伝えること
石化木を運ぶのは明日の昼の予定だった。だが、棚の据え置き場所は決まっている。本数も決まっている。今日はもう、行く必要はなかった。
ただ、ブリジットの顔を見ておきたかった。理由はうまく言葉にならなかった。昨日の発注の話が、自分の中で短すぎた気がしていた。「同じ寸法でいいんだな」「材は」——あれだけで終わる話のはずではなかった。少なくとも、自分の側では。
(一回、寄ろう)
通りを折れて、工房の煙突が見えてきた。煙は細く立っていた。
◆
扉を押すと、火の音が鼓膜に当たった。マルコは作業台の前にいた。今日は布で台を拭いてはいなかった。新しい木材を寸法ごとに並べている。明日からの仕事の準備だった。
「あ、伊勢さん」
マルコが顔を上げた。煤がまた頬についている。
「ブリジットさんは」
「奥にいます。さっき、リリアさんが来てましたよ」
手が止まった。
「リリアが」
「はい。書類届けに来たって。少しだけ話して、帰っていきました」
マルコはそれだけ言って、また木材の方へ目を戻した。書類のことだろうと思っているらしかった。書類で来たのなら、仕事だ。仕事なら、自分が行ったあとの時間でも、おかしくはなかった。
ただ——リリアが工房に来たのは、たぶん、初めてではないが、頻繁ではなかった。
伊勢は奥の部屋に向かった。
◆
ブリジットは作業台に向かっていなかった。
工具棚にもたれて、腕を組んでいた。火床は炭を落として、薄く赤いだけだった。鉄工用の刃は、布の上に置かれたままだった。今日は油を塗っている途中ではなかった。さっきまで塗っていた、という置かれ方だった。
「来たね、海人」
ブリジットは振り向かずに言った。声は、低かった。いつもの「最高!」のときの抜けた高さは、そこになかった。
「あ、はい」
「マルコから聞いた?」
「リリアが来た、と」
「それだけ?」
ブリジットがこちらを向いた。腕は組んだままだった。瞳の奥に、火の前にいるときの熱とは違う種類の熱があった。怒っている、というより、何かを飲み込みかけている顔だった。
伊勢は、少しだけ間を置いて、
「リリアが、何か」
「中央の話、聞いたよ」
ブリジットは短く言った。
伊勢の足が、半歩だけ止まった。
◆
「半年で戻る、って話でしょ」
「……はい」
「二十日で答え出さなきゃいけない、っていう」
「はい」
「いつから知ってたの」
「三日前です」
ブリジットは鼻から息を吐いた。長い息だった。それから、ようやく腕をほどいた。
「昨日、来たじゃない」
「はい」
「あと二本削ってくれ、って言ったじゃない」
「言いました」
「同じ寸法だな、って、私は普通に答えたよ」
「ええ」
ブリジットはそこで言葉を切った。次の言葉を、口の中で組み直しているのが分かった。
「海人、さあ」
と一度言って、
「先に言ってよ」
と言った。
怒鳴ってはいなかった。声は低いままだった。だからこそ、その低さの中に、収まりきらない感情が入っているのが、はっきり聞こえた。
◆
「すみません」
伊勢は素直に言った。言い訳の言葉を探さなかった。探しても、たぶんブリジットの顔は晴れない。
「すみません、じゃないよ」
ブリジットは工具棚から離れて、火床の方へ二歩歩いた。それから、戻ってきた。歩く目的のない動きだった。
「私はさ、海人があと二本って言うから、あと二本削るつもりで刃を研いでた」
「はい」
「明日、石化木が来る。来週、二本目に入る。再来週、三本目だ。そうやって、頭の中で並べてた」
「はい」
「その三本目を、海人は見ないかもしれないんでしょ」
伊勢は、答えなかった。答えられなかった、というほうが近かった。
半年で戻る、と言われている。三本目の石化木が削り上がるのは、その「半年」の境目に近い。自分が見届けない可能性は、たしかにあった。昨日、ブリジットの前で発注したとき、そのことを、自分は意識から外していた。
外していた、というよりも——意識すると発注ができなくなる気がして、外した。
「先に言ってくれてもよかったじゃない」
ブリジットの声が、少しだけ揺れた。
◆
「言わない方がいい、と思いました」
伊勢はゆっくり言った。
「決まってもいないことを伝えて、仕事の手を鈍らせたくなかった」
「私の手が鈍るかどうか、海人が決めるの?」
ブリジットの声が、また低くなった。今度の低さは、さっきとは別の温度だった。
「すみません」
「そうじゃないんだよ」
ブリジットは首を振った。
「謝ってほしいんじゃないの。私はあと二本削る。三本目もだ。それは決まってる。決まってることに、海人の半年は関係ない」
「……はい」
「ただ、海人が今ここにいるのに、知ってるのを私だけ知らなかった、っていうのが——」
ブリジットはそこで止めた。
止めたまま、しばらく何も言わなかった。火床の薄い赤を見ていた。
言葉の続きは、出てこなかった。
◆
工房の中が、しんと音を落とした。マルコの作業の音は、扉一枚向こうから細く聞こえていた。
伊勢は、自分の足元の床板を見た。粉が薄く残っていた。昨日まで、ここで石化木を削っていた粉だった。
(言ってくれてもよいじゃないか、と——たぶん、そう言いたかった)
ブリジットは言わなかった。最後まで言葉にしなかった。代わりに、火床の赤を見て、息を整えていた。
伊勢は、自分が昨日の発注のとき、淡々と話したことを思い出していた。同じ寸法、底の厚み、口径、それで終わらせた。あれは、自分にとっての「動いていた方が考えやすい」だった。だが、ブリジットにとっては、ただの発注だった。何も渡されていない発注だった。
それは、たぶん、不誠実な順序だった。
◆
「ブリジットさん」
伊勢は顔を上げた。
「まだ、答えは出していません」
「うん」
「半年で戻るかどうかも、決めていません」
「うん」
「でも、決まっていないからこそ、先に伝えるべきでした」
ブリジットは、ようやくこちらを向いた。火床の赤がまだ瞳に残っていた。
「そうだね」
「すみません」
「謝るな、って言ったでしょ」
ブリジットは少し笑った。笑いには、まだ少し棘が残っていた。
「私はさ、海人にとっての発注先かもしれないけど」
ブリジットは、それから一拍置いて、
「発注先だけじゃない、と思ってるからね」
と言った。
火の前で言うには、その声はずいぶん静かだった。
◆
「はい」
伊勢は短く返した。
何かを長く返す言葉は、たぶん、ここでは要らなかった。
ブリジットは工具棚の方へ戻って、刃をもう一度手に取った。布を当てて、油を塗り直し始めた。さっきまでの止まっていた手つきとは違って、いつもの動きだった。
「明日、石化木、運んでこい」
「はい」
「同じ寸法だ」
「はい」
「あと二本、ちゃんと削るよ」
「お願いします」
それで、話は終わった。
ブリジットはこちらを見なかった。だが、肩のこわばりは、少しだけ抜けていた。
◆
工房を出ると、夕方の光が通りに伸びていた。
マルコは作業台で木材を測っていた。伊勢が出ていくのには気づいていたが、声はかけなかった。子供ながらに、奥の部屋で何が話されたかを、たぶん、半分くらいは察していた。
通りを歩きながら、伊勢はリリアの顔を思い浮かべた。
書類を届けに来たついでに、ブリジットに伝えたのだろう。リリアが、自分から伝える側に回った。それは、リリアにしては——いや、リリアだからこそ、できたことだった。「先回りされても悪い気がしない」と昨日言った人が、今日はブリジットに先回りした。
(先回り、ではなかったかもしれない)
たぶん、リリアは、自分が言わないと伊勢が言わない、と思った。それで、自分が言うことを選んだ。仕事のついで、という形で。
ギルドに戻ったら、礼を言うべきだろうか、と一瞬考えて、伊勢は首を小さく振った。礼を言うのは、たぶん違う。リリアはそれを望んでいない。
ただ——昨日、リリアが何も聞かなかったとき、自分は「答えを急がせない、ということが、これほど助かるとは、思っていなかった」と思った。
今日は、それと別のことを思っていた。
答えを急がせない、というのと、何も伝えない、というのは、別のことだ。リリアは、そこを分けていた。自分は、分けていなかった。
◆
ギルドに戻ると、リリアはカウンターで書類を整えていた。
伊勢が席に着くと、リリアは目を上げた。今日も、口元だけで小さく笑った。
「工房、行ってきました」
「そう」
「ブリジットさんに、怒られました」
リリアは、書類を揃える手を一度だけ止めた。それから、また揃えた。
「先に言え、って」
「ああ」
「リリアが伝えたんですね」
リリアは少し、間を置いた。
「書類のついでに」
「はい」
「ついでに、しただけ」
リリアはそう言って、書類を脇に寄せた。それ以上の説明はなかった。
伊勢は、自分の机に書類を広げた。ペンを取った。
動いていた方が、考えやすい。だが、動きながら、誰に何をいつ伝えるか——その順序は、自分一人で組まなくてもいい、ということが、今日少しだけ分かった。
(先に、言うべきだった)
その思いは、明日からの自分の動き方を、たぶん少しだけ変える。
◆
夜、ギルドを出ると、空はまだ少しだけ明るかった。
伊勢は宿への道を歩いた。十九、という数字を、また一度だけ思い浮かべた。それから、脇に置いた。
脇に置く前に、もう一つだけ、思った。
明日、石化木を運んだら、ブリジットにもう一度、ちゃんと話そう。半年で戻るかどうか、まだ決まっていない、と。決めるときには、伝える、と。
それは、答えではなかった。順序の話だった。
だが、今日の自分には、答えよりも、順序のほうが、先に必要だった。




