中央の、書きもの
朝、伊勢はいつもより少し早く起きた。
昨夜、書簡の文字に目が動いた瞬間に「続きは明日話す」と止められた。読みかけのまま、輪郭だけが残っていた。眠れないわけではなかった。ただ、輪郭の向こうにある形が、目を閉じても少し見えた気がした。
窓の外がまだ薄い。井戸で水を汲んで、顔を洗った。冷たさが、首の後ろまで戻ってきた。
(聞きに行くだけだ)
今日のうちに、聞ける。それだけだった。
◆
ギルドに着くと、シャウプはすでに机に着いていた。
書簡は、机の上に出ていた。昨日と同じ折り目の、少し色あせた一枚。
「来たか」
「はい」
シャウプは座ったまま、向かいの椅子を目で示した。伊勢は座った。机の角に書簡があった。手を伸ばせば届く距離だった。
「読みかけだったな」
「途中まで」
「では、最後まで読むといい」
シャウプが書簡をこちらに寄せた。伊勢は手に取った。昨日は途中で止めた。今日は、止められない。
◆
文字を追った。
配置照会、と一行目にあった。中央の人事を司る部署からの正式な書面だった。出向期間の見直しに関する打診——本来であれば三年とした出向の任期を、半年で本部に呼び戻す可能性がある、という旨だった。
理由は明記されていなかった。「現地での貢献状況に鑑み」という言い回しが二度ほど出てきた。判断は中央側にあり、伊勢の希望を聞く欄は、書面の末尾に小さく付されていた。
返答の期限が、二十日後と書いてあった。
伊勢は書簡を膝の上に置いた。
◆
「呼び戻し、ですか」
「打診だ。決定ではない」
シャウプは机の上で手を組んだ。声は昨日と同じ温度だった。
「向こうは、おまえがここで何をしているか、把握している。報告は私から上げている。容器の話、護衛必須化の話、採取者の動線。事実だけを書いている」
「はい」
「事実だけ書くと、向こうから見ると、思った以上に動いている、と読める」
少し間があった。
「呼び戻したい、というより——本来の場所で同じことをやってほしい、という話だろう」
伊勢は書簡の文字をもう一度見た。「現地での貢献状況に鑑み」。同じ言葉でも、読み方が一つ加わると、意味が違って見えた。
◆
「なぜ、昨日のうちに見せたんですか」
伊勢が聞いた。シャウプは少し目を伏せた。
「昨日は、石化木が仕上がった日だった」
それは昨日も聞いた言葉だった。でも今、別の意味で置かれていた。
「仕上がった日に、別の話を被せたくはなかった。だが、隠しておいて、後から出すのも違う。だから、見せて、止めた。一晩、置いた」
シャウプはそれだけ言って、湯呑みに手を伸ばした。中身があるのかないのかわからない動きだった。
「読み終わったか」
「読みました」
「答えは、いま要らない。二十日ある。考えればいい」
「はい」
「考える間も、ここでの仕事は止めない方がいい。動いていた方が、考えやすい」
それは助言というより、シャウプ自身がそうしてきた、という言い方だった。
◆
伊勢は書簡を返して、廊下に出た。
窓から朝の光が入っていた。昨日と同じ高さに、同じ角度で。違っていない。違っているのは、自分の側だけだった。
(半年で、戻る)
その文字を、頭の中でもう一度なぞった。半年。今日から数えれば、夏の終わりごろ。石化木は据え置いた。液体回復薬はこれから棚に並ぶ。本格運用が始まったところで、自分はいなくなるかもしれない。
いなくなっても、回るように作ってきた。それは正しい。手順がある。ラッジが受け、ブリジットとマルコが削り、リリアが書類を回す。自分一人の動きで支える形にはしてこなかった。
だから、戻れる。
戻れるように、作ってきた。
それは、最初からそうだった。
◆
席に着くと、リリアが書類から目を上げた。
「顔色、いつもと違う」
「そうですか」
「そう」
リリアはそれ以上は聞かなかった。視線を書類に戻して、しばらく黙って書いていた。それから、書く手を止めずに、
「話すことがあるなら、聞く」
とだけ言った。
伊勢は少し迷った。書簡の話を、どう置けばいいか、まだ決められていなかった。事実を伝えるのは早い。でも、伝えないのも違う気がした。
「中央から、書簡が来ていました」
リリアの手が、少しだけ止まった。
「呼び戻しの打診だそうです。決まった話ではありません。返事は、二十日のうちに」
リリアは書類を見たまま、しばらく動かなかった。それから、ゆっくりとペンを置いた。
「そうか」
いつもの「そうか」だった。声の温度は、いつもよりほんの少しだけ低かった。
「考えていることがあるなら、急がなくていい」
「はい」
「決めたら、教えて」
「わかりました」
リリアはまたペンを取った。書く速度は、さっきと変わらなかった。
◆
昼前、伊勢はラッジの店に向かった。
石化木の据え置き場所を、もう一度確かめておきたかった。シャウプが言ったとおりだった。動いていた方が、考えやすい。
ラッジは棚の前で、空けておいた段の高さを測っていた。伊勢が入ると、振り向かずに「来たか」と言った。
「下から二段目で構わないか」
「重いので、下段の方がいいかと思います」
「下段は薪で塞がっている。動かす」
「手伝います」
ラッジが少しこちらを見た。それから、何も言わずに棚の方を向いた。手伝いを断りもせず、礼も言わず、ただ二人で薪を運び始めた。
薪の束は乾いていて、手のひらに筋目が当たった。並べ直すと、棚の下段に空きが出た。布を敷いた。石化木を置く場所だった。
「これでいい」
「はい」
ラッジが手の粉を払って、カウンターの方に戻った。伊勢はもう少し棚の前にいた。
(ここに、置かれる)
自分が見ていなくても、ここに石化木は置かれる。液体回復薬は補充され、子容器に詰め替えられて、冒険者が持っていく。半年後も、一年後も、たぶんそうなる。
それは、寂しいことではなかった。むしろ、そういう形にしたかった。
ただ、自分がどこにいるか、という話は、まだ別だった。
◆
店を出ると、昼の光が真上に近かった。
石畳の影が短い。市場の声が一番大きくなる時間帯だった。伊勢は通りの端を歩いた。
ふと、昨日この道を、石化木を布に包んで歩いたことを思い出した。重かった。でも、持って歩ける重さだった。
今日も、何かを持って歩いている気がした。
形のないものだった。重さも、まだ計れていなかった。




