持って、歩く
朝、ギルドに着くと、シャウプはまだ来ていなかった。
伊勢は自分の机に書類を広げた。昨日と同じ書類だった。採取者の動線の確認、護衛の組み合わせ、液体回復薬の本格運用に向けた段取り。一晩で何かが変わったわけではなかった。書く順序も、確認する項目も、昨日と同じだった。
(動いていた方が、考えやすい)
シャウプの言葉が、頭の中で薄く響いていた。それは助言というより、こうしておけ、という指示でもなかった。ただ、そういうやり方がある、と置かれていただけだった。
ペンを取った。手が動き始めると、頭の中の重さが少し横に寄った。
◆
昼前、工房に向かった。
ブリジットに、追加本数のことを話す必要があった。最初の一本がラッジの店に置かれることは、もう決まっている。次は、ギルドの窓口にもう一本。それから、宿の組合への打診。三本まではすぐに動かせる本数だった。
工房の扉を押すと、マルコが作業台の前にいた。手元に何もない。布で台の表面を拭いていた。粉が残っていたらしかった。
「来ましたか」
マルコは振り向かずに言った。声に張りが戻っていた。昨日までの、息を止めたような集中はもうそこになかった。
「ブリジットさんは」
「奥にいます」
伊勢は奥の部屋を覗いた。ブリジットは作業台に向かって、刃の手入れをしていた。鉄工用の刃。昨日まで石化木を削っていた刃だった。布で拭いて、油を薄く塗っている。
「次の話、いいですか」
ブリジットは手を止めずに、目だけこちらに向けた。
「何本だ」
「とりあえず、あと二本。ラッジの店、ギルド、それから宿の組合に打診中です。決まってから本数を上げる形で構いません」
「わかった」
ブリジットは刃を布の上に置いた。
「同じ寸法でいいんだな」
「はい。底の厚みも、口径も、同じで」
「材は」
「ラッジから持ってきます。在庫はまだあるそうです」
「そうか」
それだけだった。ブリジットは刃をもう一度手に取って、油を布で拭った。話は終わった、という動作だった。
マルコの方を振り向くと、マルコは作業台の拭き掃除を続けていた。あの石化木を削った同じ手だった。
◆
工房を出て、ラッジの店に向かった。
昼の通りは人が多い。荷馬車が一台、市場の方から来て、伊勢の横を通り過ぎていった。荷台に薪が積まれていた。乾いた、白っぽい薪だった。昨日、棚の下段から運び出したのと同じ種類だった気がした。
市場でこれだけ動いている薪を、自分は昨日、棚から動かして、石化木の場所を作った。動かす理由があれば、薪は動く。動かす場所があれば、置かれる。それだけのことだった。
(半年で、戻る)
その文字が、また頭の中に立った。半年。昨日からは一日減って、十九日。返答までの日数も、削れていく石化木の深さのように、少しずつ減っていく。
ただ、削っているのは自分ではなかった。
◆
ラッジの店に着くと、ラッジは奥で薪の束を結び直していた。市場に出す分らしかった。伊勢が入ると、振り向かずに「来たか」と言った。
「石化木、明日には運べそうです」
「明日か」
「昼ごろに。ブリジットの工房から直接、こちらへ」
ラッジは縄を引いて、結び目を確かめた。それから立ち上がった。
「棚の下段、昨日のままでいい」
「はい」
「布も敷いたままだ。動かしていない」
「ありがとうございます」
ラッジは少し間を置いてから、
「礼はいらん」
と言った。いつもの言い方だった。ただ、その後にもう一言あった。
「下段は、しばらく空けておく。次が来てもいい」
伊勢は少しだけ驚いた。次、という言葉を、ラッジが先に言った。
「二本目以降の話、まだしていなかったと思うのですが」
「なんとなく、そうなる気がした」
ラッジは縄の束をまた手に取って、それで会話は終わった。
◆
店を出ると、空が少し曇っていた。
風はなかった。市場の声がまだ続いている。伊勢は通りの端を歩いた。昨日、形のないものを持って歩いている、と思った。今日もまだ、それは持っている。
ただ、昨日と少しだけ違っていた。
昨日は、自分がいなくなった後のことを考えた。今日は、ブリジットが次の二本を削り、ラッジが下段を空けたまま待ち、マルコが作業台を拭いている、その動きを思い浮かべていた。自分が見ていなくても、それは進む。それは、今日の昼に、自分の目の前で起こっていた。
戻れるように作ってきた。
だから、戻ってもいい。
でも——その「だから」の先は、まだ言葉になっていなかった。
◆
ギルドに戻ると、リリアがカウンターで書類を広げていた。
伊勢が席に着くと、リリアは目を上げて、
「ブリジット、なんて?」
と聞いた。
「あと二本、引き受けるそうです」
「そう」
「ラッジの下段、しばらく空けておくと言われました」
リリアは少し笑った。声には出さない、口元だけの笑いだった。
「あの人、たまに先回りする」
「はい」
「先回りされても、悪い気がしないんだよね」
リリアはまた書類に目を落とした。それ以上は何も聞かなかった。書簡のことも、二十日のことも。
伊勢は自分の書類を広げて、ペンを取った。動いていた方が、考えやすい。シャウプはそう言った。リリアは何も言わない。ラッジも何も聞かない。ブリジットは本数だけを聞いた。マルコは作業台を拭いていた。
誰も、答えを急がせなかった。
答えを急がせない、ということが、これほど助かるとは、思っていなかった。
◆
夕方、シャウプが戻ってきた。
机に着いて、書類を一通り見た後、伊勢の方を向いた。何かを確かめるような目だったが、口は開かなかった。湯呑みに手を伸ばした。今日も、中身があるのかないのかわからない動きだった。
「ブリジットに次の本数を伝えました」
伊勢が言うと、シャウプは少しだけ頷いた。
「いい」
それだけだった。シャウプは湯呑みを口元に近づけて、止めた。それから、また机に置いた。やはり、中身は確かめなかった。
伊勢は、その動きをもう一度見た。動きそのものは、何も語っていない。ただ、その動きをするときのシャウプの間が、いつもより少しだけ長い気がした。
(この人も、何かを持って歩いている)
その思いは、口には出さなかった。出すには、まだ早かった。
◆
夜、ギルドを出ると、空はもう暗かった。
通りの灯りが、石畳に細く伸びている。伊勢は宿への道を歩いた。昨日と同じ道だった。歩く速度も、足の運び方も、変わらない。
ただ、頭の中で、十九、という数字を一度だけ思い浮かべた。
それから、その数字を脇に置いた。今日はそれでよかった。




