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出向先は、剣と魔法と人事部でした 〜評価されなかった社会人の異世界改革〜  作者: 怪獣姫


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硬いから、一発で

 翌朝、工房の前にラッジが来ていた。


 石化木を一本、布に包んで抱えている。伊勢が工房の扉を開けようとしたのと、ほぼ同時だった。


「重い」


「そうですね」


 二人で並んで扉を押した。工房の中は、朝の削る音がまだ始まっていなかった。ブリジットが奥の作業台の前に立って、布に包まれた石化木の方を見た。


「持ってきたか」


「頼んでおきました」


 ラッジが布を解いた。作業台に置く。置いた音が、昨日の松材とは違った。鈍く、詰まった音。ブリジットが近づいて、また表面を指でなぞった。爪で引っ掻く。少し間を置いた。


「マルコ」


 マルコが奥から出てきた。石化木を見て、すぐに「来ましたか」と言った。


「昨夜、試作をもう一度確かめたか」


「はい。深さと底の感覚、手に入っていると思います」


 ブリジットは答えなかった。石化木の長さを目で測るように見た。それから試作品を手に取り、寸法を見比べた。


「刃を替える。鉄工用を使う。木工の刃では歯が立たない」


 マルコが頷いて、棚の引き出しを開けた。伊勢はその様子を少し離れた場所から見ていた。ラッジはカウンターに背をもたせて、腕を組んだ。



 最初の一打が入ったとき、音が違った。


 松材を削るときの乾いた音ではなく、金属を叩くような鋭い響きがした。マルコが刃を引く。削り屑は出なかった。代わりに、細かい粉が落ちた。


「粉になる」


「そうだ。屑じゃなく粉になる。目が詰まっているから」


 ブリジットが隣に立った。マルコの手元を見ている。急かすでもなく、ただ見ている。


 伊勢は工房の隅に立っていた。邪魔にならない場所で、でも見える場所。ラッジも同じような距離を保っていた。


 マルコが少しずつ刃を入れていく。力を均等に、線から外れないように。試作品で覚えた感覚を、より硬い材で繰り返す。手首の角度が変わるたびに、響きが変わった。


(息を止めている)


 伊勢は気づいた。マルコが、削っている間、息をほとんどしていない。集中が外に漏れないようにしているような、そういう止め方だった。



 口の部分が削れたのは、昼を少し過ぎたころだった。


 ブリジットが試作品の子容器を取り出した。石化木の口に近づける。すっと入った。引っかかりがない。


「口径は出ている」


 それだけだった。褒めているわけではなく、確認しているだけの声だった。でもマルコが少しだけ息を吐いたのが、伊勢には見えた。


「深さはここからだ。口より慎重にいけ。底が薄くなりすぎたら取り返しがつかない」


「わかっています」


「わかってから言え。削ってからじゃ遅い」


 マルコが頷いた。ブリジットの言い方は厳しくはなかったが、余白もなかった。やり直しの利かない材に向かうとき、言葉もそうなる。


 ラッジが静かに立ち上がった。


「一度戻る。夕方、様子を聞かせてくれ」


「わかりました」


 伊勢が答えた。ラッジは布だけを持って、工房を出た。



 伊勢もいったん工房を出た。ブリジットとマルコの時間に、余分な人間がいる必要はない。


 石畳の上で、少し止まった。空が高い。市場の声がどこかから聞こえる。


 口径が出た。それだけで、今日の手順は一つ進んだ。深さと底はこれから。でも、始まった。


 ギルドへ向かおうとして、足が少し止まった。


 ユウトの問いが、まだどこかに残っていた。昨日の朝、扉の前で聞かれたことではなく、その後にユウトが言った一言——「守りたかっただけで」という、自分自身への言葉。


(答えを出せない問いを、声にした)


 それは変化だった。以前のユウトは問いさえ立てなかった。今は問いがある。答えは出ていない。でも、問いを持って立っている。


 伊勢は歩き始めた。



 ギルドに着くと、シャウプが外から戻ってくるところだった。


 二人で入口を同時に押した。シャウプが「石化木、始まったか」と聞いた。


「口径は削れました。今は深さに入っています」


「問題はなかったか」


「音が違います。粉になる材なので」


 シャウプが少し間を置いた。それから「そうか」と言って、廊下を先に歩いた。話は続かなかったが、聞いている、という背中だった。


 伊勢は自分の席に着いた。リリアが書類を広げていた。


「どうだった」


「口径は出ました。今、深さを削っているところです」


「うん」


 リリアは書類に視線を落としたまま答えた。それだけで十分、という返し方だった。


 窓から光が入っていた。カウンターの木目に影が伸びている。昼を過ぎた光の角度だ。


「ユウトが昨日、向こうから話しかけてきた」


 伊勢が言った。続きを求めているわけではなかった。ただ置くような言い方だった。


 リリアが顔を上げた。


「何の話」


「魔物を全部倒した方が安全ではないか、という問いを、声にしてきました。答えは出ていなかったけど」


 リリアはしばらく黙っていた。窓の外で鳥が鳴いた。


「問いがある、ってことは、考えてるってことだよね」


「そう思います」


「……前は、考えてなかったわけじゃなくて、疑わなかったんだろうね、自分を」


 伊勢は答えなかった。でも、正確だと思った。守りたい、という気持ちに疑いがなかった。だから問いも立たなかった。今は、疑いがある。それが問いになって出てきた。



 夕方、工房に戻った。


 マルコが深さの途中まで削っていた。ブリジットは離れた場所で、腕を組んで見ていた。伊勢が入ると、「来たか」とだけ言った。


「どうですか」


「今日中には仕上げない」


 ブリジットの声は平坦だった。


「焦って薄くすれば終わりだ。今日はここまで。明日、続ける」


 マルコが刃を置いた。石化木の内側を覗き込んで、少し考えるような顔をした。それから布で粉を払った。


「どのくらいまで削れましたか」


「六割ほどです。底まであと少しありますが、焦りたくないので」


「そうだな」


 伊勢は石化木を見た。口径は開いている。深さはまだ途中。でも、材は割れていない。欠けていない。やり直しの利かない材に、ここまで入れた。


(一発で、というのはこういうことか)


 試作で感覚をつかんで、その感覚のまま硬い材に移す。失敗できないから、丁寧に。急がないから、続けられる。


「明日、また来ます」


「それからだ」


 ブリジットは作業台に向き直った。伊勢は工房を出た。



 帰り道、採取エリアの方から戻ってきたケインとすれ違った。


「お疲れ様です」


「お疲れ様」


 ケインは少し足を止めた。何か言いたそうな顔をしたが、すぐに「何でもないです」と言った。


 伊勢は立ち止まった。


「何か」


「……今日の採取者が、帰り際に聞いてきました。液体のやつ、いつごろ出るんですかって」


 伊勢はしばらく考えた。


「まだ確かなことは言えませんが、段取りは進んでいます」


「そう伝えておきます」


 ケインが頷いて、歩いていった。伊勢はその背中を少しの間見ていた。


(採取者が聞いてくるようになった)


 需要が声になってきている。口コミで広まっていた話が、依頼の現場まで届いている。工房では石化木を削っている。石畳の上では、声が積み重なっている。両方が、同じ方向に向いている。


 夕方の光が長く伸びていた。市場のにおいが薄くなり始めていた。


 伊勢は歩き始めた。



 その夜、ユウトは一人で掲示板の前に立っていた。


 ギルドはもう人が少ない。受付のランプが一つ、カウンターを照らしている。依頼票を見ているわけではなかった。ただ、そこに立っていた。


 伊勢の言葉が、まだ消えていない。


(均衡があるから、人が動ける)


 正しいと思う。思うが、だからといって、自分が何もしなくていい理由にはならない気もした。均衡を守ることと、誰かが危険にさらされるのを見ていることは、同じではない。でも、その区別がどこにあるのか、ユウトにはまだわからなかった。


 採取者が「おかげで集中できた」と言った。今日も言われた。剣を抜かなかった一日が、何かに繋がっている。でも、それがどこに繋がっているのかが、見えていない。


 ランプが揺れた。窓から夜風が入ったのだ。


 ユウトは掲示板から離れた。答えは出なかった。でも、出ないまま帰ることにした。今日は、それでいい気がした。

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