先に置きに行く
工房の戸口の前で、伊勢は一度だけ、足を止めた。
煙突から立ち上る白い煙は、まだまっすぐだった。風がほとんどない朝で、煙は、空の薄い青の中に、迷わずに溶けていった。戸の隙間から、火の音が漏れ聞こえた。鞴の音ではなかった。火床の薪が、奥のほうで、低く爆ぜている音だった。
(先に、置きに行く)
頭の中で、もう一度、その言葉の形を確かめた。確かめるというよりは、確かめる動作で、戸を引く手に力を入れた、という方が近かった。
◆
「海人」
戸を開けた瞬間、ブリジットの声が飛んできた。
火床の前に立っていた。革のエプロン、褐色の腕、オレンジ色の髪を後ろで一つに束ねていた。手には鉄の挟みを持っていた。挟みの先には、まだ何も挟まれていなかった。
「おはようございます」
「来ると思ってた」
「……そうですか」
「ラッジが、昨日の夕方、店の前を通りかかった私を、二度見した。あの男が二度見するときは、決まって面倒な話だ」
ブリジットは、挟みを作業台の上に置いた。置く音は、軽かった。だが、置き方には、構えがあった。
「マルコ」
「はい、親方」
マルコが、奥から顔を出した。煤で頬が黒くなっていた。手には、束ねた薪を抱えていた。
「火、いったん落ち着かせてからでいい。表の薪、しまっておけ」
「はい」
「あと、奥の作業台、片付けて、こっちが座れるようにしとけ」
「はい」
マルコは、薪を抱え直して、奥へ消えた。ブリジットは、伊勢の方に向き直った。腕は、組まなかった。組む直前のような形で、止めていた。
「で。話の中身は」
◆
「容器の話、です」
「うん」
「今、棚に置いてあるのは、一店舗分です」
「知ってる」
「ラッジさんが、昨日、帳面を見せてくれました。一店舗では、捌けない、と言いました」
ブリジットの目が、一度だけ、ふっと動いた。動いた先は、火床の方だった。火床の薪は、奥で、まだ低く爆ぜていた。
「で、何店舗分、要るって話だ」
「三店舗分。あるいは、四店舗分」
「……四店舗」
「ええ」
ブリジットは、火床から目を戻した。視線は、伊勢の顔ではなく、伊勢の足元のあたりにあった。それから、ゆっくり、顔まで上がってきた。
「海人」
「はい」
「先に、聞いていい?」
「どうぞ」
「それ、私の口から『工房の手数が足りない』って言わせるために、来た話?」
伊勢は、息を一度、止めた。止めてから、首を、横に振った。
「違います」
「即答だね」
「ええ」
「……ふうん」
ブリジットは、作業台に、軽く腰を預けた。腕は、まだ組まなかった。
◆
「足りないかもしれません」
伊勢は、そう言った。
「親容器の石化木は、ブリジットさんの工房でしか、削れません。子容器の方は、木製で、別の鍛冶屋でも作れます。だが、親容器は、こちらだけです。三店舗、四店舗に増やすなら、追加の本数が要ります。一本目を、ようやく棚に置けたばかりで、二本目、三本目の発注はもう入っています。その先の数を、こちらの工房だけで、いつまでに揃えられるか——私の側に、絵がありません」
「絵がない、って言いに来たのか」
「絵がないことを、先に置きに来ました」
ブリジットは、しばらく、何も言わなかった。
火床の奥で、薪が、また一度、低く爆ぜた。マルコが、奥で、何かを動かす音がした。だが、ブリジットは、その音の方を見なかった。伊勢の方を、見ていた。
「先に、置きに、ね」
「ええ」
「ラッジか、シャウプか、どっちかの入れ知恵だな」
「両方、です」
「ふうん」
ブリジットは、初めて、口の端を、少しだけ上げた。
「両方に言われたんだ」
「ええ」
「私の口から『足りない』って言わせるな、って」
「……はい」
「二人とも、よく見てるな、私のこと」
声は、低かった。怒りの低さでは、なかった。
◆
「海人」
「はい」
「正直に言うね」
「どうぞ」
「私一人と、マルコ一人、二人だけで、四店舗分の親容器を、いつまでに削れるか、私にも、まだ絵がない」
ブリジットは、そう言ってから、ようやく腕を組んだ。
「石化木は、やり直しが利かない。鉄工用の刃が要る。一本削るのに、深さで半日、底で半日、仕上げで半日。私が前に出て、マルコが横で支える。その形でしか、今は、回せていない」
「分かります」
「もう一本、もう二本、までは、出せる。出せるから、二本目、三本目の発注、受けた」
「はい」
「だが、四本目、五本目、六本目、その先まで、私の腕一本で押すのは——」
ブリジットは、そこで、言葉を切った。切ってから、自分で、息を吐いた。
「——たぶん、無理だ」
伊勢は、その言葉を、黙って聞いた。
ブリジットは、自分から、その言葉を、口にした。だが、口にした言葉の形は、「足りない」ではなかった。「私の腕一本で押すのは、無理だ」だった。腕の本数の話だった。
(言葉の置き方が、違う)
心の中で、それだけ置いた。
◆
「ブリジットさん」
「うん」
「『足りない』、ではないんですね」
「ん?」
「『私の腕一本で押すのは、無理だ』、と」
ブリジットは、伊勢の顔を、一拍だけ見た。それから、ふっと、息を吐いた。
「……海人、お前、そういうとこ、ほんと、面倒くさい」
「すみません」
「面倒くさいけど、合ってる」
「合っていますか」
「足りない、って言うと、私の工房が、力不足だ、って話になる。違うんだ。一本の腕で押す形が、もう、合わなくなってる、って話なんだ。形の話だ。力の話じゃない」
「……はい」
「形を変えるなら、変える話が要る」
ブリジットは、作業台の上の挟みを、もう一度、手に取った。手に取ってから、また置いた。置き方は、最初よりも、少しだけ、丁寧だった。
「グレアムさんを、呼ぶ」
声は、低かったが、迷いは、なかった。
◆
「グレアムさん、ですか」
「あの人なら、石化木は、削れる。古い火傷の腕で、若い頃、あの硬さの木材を、何度も触ったって、前に聞いた。今は店を構えていない。隠居、というより、自分の火を、自分のところに、戻した、って形だ」
「以前——『お前が倒れたら全部終わる』と、言ってくれた方ですね」
「うん」
ブリジットは、そこで、一度、火床の方に目をやった。
「言っとくけど、海人」
「はい」
「あの人は、金じゃ、動かないよ」
「……金じゃ、動かない」
「いくら積んだって、本人が筋に合わないと思ったら、首を縦に振らない。そういう人だ。逆に、筋が合えば、無料でも、来る。そういう人だ」
「筋、ですか」
「あの人の中の、火の筋だ。うまく言えないんだけど」
ブリジットは、組んだ腕を、一度、ほどいた。それから、両手を、軽く擦り合わせた。
「あの人は、火の前に立つ年数で、人を値踏みする。何年、火と付き合ってきたか。何回、失敗を、自分で抱えてきたか。何本、駄目にした材を、自分の目の前に、積んできたか。その数で、相手を、見てる」
「……はい」
「だから、報酬の話を先に出すと、たぶん、最初の十秒で、もう聞かない。『俺の火は、そういう値段じゃ動かねぇ』って、それで終わる」
「分かります」
「逆に、何を作るか、誰のためか、その材を、誰が、どうやって、駄目にしないように削るか——その話を、先に置けば、聞く」
ブリジットは、伊勢の方を、まっすぐ見た。
「だから、グレアムさんに持っていく絵は、いくらかかるかの絵じゃない。何を、誰のために、どう削るかの絵だ」
「……分かりました」
「呼ぶのは、私から、行く」
「はい」
「私が頭を下げるんだ。海人が、頭を下げる話じゃない」
「分かりました」
「ただし」
ブリジットは、伊勢の方を、もう一度、見た。
「グレアムさんに、何を頼むかの絵は、海人と、私と、二人で、組み立てる」
「はい」
「四店舗分の親容器を、いつまでに、何本、誰がどの工程を担って、削り上げる——その絵を、まず作る。その絵を、私が、持って、グレアムさんのところに、行く」
「分かりました」
「絵がない手土産で、あの人のところに行くのは——失礼にあたる」
ブリジットは、それだけ言って、また腕を組んだ。組んだ腕の力は、いつもより、少しだけ強かった。
◆
奥から、マルコが、戻ってきた。
手には、もう薪は抱えていなかった。代わりに、奥の作業台を片付け終えた、という顔をしていた。
「親方、奥、片付きました」
「ああ」
「お茶、いれましょうか」
「いや、今日はいい。海人と、これから、絵を描く」
「絵」
「親容器、四店舗分。誰が、どの工程を、何本、いつまでに削るか」
マルコは、ぴたりと、足を止めた。煤で黒くなった頬の下で、口が、少しだけ、開いた。
「四店舗——」
「うん」
「親方、一人で、ですか」
「いや」
ブリジットは、マルコの方を、見た。
「グレアムさんを、呼ぶ」
マルコの目が、一度、強く、瞬いた。
「グレアムさんを」
「うん」
「親方が、呼ぶんですか」
「私が、行く。お前は、留守の間、火床と、刃を、絶対に、落とすな」
「はい」
「あと、これは、海人にも、聞いておけ」
ブリジットは、伊勢の方を、顎で示した。
「今までの量は、ここまでで、ここから先は、形が、変わる。ここの工房も、たぶん、形が、変わる。お前が、ここで覚えた仕事の手順も、増えるか、減るか、分けるか、する」
「はい」
「お前の、火の見方は、信じてる。だから、今のうちに、聞いておけ」
「はい、親方」
マルコは、その「はい」を、いつもより、深い息で返した。煤で黒くなった頬の上で、目だけが、少し、明るく見えた。
◆
工房を出るとき、伊勢は、戸口で、もう一度、火床の方を振り返った。
火は、低く、まだ爆ぜていた。ブリジットは、作業台の上に紙を広げて、マルコと並んで、何かを書き始めていた。書いているのは、たぶん、四店舗分の絵の、一番最初の線だった。
伊勢は、戸を、静かに、閉めた。
◆
通りに出ると、空は、もう、すっかり明るくなっていた。
雲は、薄く、流れていた。風は、頬を撫でていく速度が、行きより、もう少しだけ、穏やかだった。伊勢は、石畳の上で、一度だけ、深く、息を吐いた。
(足りないかもしれません、を、先に置いた)
頭の中で、その動きを、もう一度、確かめた。
ブリジットは、「足りない」とは、言わなかった。「私の腕一本で押すのは、無理だ」と言った。形の話だ、と言った。そして、自分から、グレアムの名前を出した。自分から、頭を下げに行く、と言った。
ラッジも、自分から、合わない相手の名前を出した。ハーグ、と。自分から、行く、と言った。
(自分から、名前を出す——その動きが、二日続いた)
心の中で、それだけ置いた。
伊勢の側が、先に「持っていない」「足りないかもしれない」を置きに行ったとき、相手の側は、自分の言葉で、自分の動きを、自分から、出した。「言わせる」のではなく、「先に置きに行く」と、相手は、自分の形で、動いた。
そして、ブリジットは、もう一つ、別のことを、伊勢に渡してきた。
グレアムは、金では動かない。筋で動く。だから、持っていく絵は、いくらかかるかの絵ではなく、何を、誰のために、どう削るかの絵だ、と。
(相手によって、置きに行く絵の、形が、違う)
心の中で、それだけ、もう一つ、置いた。
ラッジには、帳面の数字で置いた。シャウプには、白紙の四つの言葉で置いた。ブリジットには、「足りないかもしれません」を、先に置いた。グレアムには、たぶん、削り方の絵で、置きに行く。
半分は、回っていた。
回りながら、相手ごとに、形を、変えていた。
◆
ギルドの方に、足を向けた。
次は、シャウプに、棚の話の進捗を、置きに行く番だった。ギルドの窓口の話は、シャウプ次第だった。それから、リリアに、作り方の話を、渡しに行く番が、来る。
最後に置いた言葉のことは、まだ、考えないことにした。
考えないと決めた、その場所のことが、頭の隅で、静かに、しかし、確かに、待っていた。
空の上のほうで、薄い雲が、ゆっくりと、流れていた。




