棚を増やすという話
ラッジの店の扉は、今日は、きちんと開いていた。
昨日のような半開きではなかった。客が入ってもいい、という形の開き方だった。扉の脇には、いつもの竹箒が立てかけてあった。風が、店の奥の暖簾を、少しだけ揺らしていた。
伊勢は、扉をくぐった。
◆
「ラッジさん」
「ああ」
ラッジは、棚の前にいた。下段の石化木の前に、しゃがんでいた。指で、容器の縁を一度だけ撫でて、立ち上がった。立ち上がるときに、膝が一度、軽く鳴った。
「中身、減ってる」
「はい」
「昨日の昼から、また減ってる」
「そうですか」
「驚かんな」
「ええ」
伊勢は、棚の下段を、ラッジと同じ角度から見た。石化木は、布の上に、昨日と同じ姿で置かれていた。中身は、外からは見えなかった。減っていることは、ラッジが帳面で見ている数字でしか、分からなかった。
「シャウプさんに、話してきました」
「ふん」
「四つの壁を、白紙に書いて、机に置きました。順番は、シャウプさんがつけてくれました」
「順番」
「触れやすい順から、ほどく、と」
「で、最初は」
「棚です」
ラッジは、伊勢の顔を、一拍だけ見た。それから、棚の前から、帳面のある場所へ歩いた。歩く速度が、いつもより少しだけゆっくりだった。
◆
「棚から、来たか」
「ええ」
ラッジは、帳面の前に立った。だが、今日は、帳面を開かなかった。開かないまま、上に手を置いた。
「俺は、昨日、半分、お前に渡した」
「はい」
「お前は、それを、持って帰って、ちゃんと考えてきた」
「シャウプさんと、半分ずつ、考えました」
「ふん」
ラッジは、鼻で笑った。笑い方は、いつもの不機嫌のような笑い方だったが、声には、機嫌の悪さは、なかった。
「で、棚から、ってのは、どういう話だ」
「ラッジさんに、配置の話を、こちらから持ち出すか、ラッジさんから出してもらうか——シャウプさんは、ラッジさんから出してもらうのが早い、と言いました」
「俺から」
「はい」
「お前、それをそのまま、俺に言うのか」
ラッジの顔の、口の端が、少しだけ上がった。
「言ってしまったら、俺から出した話には、ならんぞ」
「……すみません」
「ふん」
ラッジは、帳面の上から手を離して、顎を撫でた。撫でながら、しばらく、棚の方を見ていた。
◆
「まあ、いい」
「いい、ですか」
「俺から出すか、お前から出されたか、そんなのは、商売の本筋には関係ない。中身が、合うか、合わんか、それだけだ」
「はい」
「で、中身の話だ」
ラッジは、帳面を開いた。今日は、開くのが速かった。
「俺の店、一店舗じゃ、これは、捌けん」
「……そう、ですか」
「驚かんのか」
「驚きません」
「ふん」
ラッジは、ある列の数字を、指で叩いた。
「葉っぱの方も、液体の方も、両方の動きが、俺の棚の容量を、もう超えかけてる。容量、というのは、置く場所の話じゃない。回す手の話だ。俺と、店番の小僧、二人だ。二人で、これ以上の数を、毎日触れない」
「分かります」
「他に、置ける場所は、二つか三つある」
「二つか三つ」
「ギルドの窓口。宿の組合。それから、あんまり言いたくないが——」
ラッジは、そこで、少しだけ言葉を切った。
「東通りの、別の道具屋だ」
「東通りの」
「ハーグの店だ。あいつとは、若い頃から、合わん。合わんが、品の動きを見る目は、悪くない。あいつの店に置けば、別の客層に届く」
伊勢は、ラッジの顔を見た。ラッジは、帳面を見ていた。視線は、帳面から動かなかった。
(合わない相手の名前を、自分から、出した)
心の中で、その動きだけを、置いた。
◆
「ギルドの窓口は、シャウプさんに話します」
「そうしろ」
「宿の組合は、ラッジさんから、声をかけてもらうのが、たぶん、早いです」
「俺から、宿に話す」
「ハーグさんは——」
「俺が、行く」
ラッジは、帳面を閉じた。閉じてから、上に手を置いた。
「合わん相手だ。合わん相手のところに、お前が一人で行って、商品の話をするのは、たぶん、うまくいかない。あいつは、俺の顔を見てから話す男だ」
「分かりました」
「ただし、行く前に、一つ、確かめさせろ」
「はい」
「容器だ」
ラッジは、棚の下段の石化木を、目で示した。
「これが、一店舗分、棚に置けるだけ、削れるのか。三店舗分、四店舗分、要るぞ。お前、それを、持ってきてないだろう」
「……持っていません」
「ふん」
「容器は、棚の次に、ほどきます」
「順番が、そうなってるなら、いい」
ラッジは、それだけ言って、また帳面を開いた。
「俺は、宿に話を入れる。ハーグの方は、容器の見通しが立ってから、行く。ギルドの窓口は、シャウプさん次第だ」
「はい」
「お前は、ブリジットのところに、行け」
「はい」
「行く前に、一つ、覚えておけ」
ラッジは、帳面から目を上げて、伊勢を見た。
「あいつに『工房の手数が、足りない』を、あいつの口から言わせるな」
シャウプと、同じことを、ラッジが言った。
伊勢は、一度だけ、息を止めた。
「分かりました」
「ふん」
ラッジは、また帳面に目を落とした。落としてから、顎を撫でた。
「同じ話を、別の人間が、別の場所で、同じように言うってことは——たぶん、それが正しい話だ」
◆
店を出て、伊勢は、東の空を見た。
雲は、もう、薄かった。昨日の朝より、空の青が、少しだけ深くなっていた。風は、まだ冷たかったが、頬を撫でていく速度が、昨日より穏やかだった。
(棚の話が、動いた)
頭の中で、四つの言葉が、また並び直していた。棚は、ラッジが、宿と東通りに、自分の足で持っていく。ギルドの窓口は、シャウプに渡す。残るのは、容器、作り方、薬草。容器は、これから、ブリジットの工房だった。
ラッジは、合わない相手の名前を、自分から出した。出した、ということが、伊勢の中に、まだ、残っていた。商売の話としては、当たり前の動きなのかもしれなかった。だが、帳面の前で顎を撫でながら、ハーグ、と名前を口にしたときの、ラッジの目は、いつもとは、少しだけ違っていた。
合わない相手のところに、一人で行かせない、と、ラッジは言った。
あれは、商売の話だけ、ではなかった気がした。
(半分、と言う言葉の意味が、また、少しだけ広がった)
心の中で、それだけ置いた。
◆
工房への道を歩きながら、伊勢は、ラッジに言われたことを、頭の中で、もう一度、反芻した。
工房の手数が足りない、を、ブリジットの口から、言わせない。
シャウプも、同じことを言った。ラッジも、同じことを言った。二人とも、ブリジットを、長く見てきた人間だった。シャウプは、街の上から。ラッジは、商売の隣から。違う角度から見ていて、同じ結論を、同じ言葉で、伊勢に渡した。
伊勢は、自分が、どれくらい量を増やす必要があるのかの絵を、頭の中で組み立てた。一店舗から、三店舗、四店舗に増えるなら、容器は、最低でも、その分だけ要る。子容器の方は、木製で、別の鍛冶屋でも作れる。だが、親容器の石化木は、ブリジットの工房でしか削れない。
ブリジットの工房だけでは、追いつかない。
その答えは、伊勢の側に、もう、あった。
あとは、それを、ブリジットに、どう渡すか、だった。
◆
工房の煙突から、白い煙が、まっすぐ上がっていた。
今日は、火床が、よく燃えているらしかった。マルコが、表で、薪を運んでいるのが見えた。煤で頬が黒くなっていた。
伊勢は、足を止めずに、工房の方へ、歩き続けた。
ブリジットには、答えを持って、行く。ただし、その答えは、ブリジットに「足りない」と言わせるためのものではなかった。
ブリジットに、足りない、と言ってもらうのではなく、こちらが先に、足りないかもしれません、と置きに行く。
その順序を、間違えないように、と、自分に、もう一度、言い聞かせた。




