持っていない、ということ
翌朝、伊勢は、いつもより少しだけ早く宿を出た。
通りはまだ薄暗かった。パン屋の窓から漏れる灯りだけが、石畳の上に四角い影を落としていた。冷えた空気が、頬の肌をひんやりと撫でた。手には、昨日書いた紙を一枚だけ、上着の内側に挟んでいた。四つの言葉が並んでいる、白い紙だった。
(持っていない、ということを、伝えに行く)
頭の中で、もう一度、その形を確かめた。確かめる、というよりは、確かめる動作で、自分の足を前に運ばせている、という方が近かった。
◆
ギルドに着くと、シャウプはもう机にいた。
扉を開けた瞬間、伊勢は湯呑みの位置を見た。今日は、机の左奥にあった。昨日は手前にあった。位置は、また動いていた。
「来たか」
「おはようございます」
「座れ」
シャウプは、書類を一枚脇によけた。脇によける動作は、いつもより少しだけ丁寧だった。話を聞く、という構えに、机の上を整えた、という形だった。伊勢は、シャウプの正面の椅子に座った。
「重い話なんだろう」
「ええ」
「答えは、持ってきてないな」
伊勢は、一度、目を落とした。それから、上着の内側から紙を出した。机の上に、紙の向きをシャウプの側にして置いた。
「持ってきていません」
「ふん」
シャウプは、机の上の紙を見た。一番上に「液体回復薬の、想定外の動きについて」と書かれていた。その下に、四つの言葉が並んでいた。薬草。作り方。容器。棚。
シャウプは、紙を見たまま、しばらく動かなかった。それから、指で、机を一度、軽く叩いた。
◆
「昨日、ラッジが帳面を見せてくれました」
「ああ」
「想定の倍、出ています。昨日は二倍を超えました。初日の珍しさでは、説明がつきません」
「ふん」
「葉のままの薬草と、液体に回す分の合算が、農園と採取者の供給を超える日が、近いそうです」
伊勢は、そこで一度、言葉を止めた。
「容器の方も、ブリジットさんの工房だけで足りるかどうか、たぶん追いつきません。あれは、もともと『あまり出ない』前提で削っていた容器でした」
「ふん」
「作り方は——」
伊勢は、少し詰まった。
「誰がどの工程を回しているか、私は、書類の上では把握しています。ですが、現場の動きとして、本当に分かっているとは、言えません」
「棚は」
「ラッジさんの店、一店舗です。配置を広げる話と、つながるかもしれません」
伊勢は、それだけ言って、また紙を見た。シャウプは、紙の四つの言葉を、指の腹で、一つずつなぞった。順番は、上から下、だった。なぞり終えてから、指を引いた。
「四つ、か」
「はい」
「お前一人で、同時に押せる壁じゃないな」
「ええ」
「分かってて、来たな」
「分かってきました」
シャウプは、鼻で笑った。笑い方は、いつもの笑い方だった。だが、目は笑っていなかった。目は、紙の上の四つの言葉を、まだ見ていた。
◆
「順番をつけろ」
「はい」
「四つを並べただけじゃ、何も動かない。お前が、どれを先に動かすか、決めなきゃ、誰も動けん」
「決められません」
伊勢は、即答した。即答した、ということが、自分でも少しだけ意外だった。
「決められないから、お持ちしました」
「ふん」
シャウプは、椅子の背にもたれた。腕を組んだ。組んだまま、しばらく天井の方を見ていた。それから、目を下ろした。
「四つの中で、一番、触れにくいのは、どれだ」
「……薬草、です」
「なぜ」
「採取者の動線が、また繊細になります」
伊勢は、そこで、声がほんの少しだけ低くなったのに、自分で気づいた。
「以前、一人を失った場所です」
シャウプは、何も言わなかった。腕を組んだまま、机の脇の湯呑みを、目だけで一度見た。手は伸ばさなかった。
「触れにくい順から、並べたらどうなる」
「薬草、作り方、容器、棚、です」
「逆から行け」
「逆、ですか」
「触れやすい順に、ほどく」
シャウプは、そう言って、指で机を一度、軽く叩いた。
「棚から行く。次に容器。次に作り方。最後が薬草だ」
「……はい」
「薬草は、最後にする。最後にする、というのは、避ける、という意味じゃない。先に他の三つを、ある程度、片づけてから触る、という意味だ。最初に触ると、たぶん、あの男のことを、もう一度引き出すことになる。引き出すなら、こちらの足元を、ある程度、固めてからの方がいい」
(あの男)
伊勢の中で、その言葉が、一度だけ静かに転がった。シャウプは、トーマスの名前を、口にしなかった。口にしないまま、あの男、と言った。
「分かりました」
「これは、俺の経験で言ってる。お前の判断じゃない。俺の」
シャウプは、そう付け足した。付け足し方が、いつもとは少しだけ違った。
◆
伊勢は、紙の上に、もう一度目を落とした。
四つの言葉の順番が、今、頭の中で、入れ替わった。棚、容器、作り方、薬草。逆から、ほどく。シャウプは、それを「俺の経験で言ってる」と言った。経験、という言葉を、シャウプは、これまであまり使わなかった。
(この人は、いま、自分の経験から、何かを引き出した)
心の中で、それだけ置いた。シャウプは、湯呑みの方を、もう一度だけ目で見た。それから、ようやく、手を伸ばした。湯呑みを口元に近づけて、止めた。中身は、確かめなかった。湯呑みを、机の上の、また別の位置に置いた。今度は、紙のすぐ脇だった。
位置が、また動いていた。
「動いてみろ」
「はい」
「棚から行くなら、まずラッジに、もう一度話せ。配置を広げる話を、向こうから出してもらうのが、たぶん早い。ラッジは、昨日、もう半分こっちに渡してきている。次は、こちらが半分返す番だ」
「分かりました」
「容器の話は、ブリジットに渡す前に、お前の中で、どう量を増やすかの絵を、少しだけ持っておけ。ブリジットに『工房の手数が足りない』を、ブリジットの口から言わせるのは、酷だ」
「……はい」
「作り方は、リリアに頼め。誰がどの工程を回しているかは、人事局の側から見た方が早い。お前が一人で歩いて回るより、リリアの台帳の方が正確だ」
「分かりました」
「薬草は、最後だ。それまでに、あとの三つを動かしながら、考えておけ」
シャウプは、それだけ言って、書類の山に手を戻した。手を戻す動作は、これ以上は、お前が動く番だ、という形だった。
◆
伊勢は、紙を内側に折って、内ポケットに戻した。立ち上がる前に、もう一度だけ、シャウプを見た。
「シャウプさん」
「ああ」
「ありがとうございました」
「礼はいい」
シャウプは、書類から目を上げずに、そう言った。一拍だけ、間が空いてから、また続いた。
「……俺も、昔、似たような壁を見たことがあるんだ。今のお前ほど、うまくは、ほどけなかった」
声は、低かった。
伊勢は、その一言に、どう返していいか、分からなかった。聞き返すべきか、聞き流すべきか、迷った。迷ったまま、結局、何も聞かなかった。聞かないことが、たぶん、今の正解だった。
「行きます」
「ああ」
シャウプは、それだけ返して、書類のページをめくった。湯呑みは、紙のすぐ脇に、置いたままだった。
◆
ギルドを出て、伊勢は、通りの石畳の上で、一度だけ深く息を吐いた。
空は、もう明るくなっていた。朝の冷たい空気が、額を冷やしていった。
(順番が、ついた)
四つの言葉が、頭の中で、上から下へ、並び直していた。棚、容器、作り方、薬草。一つずつ、ほどく。一人で押すのではなく、誰かに渡す形で、ほどく。ラッジに、ブリジットに、リリアに。それから、最後に、薬草。最後に置いた、その場所のことは、まだ、考えないことにした。シャウプが、最後にしろ、と言った。それを、今は、預かることにした。
ラッジに渡してもらった半分を、シャウプに、もう半分置いてきた。シャウプは、それを受け取って、順番をつけて、こちらに返してくれた。返してくれたのは、答えではなかった。動き方の、形だった。
(半分ずつ持つ、というのは、こうやって、回っていくものなのかもしれない)
伊勢は、ラッジの店の方へ、足を向けた。歩き出した足は、昨日よりも、少しだけ軽かった。重さが消えたわけではなかった。重さの中身が、変わった。
持っていない、ということを、伝えに行った。持っていないまま、戻ってきた。だが、戻ってきた手の中には、順番、という形のものが、一つだけ、入っていた。
空の上のほうに、薄い雲が、ゆっくりと流れていた。
最後に置いた言葉のことは、まだ、考えないことにした。




