動きはいつもより少しだけゆっくりしていた。最後の一行を書くために、急がない動きだった。


 書き終わった紙を、ブリジットは伊勢の方に向けた。


「これでいいか」


「ええ」


「明日の朝、これを、滑らせる」


「はい」


「あの人の前で、紙を、こっち向きに置いて——」


 ブリジットは紙を一度くるりと回して、相手側の向きに置く動作だけ、空中でやって見せた。


「『火を入れる仕事として、見てもらえますか』」


「……」


「これで、火が入らなかったら、それはそれでいい」


「ええ」


「あの人の、火の前に立つ年数の判断だ」


 ブリジットはそれだけ言って、紙を作業台の上にきちんと畳んだ。畳んだ紙の上に、マルコの工程の紙も重ねた。二枚を上から軽く手で押さえた。


「行ってくる」



「ブリジットさん」


「うん」


「気をつけて、行ってきてください」


 ブリジットは紙を押さえていた手を、いったん離した。離した手で、伊勢の肩を、肘で軽く一度小突いた。


「お前も、明日、自分の小屋の方を、ちゃんと見てこいよ」


「ええ」


「絞る手の話、お前の側で、先につかんでおけ」


「はい」


「リリアに置きに行く前に、お前の側に、形があった方が、たぶん、あいつも動きやすい」


「ええ」


「お前の、いつもの順番だ」


 伊勢は頷いた。頷いてから、戸口の方に足を向けた。


 戸の手前で、もう一度だけ振り返った。


 ブリジットは作業台に戻って、火床の火の様子をもう一度見ていた。火は低く、だが消えてはいなかった。明日の朝、家を出る前に、もう一度だけ火を見るための残し方だった。


 伊勢は戸を引いて、工房を出た。



 通りはもう薄暗くなっていた。屋根の上の空は、まだ少しだけ明るさを残していた。風はもう穏やかではなく、夕方の冷たさを少しだけ含んでいた。


(火を入れる仕事として、見てもらえますか)


 頭の中でその一行を、もう一度なぞった。


 その一行は、ブリジットが明日の朝に口にする一行だった。だが、その一行の形は、伊勢が今日の朝、丘の上で確かめてきた形と、ほとんど同じ場所に立っていた。


(半分、ずつ、持っている)


 頭の中でその言葉を置いた。


 ブリジットの一行と、自分の側の形は、別の人間の口から出るが、同じ場所に向いていた。シャウプの机の上の湯呑みが少しだけ伊勢の側に寄っていたのも、たぶん同じ場所の話だった。


(俺の順番を、言葉にしてくれる人間が、近くにいなかった——)


 シャウプの低い一言が、また頭の中に戻ってきた。


 いま伊勢の周りには、伊勢の順番を、伊勢より先に言葉にしてくれる人間が、何人かいた。ブリジット。シャウプ。ラッジ。マルコの動きの中にも、その気配が一度だけ顔を出した。


(順番、ってのは、自分で気づくのが、一番、遅い)


 そのシャウプの言葉も、頭の中に置いた。


 遅い、でいいのかもしれないと思った。誰かが先に言葉にしてくれた順番を、自分の側で「ああ、それだった」と認める動きの方が、絵を組み立てるときには、もしかすると、ちょうどいい遅さなのかもしれなかった。


 宿の方角の通りの先に、いくつかの店の窓の明かりがついていた。


 伊勢はその明かりの方に足を進めた。


 明日の朝、マルコと採取者の小屋まで歩く道のりを、頭の中で一度なぞった。


 そのとき、ブリジットはもう、グレアムの工房に向かう道の途中にいるはずだった。

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