満ちる
朝の工房に着いたとき、マルコはすでに作業台の前にいた。
石化木の内側を、光に向けて確かめている。伊勢が扉を押すと、振り向かずに「来ましたか」とだけ言った。
「昨夜、少し進めました」
「ブリジットに確認しましたか」
「してません。今朝、見てもらいます」
伊勢は作業台に近づいた。石化木の内側は、昨日より深くなっている。底はまだ見えないが、口の縁から指を入れると、試作品で覚えていた深さに近い気がした。
マルコが石化木を置いて、工房の奥を向いた。
「ブリジットさん」
返事はなかった。少し間があってから、ブリジットが奥の部屋から出てきた。手に布を持っている。昨夜の粉を払っていたのかもしれなかった。
石化木を見て、近づいた。内側に指を入れる。少し傾けて、口の縁から光を覗き込んだ。
「底まであとどのくらいだ」
「残り、一割ほどだと思います」
ブリジットは何も言わなかった。石化木を作業台に戻して、布で外側の粉を払った。
「今日中に仕上げる。ただし急かすな」
それだけだった。マルコが「はい」と言って、刃を手に取った。
◆
伊勢はいったん工房を出た。
削っている間に余分な人間がいる必要はない。石畳の上に出ると、朝の市場の仕込み音がどこかから聞こえた。乾いた空気の中に、少し木の粉のにおいが混ざっていた気がしたが、それは工房から持ち出したものかもしれなかった。
ギルドに向かった。
◆
リリアはすでに書類を広げていた。伊勢が席に着くと、「今日、出そう?」と聞いた。
「ブリジットが今日中に、と言っていました」
「そうか」
リリアの声は静かだった。「よかった」でも「早い」でもない。ただ受け取る、という返し方だった。
窓から光が入っていた。カウンターの木目に朝の影が伸びている。
「ラッジには話しましたか」
「仕上がってから行こうと思っています。形を見てもらった方が話が早いので」
「うん、それがいい」
リリアが書類に視線を戻した。伊勢もしばらく黙っていた。
(今日、出る)
出るかもしれない、ではなく、出る、という感覚がある。根拠は、ブリジットの「今日中に」という言葉だった。あの人が言うなら、そうなる。
◆
昼過ぎ、工房に戻った。
マルコが刃を置いていた。石化木が作業台の上にある。内側を覗くと、深さが出ている。底の面が、均一に見えた。
ブリジットが隣に立って、内側に指を入れた。底をなぞる。確かめるような、ゆっくりとした動きだった。
「底が出た」
それだけだった。
マルコが少しだけ息を吐いた。伊勢もその息が聞こえた。
「厚みは」
「設計通りだ。削りすぎていない」
ブリジットが石化木を持ち上げた。手の中で、鈍い重さがある。外側を指でなぞって、表面の粉を払う。割れはない。欠けもない。試作でつかんだ感覚が、そのまま硬い材に移っていた。
◆
「水を入れます」
伊勢が言うと、ブリジットが石化木を作業台に戻した。マルコが奥から水を汲んできた。
口の縁から、ゆっくりと注ぐ。七分ほど。石化木の内側で、水が揺れた。外側は、乾いている。
全員で、少しの間だけ見た。
(にじまない)
水が外に出てこない。松材の試作では、一時間待って確かめた。石化木は、注いだその場で違いが出た。表面が乾いたままだ。
「布を敷いてください」
マルコが底に布を当てた。しばらく待った。布を取り上げる。乾いていた。
「……にじんでいません」
マルコの声は、静かだった。驚きではなく、確認。でも、その静かさの中に、手ごたえがあった。
「当然だ」
ブリジットが腕を組んだ。「水を通さない材だと、最初から言っている」
それは正しかった。わかっていた。でも、わかっていることと、目の前で確かめることは、違う。
「ありがとうございます」
伊勢が言った。ブリジットは答えなかった。ただ、石化木から視線を離さなかった。
◆
子容器を持ってきていた。石化木の口に差し込んでみる。すっと入った。五分の差が、そのまま出ている。引っかかりがない。傾けても、引っかからない。
「詰め替えの感触です」と伊勢は言った。
「水を子容器に移してみろ」
ブリジットが言った。伊勢は石化木を傾けた。子容器の口に向けて、ゆっくりと注ぐ。こぼれなかった。口径の差が、そのまま通路になった。
「……こぼれません」
マルコが言った。ルカが工房で問いを立てたときの言葉が、伊勢の頭の端をよぎった。
(口の大きさが同じだと、入れにくい——だったな)
あの問いが、ここに着いた。
◆
ラッジの店に向かったのは、夕方近かった。
石化木を布に包んで、両手で持った。重い。でも、持って歩ける重さだ。据え置きにすれば、問題にならない。
店に入ると、ラッジはカウンターの内側で棚の帳簿を確かめていた。伊勢が布を解くと、一度だけ目を向けた。それから帳簿を閉じた。
「出たか」
「出ました」
ラッジが歩いてきて、石化木を手に取った。内側を指で確かめる。底をなぞる。少し傾けて、外側を見た。
「割れていないな」
「はい。にじみも、今のところ出ていません」
ラッジが石化木をカウンターに置いた。水のときと同じ、鈍い音がした。少し間を置いた。
「棚を空けておく」
「ありがとうございます」
「数はどのくらい要る」
「まずは二、三本から始めようかと思っています。ギルドとこちらとで一本ずつ、試しながら」
ラッジがうなずいた。「倉庫にある。必要な分を出す」と言って、また帳簿を開いた。準備だけして、あとは任せる。いつものやり方だった。
◆
店を出ると、夕方の光が石畳を斜めに照らしていた。
石化木は布に包んで抱えたまま、伊勢は少し立ち止まった。
(できた)
大きな感慨ではなかった。ただ、積み重ねてきたものが、一つ形になった。余った在庫をどうにかしようという話から始まって、容器が漏れる、親容器と子容器に分ける、石化木なら水を通さない、試作を通してから、一発で削る——手順を踏んだ先に、今日がある。
市場の声が遠くなっていた。夕方のにおいが、石のにおいに変わり始めていた。
伊勢は歩き始めた。
◆
ギルドに戻ると、シャウプが廊下に立っていた。
珍しかった。外回りから戻ってきたところなのか、上着がまだそのままだった。伊勢が入口を押すと、こちらを見た。
「少しいいか」
促されて、シャウプの机の前に立った。シャウプは椅子に座らなかった。引き出しを開けて、折りたたんだ書簡を一枚、机の上に置いた。
伊勢は書簡を見た。折り目が、少し色あせている。
「中央から来たものだ」
シャウプが言った。それだけで、封の中身は言わなかった。
伊勢は書簡を手に取った。文字に目が動く。読み進めるほど、何かが静かに固まっていく感じがした。感情ではなく、輪郭のようなもの。自分が今ここにいることの、意味の形が。
「……これは」
「続きは明日話す」
シャウプが書簡を受け取った。引き出しに戻す。鍵はかけなかった。
「今日は、石化木が仕上がった日だ」
それだけ言って、シャウプは上着を脱いだ。これ以上は今夜の話ではない、という動きだった。
伊勢はしばらく机の前に立っていた。街の音が、窓の外で続いていた。




