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出向先は、剣と魔法と人事部でした 〜評価されなかった社会人の異世界改革〜  作者: 怪獣姫


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火が何のために要るか

 工房を出て、伊勢はすぐにはギルドへ向かわなかった。


 通りの中ほどで足を止めた。空はもう日が高くなっていた。雲は薄く流れていた。風は行きより、もう少しだけ穏やかだった。


(ギルドの前に、もう一度、戻る)


 頭の中でそう決めた。決めたというよりは、足の向きがそちらに向いた、という方が近かった。


 ブリジットの言葉が頭の中にまだ残っていた。「絵がない手土産で、あの人のところに行くのは、失礼にあたる。中身の合わない絵を持っていくのは、もっと、失礼にあたる」。


(中身の合わない絵)


 その言葉をもう一度、口の中で転がした。


 シャウプのところに棚の進捗を置きに行く順番が確かにあった。リリアのところに作り方の話を渡しに行く順番も、その先にあった。だがいま、頭の中で一番強く立っていたのは、ブリジットと組み立てる絵の、その真ん中の形だった。


(シャウプにも、リリアにも、置きに行く前に、絵の真ん中を、自分の側で、ひとつだけ、確かめておく)


 伊勢は足の向きをもう一度変えた。工房の方ではなかった。ラッジの店の方でもなかった。少しだけ街の外れの方に向かう道だった。



 街の外れに低い丘があった。


 丘の上には木のベンチが一つ置いてあるだけだった。冒険者がたまに腰を下ろす場所だが、午前のこの時間には誰もいなかった。


 伊勢はベンチに座らなかった。代わりにベンチの脇に立って、街の方を見下ろした。


 石畳の通り。屋根の連なり。煙突から立ち上るいくつかの白い煙。ラッジの店の屋根。ブリジットの工房の煙突。ギルドの大きな建物。市場の人の動き。ダンジョンの方角の低い岩肌。


(火が、何のために、要るか)


 頭の中でその問いをもう一度置いた。


 ブリジットが言ったのは、グレアムへ持っていく絵の真ん中に置く言葉だった。だがその言葉は、グレアムだけの話ではなかった。


(ラッジが帳面を見せてくれた数字も、シャウプが順番をつけてくれた紙も——中身は、同じ場所に向かっていた)


 数字も順番も配置も——客が薬を持って帰る場面の、その手のあたりまで繋がっていた。


(冒険者が、薬を、握る手)


 その形を頭の中で思い浮かべた。


 ダンジョンの中で、傷を負った冒険者が子容器の蓋を開ける。中の液体を口に流し込む。蓋を閉める。腰の袋に戻す。次の足を踏み出す。


 その一連の動きのどこかで、もし容器が割れていたら。中身がこぼれていたら。蓋が回らなかったら。


(冒険者が、その薬を、口に運べないなら——)


 握る手のその先のことを考えた。


 以前、ダンジョン入口で布を被せた板に一人を見送ったことがあった。あの男の名前を、いま、頭の中で出すことはしなかった。だが握る手の先の風景は、その日の風景と地続きだった。



(火を入れる、という言葉)


 ブリジットがグレアムについて言った言葉をもう一度思い出した。


 「火を入れる仕事だ、と思える絵を、持っていく」


 火を入れるというのは、ただ熱を加えるという話ではないのだろうと思った。火の前に立つ年数でその仕事の中身を値踏みする人にとっての火は、たぶん別の形をしていた。


(火を、その仕事に、入れる価値があるかどうか)


 その目線で見たとき、四店舗分の親容器を削るという仕事の中身は何だろうと思った。


 本数だけなら四本でも八本でも、数の話だった。納期だけならいつまでに、の話だった。金だけならいくらで、の話だった。


(本数でも、納期でも、金でもない場所——)


 その場所はたぶん、容器そのものではなかった。


 容器の先にいる人だった。


 冒険者が握る手の、その動きの確かさだった。蓋が確実に回ること。中身がこぼれないこと。次の足を踏み出せること。


(火を入れる、というのは、たぶん、それが届く場所まで、見える仕事のことだ)


 頭の中でその形がようやく定まった。


 以前、回復草の束ね加工をやり始めた頃にラッジが言ったことがあった。「客の生存率」という変な言葉だった。査定の術式の使い道を冒険者向けから査定士の補助に変えたとき、自分で口にした「納得できる公平さ」という言葉も思い出した。リペア店と組んだときに店主の口から出た「冒険者を生きて帰らせたい」という言葉もあった。


(同じ場所だ)


 その言葉たちは形は違ったが、行き着く先が同じ場所だった。


 火を入れるという言葉も、たぶんそこにつながっていた。グレアムが火の前に立つ年数で見るのは、儲けでも納期でも本数でもない、その先の人の動きの確かさだった。


(ブリジットは、それを、知っていて、私と組み立てると言った)


 風が頬を撫でていった。


 伊勢は丘の上で、もう少しだけ街を見下ろしていた。



 工房に戻ったとき、ブリジットは作業台の前に紙を広げて立っていた。


 マルコはその横で、別の小さな紙に何かの線を引いていた。煤で黒くなった頬の上で、目だけがまだ明るかった。


「海人」


「はい」


「早かったね」


「ええ」


「ギルドに行ってきたのか」


「いえ」


「ん?」


「丘の上に行ってました」


 ブリジットは紙の上に置いていた炭の棒を一度止めた。


「丘?」


「街の外れの低い丘です。ベンチが一つあるだけの場所です」


「何しに」


「絵の真ん中を、自分の側でひとつだけ確かめてきました」


 ブリジットは炭の棒を紙の上に置いた。腕は組まなかった。腰だけ作業台に軽く預けた。


「で。何を確かめた」


「火を入れる、という言葉の行き先です」


「うん」


「グレアムさんが火の前に立つ年数で見るのは——たぶん容器そのものじゃないんです」


「うん」


「容器の先の、冒険者の握る手のあたりまでです」


 ブリジットはしばらく何も言わなかった。マルコの炭の棒の音だけが、低く紙の上を滑っていた。


「……海人」


「はい」


「お前、丘の上でそれ考えてたのか」


「ええ」


「一人で?」


「ええ」


「面倒くさい男だな、お前は」


「すみません」


「面倒くさいけど」


 ブリジットは口の端を少しだけ上げた。


「合ってる」



 ブリジットは紙の上に新しい線を一本引いた。


「じゃあここから先は二人で組む」


「はい」


「四店舗分の親容器。一本目はもう棚にある。二本目、三本目は私とマルコで削る。四本目から先はグレアムさんに火を入れてもらう」


「はい」


「だがグレアムさんに渡す絵の一番上には、本数を書かない」


「はい」


「一番上に書くのは——」


 ブリジットは伊勢の方を一度見た。


「『冒険者の、握る手まで届く容器の話』」


 伊勢は頷いた。


「その下に書くのは何だ」


「……」


「順番に言っていい」


「最初は——」


 伊勢は紙の上の線を目で追った。


「容器が何のために要るか、です」


「うん」


「液体回復薬を現場までこぼさずに運ぶため。蓋が確実に回るため。腰の袋から片手で取り出せるため。冒険者が次の足を踏み出せるため」


「うん」


「次に書くのは——いま、その容器がどこでどれくらい要っているかです」


「店ごとの置き場の話か」


「ええ。ラッジさんの店が一店舗。ギルドの窓口が一店舗。宿の組合が一店舗。東通りの——」


「ハーグの店」


「ええ。四店舗分です」


「うん」


「その次が、いまどこまで削れていて、どこから先が誰の手で削られるべきか——」


「腕の本数と工程の話だな」


「ええ。ブリジットさんとマルコさんで深さと底まで。仕上げはグレアムさんにお願いする形が、たぶん一番、火が入りやすいです」


 ブリジットの目が一度、強く瞬いた。


「……海人」


「はい」


「仕上げをあの人に回す、ってお前、よく言ったな」


「合っていますか」


「合ってる」


 ブリジットは紙の上にもう一本線を引いた。


「あの人は深さや底を削ることに火を入れる人じゃない。仕上げの、最後の一筆みたいな削りに火を入れる人だ。私はそこまでまだ行けない」


「……」


「だから私はそこまでの行きの道を削る。あの人にその先を渡す」


「はい」



「最後に書くのは——」


 伊勢は息を一度吸った。


「冒険者がその容器を握ったとき、どうなるかです」


 ブリジットは紙の上の炭の棒を止めた。


「うん」


「蓋が回る。中身がこぼれない。次の足が踏み出せる。それが四店舗分、街の中に配られたら、いくつの手がその確かさを握れるか」


「うん」


「その数を——『冒険者の、握る手の数』として書きます」


 ブリジットは紙の上にゆっくりとその言葉を書いた。炭の棒の動きはいつもより少しだけ遅かった。


 書き終わってから、ブリジットは紙を伊勢の方に向けた。


「この紙が絵の一番上だ」


「はい」


「これをグレアムさんに見てもらう」


「ええ」


「金の話は書かない」


「書きません」


「納期は書く。だが本数の隣に、握る手の数を置く」


「はい」


「それでもあの人が『商売にならねぇ』と言ったら——」


 ブリジットは口の端を少しだけ上げた。


「それはそれでいい。あの人の、火の前に立つ年数の判断だ」


「……はい」


「だがたぶん、こう書いてこう持っていったら——」


 ブリジットは紙の上に視線を落とした。


「あの人は銭の話を一回もしないで、腕を貸してくる気がする」



 マルコが横で自分の紙を止めていた。


 ブリジットはマルコの方を見た。


「マルコ」


「はい、親方」


「お前の手元の紙、見せてみろ」


「あ、はい」


 マルコは自分の紙をブリジットの方に滑らせた。煤の指の跡が紙の端にいくつか残っていた。


 紙の上には工程の線が引いてあった。深さの工程、底の工程、仕上げの工程。それぞれの工程に要る道具の名前が、小さい字で添えられていた。鉄工用の刃。削り粉を払う布。底の確認に使う細い灯り。


「お前、これいつ書いた」


「親方が海人さんに絵の話してた間です」


「そうか」


「あと、ここ——」


 マルコは仕上げの工程の横を指で差した。


「仕上げの刃は、うちの工房の刃とたぶん合いません。グレアムさんの自前の刃が要ると思います」


 ブリジットはその指の先をしばらく見ていた。


「……マルコ」


「はい」


「お前、それよく気が付いた」


「親方が前にグレアムさんの工房から刃を一本持って帰ってきたとき、研ぎ方がうちのと違うって言ってたの覚えてました」


「覚えてたのか」


「はい」


 ブリジットはマルコの紙を自分の紙の横に並べた。並べてから伊勢の方を見た。


「海人」


「はい」


「絵は二人で組むって言ったけど」


「ええ」


「もう、三人で組んでた」


 マルコはその言葉を聞いて、煤で黒くなった頬の下で口を少しだけ結んだ。



 伊勢はブリジットの紙をもう一度見ていた。視線が最後の一行のあたりに止まった。


(冒険者の、握る手の数)


 頭の中でその言葉の隣に、もう一つ別の言葉が自然に立ち上がった。


(その手に、薬を、いくつ、間に合わせられるか)


 その問いがいま、急に形になって頭の中に置かれた。


「ブリジットさん」


「うん」


「ひとつ聞いてもいいですか」


「絵の話か」


「絵の、その先の話です」


 ブリジットは炭の棒を紙の上に置いた。


「言ってみろ」


「親容器が四店舗分揃ったとして——」


「うん」


「中に入れる液体回復薬は、いまの作り方で足りるんでしょうか」


 ブリジットの目が紙から一度上がった。


「……作り方の壁の話か」


「いえ、その手前です」


「手前?」


「液体回復薬を作るには、葉を絞る、という工程が要るはずです」


「ああ」


「いまは誰が絞ってますか」


 ブリジットはしばらく答えなかった。マルコが横で自分の紙の上の線を目で追っていた。


「……採取者の手伝いと、農園の若いのが二人。それとリリアの紹介で、人事局から手の空いてる時間に来てる何人かだ」


「全部、手作業ですか」


「そうだ」


「四店舗分の容器に毎日詰めるだけの量を、その手の数で絞れますか」


 ブリジットは紙の上の、自分が書いた最後の一行を見た。「冒険者の、握る手の数」と書いてあった。


「……海人」


「はい」


「それ、私の答えるところじゃないかもしれない」


「ええ」


「でも、お前がいまそれをここで置いていったのは、合ってる」


「……」


「容器の話と中身の話は、別だが、別じゃない」



(別だが、別じゃない)


 伊勢はその言葉を頭の中で置いた。


 四店舗分の容器を作っても、その中に詰めるものが追いつかなければ、容器は空のままだった。火の前に立つ年数でグレアムが見る「冒険者の、握る手の数」も、絞る手が追いつかなければただの数の話に戻った。


(絵の底の方に、もう一枚、紙が要る)


 頭の中でその形が立ち上がった。


「ブリジットさん」


「うん」


「この絵はグレアムさんに明日持っていく絵です」


「うん」


「絞る手の話はこの絵には書きません」


「書かんでいい」


「ですが——」


「うん」


「私の側で、もう一枚、別の紙にいま起こしておきます」


「絞る手の紙か」


「ええ」


「誰に持っていく」


「リリアさんです」


 ブリジットは頷いた。頷き方は深かった。


「シャウプさんが、作り方はリリアに頼め、と言ってた、って前に話したな」


「ええ」


「作り方のもう一つ手前に、絞る手があるってことだな」


「たぶん、そうです」


「リリアは人事局の台帳を持ってる」


「ええ」


「誰がいま何の工程を何時間回してるか——あいつの台帳の側から見たら、絞る手の数も、たぶんすぐ出てくる」


「ええ」


「いい順番だ」


 ブリジットはそれだけ言って、また自分の紙に視線を落とした。



 マルコが横で口を開いた。


「あの」


「うん?」


「絞るの、俺、前にちょっとだけ見たことあります」


 ブリジットの目がマルコの方に向いた。


「どこで」


「採取者の小屋の裏です。マロイさんと若いのが、布で葉っぱを絞ってました」


「布で?」


「はい。葉っぱを布の中に入れて、両側から押して絞ってました」


「……それ、効率いいのか」


「分かりません。でも両手で押すから、たぶん一人で絞れる量は決まってるって思いました」


 ブリジットはしばらく何も言わなかった。それから伊勢の方を見た。


「海人」


「はい」


「絞る手の話は、リリアの台帳の前に、現場の小屋を一回見に行った方がいいかもしれない」


「現場、ですか」


「お前が見てリリアに置きに行く前に、自分の側で形をつかんでおく」


「……はい」


「それがたぶん、お前のいつもの順番だ」


 伊勢は頷いた。


(絵の真ん中を、自分の側で、確かめてから、組みに行く)


 今朝、丘の上で自分に置いた言葉と同じ形の言葉が、いまブリジットの口から出てきた。



「親方」


 マルコがブリジットの方を見た。


「俺、明日、親方が出る前に、採取者の小屋まで海人さんを連れていきましょうか」


「お前が?」


「はい。一回見たことあるから、場所、分かります」


「火床は」


「朝の火を入れる前なら、半刻空けても刃は落ちません」


「半刻で戻ってこられるか」


「マロイさんの小屋までなら片道、四半刻です」


 ブリジットはマルコの顔をしばらく見ていた。


「……マルコ」


「はい」


「お前、今日よく動くな」


「親方が形が変わるって言ったから」


「ん?」


「形が変わる前に、俺がいまのうちに見ておけることが、たぶんいっぱいあるんです」


 ブリジットは口の端を少しだけ上げた。


「面倒くさいな、お前も」


「すみません」


「面倒くさいけど、合ってる」



 工房を出るとき、伊勢は戸口でもう一度振り返った。


 ブリジットは二枚の紙を並べたまま、まだ見ていた。マルコはその横で、別の紙の隅に小屋までの道筋を線で引き始めていた。火床の火は奥で低く爆ぜていた。


「ブリジットさん」


「うん」


「絵はこれで形になりますか」


「なる」


「行く日は」


「明日の朝出る。グレアムさんの工房まで片道、半日だ」


「分かりました」


「海人」


「はい」


「シャウプさんに棚の進捗を置きに行ったら、今日中に戻ってこい」


「戻る、ですか」


「絵の最後の一行を二人で書いてから、私は出る」


「……分かりました」


「最後の一行がない絵は、たぶん火が入らない」


 ブリジットはそれだけ言って、また紙の上に視線を落とした。



 工房を出た伊勢は、今度こそギルドの方に足を向けた。


 通りの空気は少しだけ温度が上がっていた。日が屋根の上のあたりまで来ていた。


(火が、何のために、要るか)


 頭の中でその問いの答えの形をもう一度確かめた。


 答えは容器そのものに向いていなかった。容器の先の、人の手の確かさに向いていた。それは伊勢がこれまでの仕事で、形を変えながらずっと向いていた場所と地続きだった。


(同じ場所に、火を入れる、という言葉が、足された)


 ラッジの帳面の数字。シャウプの順番の紙。ブリジットの絵。マルコの工程の線。それぞれの紙が、向こうにいる人の握る手のあたりに、揃って向いていた。


(揃った)


 心の中でその一言を置いた。


(——ただし)


 その一言のすぐ隣に、別の言葉も立ち上がっていた。


(揃った絵の、底の方には、もう一枚、紙が要る)


 絞る手の紙だった。


 明日の朝、マルコと一緒に採取者の小屋まで行く。葉を絞る、その手の動きを自分の目で見る。形をつかんでからリリアに置きに行く。


 四店舗分の容器に中身が追いつかなければ——「冒険者の、握る手の数」という、絵の最後の一行はただの数の話に戻ってしまう。


(中身の追いつかない容器は、火が、入らない)


 頭の中でブリジットの言葉の形を借りて、自分の言葉を置いた。


 ギルドの建物の大きな扉が通りの先に見えてきた。屋根の上の煙突から、薄い煙がまっすぐに立ち上っていた。風はまだ穏やかだった。


 伊勢はその扉の方へ足を進めた。

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