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出向先は、剣と魔法と人事部でした 〜評価されなかった社会人の異世界改革〜  作者: 怪獣姫


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面倒な数字

 翌朝、ラッジの店は、扉が半分だけ開いていた。


 伊勢は、通りを折れて、その半開きの扉を見た。半開きは、店主が中で手を動かしている、という合図だった。客が入って邪魔されたくないわけではなく、ただ、開けに行く時間が惜しい、という形の半開きだった。


 中に入ると、ラッジは帳面の前にいた。普段の朝より、帳面が分厚く見えた。前のページを、何度かめくり直していた。



「礼はいらん」

「来ました」

「ああ」


 ラッジは顔を上げなかった。指で、帳面のある行を押さえたまま、別のページを開いた。


「面倒な数字だ」


 声には、いつもの不機嫌のような響きはなかった。むしろ、平らだった。


「動きが、ありましたか」

「動きすぎてる」


 ラッジは、ようやく顔を上げた。帳面を、伊勢の側に少しだけ向けた。覗き込んでいい、という意味だった。伊勢は身を寄せて、数字を見た。


 数字の意味は、すぐには分からなかった。だが、ある列の数字が、別の列の数字より、明らかに早く減っていた。


「これは、何の」

「液体の方の、出だ」

「出ですか」

「棚から消えていく数。一日で、これくらい消えるだろうと、俺は最初に見積もっていた。三日前に置いたとき、だ」


 ラッジは、別の行を指で叩いた。


「実際は、その倍だ。昨日は、二倍を超えた」


 伊勢は、しばらく数字を見ていた。それから、目を上げた。


「想定の、倍」

「ああ」


「初日は、棚に置いたばかりで珍しさが、というのは」

「俺もそう思った。だから昨日まで黙ってた」


 ラッジは帳面を一度閉じて、もう一度開いた。


「珍しさは、二日目には落ちる。三日目にはもっと落ちる。それが商売の普通だ。だが、これは落ちてない。むしろ、二日目より三日目の方が、出てる」


「……」


「面倒な数字だ」


 ラッジは、もう一度同じことを言った。今度は、少し低かった。



 伊勢は、立ったまま、しばらく考えた。


 もともと、液体回復薬は、薬草の余りを寝かせるために作ったはずだった。葉のままでは保存が効かない、廃棄が出る、それを濃縮して液体にすれば、長く置ける——そういう、在庫の出口の話だった。


 だから、棚に置いた石化木も「あまり出ない」前提の容器だった。にじまないこと、長く置けること、それが大事だった。早く減ることは、想定していなかった。


「ラッジさん」

「ああ」

「これ、このまま行くと」

「薬草の在庫が、先に切れる」


 ラッジは、伊勢の言葉を待たずに、答えを置いた。


「葉っぱのままで売る分と、液体に回す分と、両方の在庫が減ってる。葉っぱの方は、最近少し動きが戻ってきていた。液体は、想定の倍だ。両方の足し算が、農園と採取者の供給を超える日が、たぶん近い」


「いつ頃」

「分からん。だが、今月のうちに一度、足りない、と言わなきゃいけない日が来る気がする」


 ラッジは、顎を撫でた。


「俺は、数字で見てる。合わなきゃ止める。これは、合ってない」


 言い方は、いつもの言い方だった。だが、合ってない、という言葉の重さが、いつもとは違って聞こえた。



 伊勢は、棚の下段を一度見た。


 石化木は、布の上に静かに置かれていた。三日前と同じ場所、同じ姿だった。中身が、想定より早く減っていることは、外からは見えなかった。にじみは、ゼロのままだった。


(容器は、仕事をしている)


 容器は、想定通りに動いていた。漏れない。長く置ける。問題は、容器の外側で起きていた。

 保管のために作った容器が、いま、流通の容器になりつつある。前提が、ずれていた。


「ラッジさん。少しだけ、考えさせてください」

「ああ」

「答えは、たぶん、すぐには出ません」

「分かってる」


 ラッジは、帳面を閉じた。閉じてから、上に手を置いた。


「言っとくが、これは、悪い数字じゃない」

「ええ」

「客が買ってる、というのは、いいことだ。それは間違いない。ただ——」


 ラッジは、少し言葉を切った。


「いいことが、こっちの想定を超えて起きると、店は、傾く」

「……はい」

「面倒なんだよ、こういうのが、一番」


 ラッジは、それだけ言って、また帳面を開いた。閉じてから開くまでが、いつもより短かった。



 店を出て、伊勢は、通りの石畳の上で一度立ち止まった。


 いいことが、想定を超えて起きると、店は傾く。


 ラッジの言葉が、頭の中に残っていた。これまで自分が解いてきた問題は、たいてい「足りない」「届かない」「使われない」の側だった。回復草が潰れる、術式が使われない、装備が選べない、薬草が余る。足りない側を、足りる側に動かすのが、自分の仕事だった。


 今日は、逆だった。


 売れすぎている。これは、足りない側の問題ではなかった。多すぎる、の側の問題だった。それも、悪い意味で多いのではなく、いい意味で多かった。


(成功の、形をした、問題か)


 心の中でだけ、その言葉を置いた。


 葉のままの薬草と、液体回復薬と、両方が動いている。両方を足すと、採取者と農園の供給を超える。供給を増やそうとすれば、採取者の動線がまた繊細になる。その動線は、以前、一人を失った場所だった。


 容器は、ブリジットの工房で、二本目と三本目を順次削っている。だが、量産が前提なら、ブリジットの工房だけでは、たぶん追いつかない。あれは、もともと「あまり出ない」前提の容器だった。


 作り方の側は、誰が作っているのか、伊勢自身、正確に把握していなかった。最初は試作で、自分とリリアと、何人かが手を動かした。その後、誰がどの工程を回しているのか、書類の上では把握しているつもりだったが、現場の動きとして、本当に分かっているとは言えなかった。


 壁は、一つではなかった。薬草の側、作り方の側、容器の側、棚の側——四つくらい、すぐに数えられた。


 四つの壁を、自分一人で同時に押すのは、無理だった。



 ギルドへの道で、伊勢は、足の運びがいつもより重いのに気づいた。昨日とは逆だった。昨日は、重い話をしてきたはずなのに軽かった。今日は、何も決めずに店を出てきたのに、重かった。


 重さの中身が、違っていた。


 昨日の重さは、自分の判断の重さだった。誰かに伝えるか、伝えないか、いつ伝えるか、という、自分の中の問題だった。


 今日の重さは、構造の重さだった。自分の判断ではどうにもならない、現場と現場の間にある、流れの重さだった。


(一人で押す壁では、ない)


 伊勢は、もう一度、その言葉を確かめた。


 ラッジが、帳面を閉じた手の置き方を思い出した。閉じてから、上に手を置いた。あれは、自分一人では決めない、という置き方だった、と今は思った。ラッジは、数字を見てしまった。だから、伊勢に渡した。それは、ラッジが昨日「動きがあったら言え」と言ったことの実装だった。


 ラッジは、半分こちらに渡してきた。


 残り半分は、たぶん、自分の側にあった。だが、その自分の側の半分も、自分一人で抱えるべきものではなかった。シャウプがいた。ブリジットがいた。リリアがいた。採取者の側にも、農園の側にも、人がいた。


 今日のうちに、答えは出ない。


 明日、シャウプに、まず話そう、と決めた。


 動きがあれば、伝える。それは、ブリジットにもラッジにも約束したことだった。シャウプには、毎日のように顔を合わせていながら、こういう構造の話を、まだ自分から切り出したことがなかった。今度の話は、シャウプから何かを引き出すための話ではなかった。シャウプの判断を、自分の側に半分置きに行く話だった。


(半分ずつ持つ、というのは、こういうときに使う言葉なのかもしれない)


 伊勢は、また歩き出した。足は、まだ少し重かった。だが、重いまま歩く、ということが、今日はできそうだった。



 ギルドに着くと、シャウプは机にいた。湯呑みは、今日は手前にあった。昨日は右上にあった。位置は、また動いていた。


「ふん。来たか」

「ええ」

「ラッジの店に、寄ったな」

「分かりますか」

「お前の顔を見れば分かる」


 シャウプは書類から目を上げて、伊勢を短く見た。


「重そうな話か」

「……たぶん」

「いま、するか」

「いえ、明日、お時間をください」


 伊勢は、それだけ言った。今日のうちに話せる形に、まだなっていなかった。


「明日の朝でいいか」

「はい」

「分かった」


 シャウプは、それだけ言って、また書類に戻った。湯呑みには、手を伸ばさなかった。

 伊勢は自分の机に座って、書類を一枚広げた。書きはじめる前に、一度だけ手を止めた。

 書く順番が、たぶん、いつもと逆だった。今日は、答えから書く回ではなかった。問いから書く回だった。


 「液体回復薬の、想定外の動きについて」と、白紙の一番上に書いた。それから、その下に、四つの言葉を、並べて書いた。


 薬草。作り方。容器。棚。

 四つを書いてから、伊勢は、しばらく書類を見ていた。

 四つを、明日、シャウプの前に置く。

 それが、今日できる、唯一のことだった。



 夜、宿への道で、伊勢は十七、という数字を頭の中に置いた。


 昨日の十八が、十七になっていた。減っていた。だが、今日は、その数字よりも、別の数字が頭の中にあった。


 ラッジが、想定の倍、と言った数字。


 その倍が、これからどう動くかは、分からなかった。落ち着いて、想定通りに戻るかもしれなかった。さらに増えるかもしれなかった。ラッジは、合ってない、と言った。合ってない数字を、合うように動かすのは、自分の仕事のはずだった。


 ただ、今度は、自分の仕事の輪郭が、これまでよりも広かった。


 束ね加工も、術式の再配置も、点検サービスも、リペア連携も、これまでは「現場と現場の間に、小さな橋を架ける」仕事だった。橋は、自分一人で設計図を引けた。


 今度は、橋ではなかった。


 流れだった。流れを変えるのは、橋を架けるのとは、違う仕事だった。


(明日、シャウプに渡す)


 伊勢は、宿の前で立ち止まった。空はもう暗かった。明日の朝、四つの言葉を、机の上に置く。


 答えは、自分が持っていなかった。


 持っていない、ということを、明日、伝えに行く。


 それも、たぶん、伝えるということの、一つの形だった。

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