半分ずつ持つ
朝、空気は冷えていた。
伊勢は宿を出て、ギルドへ向かう前に、まずブリジットの工房へ足を向けた。石化木は、昼に運ぶ予定だった。だが、運ぶ前に一度、行っておきたかった。昨日の夕方、宿への道で決めたことがあった。
半年で戻るかどうかは、まだ決まっていない。決まっていない、ということを、ブリジットに、もう一度きちんと伝える。決めるときには、伝える、と。
それは、答えを伝えに行くのではなかった。順序を伝えに行くのだった。
通りを折れると、煙突から細い煙が立っていた。今日は、昨日よりも煙が真っ直ぐだった。
◆
扉を押すと、火床はもう赤くなっていた。マルコが鞴を踏んでいた。煤がまた頬についていた。
「あ、伊勢さん。早いですね」
「ええ。少しだけ、ブリジットさんに」
マルコは奥を指で示して、また鞴に戻った。今日のマルコは、昨日とは違って、奥で何が話されるかを察する顔ではなかった。仕事の朝の顔だった。
奥の部屋には、ブリジットがいた。作業台に向かって、刃の角度を確かめていた。鉄工用の刃だった。今日はもう、油は塗り終えていた。
「来たね、海人」
ブリジットはこちらを見ずに言った。声は、いつもの抜けた高さに戻っていた。
「昼に運ぶ、って話だろ。早すぎる」
「すみません、その前に、一つだけ」
ブリジットは刃を布の上に置いて、こちらを向いた。腕は組まなかった。
「なに」
「昨日のことなんですが」
伊勢は一度息を整えた。
「半年で戻るかどうか、まだ決まっていません。中央に、まだ何も返していません」
「うん」
「ただ、決めたら、必ず伝えます。決まる前にも、何か動きがあれば、伝えます」
ブリジットは少しの間、何も言わなかった。それから、鼻から短く息を吐いた。
「それを、わざわざ言いに来たの」
「ええ」
「朝早くに」
「ええ」
ブリジットは、笑わなかった。でも、怒ってもいなかった。火床の方を見て、それから、こちらに目を戻した。
「分かった」
それだけだった。
「明日からのことは、私は普通に削るよ。海人がいてもいなくても、二本目と三本目は仕上げる。それは、海人の話とは別だ」
「はい」
「ただ——伝えてくれたのは、よかった」
ブリジットは少し顎を引いた。短い肯きだった。それから、刃を持ち直した。
「昼、待ってる」
◆
工房を出ると、通りの先がまだ少し薄暗かった。
伊勢は、ギルドへの道を歩きながら、自分の足の運びがいつもより軽いのに気づいた。重い話をしてきた、はずだった。だが、軽かった。
(伝えるって、こういうことか)
答えを持っていなくても、伝えられることはあった。むしろ、答えがないことを伝えるためにこそ、口を開く必要があるのだった。
昨日の夜に決めたとき、自分は「順序の話だ」と思った。だが今朝、足を運んで、ブリジットの「分かった」を聞いて、別のことが分かった。
順序を伝えるというのは、相手に「ここに置いてもらっている」という事実を、こちらから先に渡すことだった。
ブリジットは、その事実を昨日、自分で取りに行かされたのだ。リリア経由で。
それは、もう繰り返してはいけなかった。
◆
ギルドに着くと、シャウプはすでに机にいた。湯呑みは、まだ手前に置かれていた。中身は、伊勢の位置からは見えなかった。
「ふん。早いな」
「ええ」
「工房に寄ったか」
伊勢は、少し驚いた。シャウプはこちらの顔を見ていなかった。書類を読んでいた。
「分かりますか」
「お前の靴に、粉がついてる」
石化木の粉だった。昨日、工房の床に薄く残っていたものを、踏んでいたらしかった。伊勢は、靴の先を見た。確かに、白い粉が薄くついていた。
「昼に運ぶんだろ」
「はい」
「ラッジには、声をかけてあるな」
「これからかけに行きます」
「行ってこい」
シャウプは、それだけ言った。湯呑みに手は伸ばさなかった。書類を裏返して、別のものを読み始めた。
伊勢は一礼して、ギルドを出た。出る前に、リリアの方を一度だけ見た。リリアは書類を整えていた。目は合わなかった。だが、リリアの肩のラインが、昨日よりほんの少しだけ、こちらに開いていた気がした。
◆
ラッジの店は、朝の搬入のあとで、店主が帳面を広げていた時間だった。
「礼はいらん」
伊勢が扉を開けた瞬間、ラッジは顔を上げる前にそう言った。
「まだ、何も言っていません」
「言うつもりだったろ」
ラッジは帳面を指で叩いた。顎を撫でて、それから少しだけ笑った。不機嫌そうな顔のままだったが、目は笑っていた。
「昼に運ぶんだな」
「はい」
「下段は、空けたままだ。布も敷いたままだ」
「お願いします」
伊勢は、ここで一度、息を整えた。順序、と昨日決めたことがあった。ラッジは書簡のことを知らない。マルコも知らない。今日、知らせるかどうかは、別の話だった。だが——一つだけ、伝えておくべきことがあるかもしれなかった。
「ラッジさん」
「ああ」
「あの石化木、ブリジットさんがあと二本、削ります。そのあと、もう一本」
「聞いてる」
「三本目が、いつ仕上がるかは、まだ分かりません」
ラッジは、帳面から目を上げた。顎を撫でる手が止まった。
「鍛冶屋の手の話か」
「いえ」
伊勢は、少し迷ってから、
「私の、配置の話、かもしれません」
と言った。
◆
ラッジは、すぐには返さなかった。
帳面を一度閉じて、また開いた。それから、店の奥の棚を見た。下段が、布を敷いたまま、空いていた。
「面倒な話だな」
ラッジは、いつもの言い方で言った。
「決まったか」
「決まっていません」
「いつ決まる」
「あと十八日のうちに、何か返さなければいけません」
ラッジは、ふん、と鼻で笑った。笑いには、苛立ちは含まれていなかった。
「決まったら言え」
「はい」
「決まる前でも、動きがあったら言え」
「はい」
「俺は、棚を空けて待ってるだけだ。それは変わらん」
ラッジはそれだけ言って、また帳面に戻った。指で帳面を叩く音が、二度、店の中に響いた。
伊勢は一礼して、店を出た。出る前に、棚の下段をもう一度見た。布の上に、まだ何もなかった。
昼には、そこに石化木が置かれる。
◆
通りを歩きながら、伊勢は、自分が今朝から二人に同じ話をしたことを思い返した。ブリジットには「決まったら伝える」と言った。ラッジにも、同じことを言った。
ただ、ラッジには「自分の配置の話、かもしれません」とまで言った。ブリジットには、そこまで言わなかった。
(言葉が、相手によって違う)
それは、ずるいことだろうか、と一瞬思った。すぐに、首を振った。
ブリジットは、昨日「先に言え」と言った。だから、今朝は事実だけを伝えた。ラッジは、商売人だった。商売人には、商売の語彙で話すのが筋だった。配置、という言葉は、ラッジに対して使う言葉だった。
順序を伝えるというのは、同じ事実を全員に同じ言葉で伝えることではなかった。相手が受け取れる形で渡す、ということだった。
マルコには、まだ言わなかった。それは、シャウプが伝えるべきか、ブリジットが伝えるべきか、伊勢自身が伝えるべきか、まだ決まっていなかった。決まっていないことを、決まっていない順序のまま渡すのは、たぶん、違った。
マルコには、決まってから伝えればいい。それも、順序のうちだった。
◆
昼前、伊勢はラッジと二人で、台車を工房まで押した。
石化木は、布で包まれて、作業台の脇に置かれていた。ブリジットがマルコと一緒に、台車に載せた。マルコが「重い、これ」と一言だけこぼし、ブリジットが「最高に重いだろ」と笑った。今朝の、抜けた高さの声だった。
台車を押して、ラッジの店まで運んだ。通りの石畳の段差で一度、車輪が跳ねた。布の中で石化木が短く鳴った。それだけだった。
ラッジの店に入って、棚の下段に置いた。布をそっと外した。木の肌が、店の薄暗がりの中で、思ったよりも穏やかな色をしていた。
ブリジットは、置いた瞬間、一歩下がって、棚を見た。
「収まったね」
「ええ」
「次のやつも、ここに置く」
「はい」
「三本目もだ」
「お願いします」
ラッジは、帳面を開いて、何かを書き込んだ。書き終わってから、顎を撫でて、
「面倒な棚だな」
と言った。
ブリジットが、肘で軽くラッジを小突いた。ラッジは「やめろ」と顔をしかめたが、口の端は上がっていた。
◆
夜、宿への道で、伊勢は十八、という数字を一度だけ思い浮かべた。
昨日までは、その数字を脇に置いていた。今日は、置かなかった。脇に置く必要が、なかった。
数字は、まだ減っていく。だが、減っていく数字の重さは、今朝と少しだけ変わっていた。
誰かに「決まったら伝える」と言うことは、自分の中の決断を、その誰かと半分ずつ持つことに似ていた。重さが半分になる、わけではなかった。重さは変わらない。ただ、自分一人で抱えなくてよくなる、という感覚だった。
それを、ブリジットは昨日、教えてくれたのだった。
(先に、言ってくれ、と)
あれは、感情の話ではなかったのかもしれない、と今日は思った。少なくとも、感情だけの話ではなかった。
ブリジットは、一緒に持ちたい、と言ったのだ。
伊勢は、宿の前で立ち止まった。空はまだ少し明るかった。明日、何か新しい動きがあるかは、分からなかった。
ただ——あれば、伝える。
それだけが、今日、決めたことだった。




