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出向先は、剣と魔法と人事部でした 〜評価されなかった社会人の異世界改革〜  作者: 怪獣姫


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削れた、ということ

 朝、工房に着いたとき、作業台の上に試作品が置いてあった。


 昨夜のうちに削れたらしい。深さと底の厚みが揃っている。口径は昨日と変わらず、そこに子容器を差し込むと、ひっかかりなく入る。ブリジットはその様子を腕を組んで見ていた。


「仕上がりましたか」


「形は出た。確かめるのはおまえの仕事だ」


 伊勢は試作品を手に取った。口径と深さが揃っている。底は厚くとられていて、手に置いたとき安定感がある。据え置きで使うなら、これくらいの重さがあった方が倒れにくい。


「液体を入れてみます」


「それからだ」


 マルコが奥から水を汲んだ器を持ってきた。試作品に注ぐ。口まで満たさず、八分ほど。


 全員で、しばらく見た。



 三十ほど待って、底に敷いた布を取り上げた。


 湿っていなかった。


 マルコが「にじんでいません」と言った。伊勢はもう一度布を確かめた。乾いている。松材は水を通す。それでも、この形とこの厚みなら、短い時間は持つ。据え置きで使うなら、十分かもしれない。


「一時間、置いてみてください」


「わかった」


 ブリジットが試作品を作業台の隅に移した。その横に布を敷き直す。これ以上は時間が答えを出す、という置き方だった。



 伊勢は工房を出た。一時間は待てる。ギルドに寄ってから戻ればいい。


 石畳の上に朝の光が伸びていた。市場の準備をする声がどこかから聞こえる。


 ここまで来た、と伊勢は思った。大きな感慨ではない。ただ、形が出た。試作が通れば、石化木に入れる。手順の一つが確かになった、という感覚だった。


(急がなくていい)


 それは昨日も思ったことだった。でも今日は、急がなくていい理由がある。試作が出た。次が見えている。焦る必要がないのは、手順があるからだ。



 ギルドの入口を入ったとき、ユウトが出てくるところだった。


 正面から、ほぼ同時だった。伊勢は足を止めた。ユウトも止まった。


 昨日より近い、と伊勢は思った。昨日は掲示板の前と席の間だった。今日は扉一枚分の距離だ。


 ユウトが少し口を開いた。


「……最近、採取エリアの周辺、魔物が減っていないですよね」


 伊勢は少し待った。続きがある、という気がしたから。


「俺が以前みたいに動いていないので、そうなっているのはわかっています」


 ユウトの声は低く、平坦だった。謝っているわけでも、開き直っているわけでもない。ただ、事実として置くような言い方だった。


「護衛の依頼が増えているのも見ています。採取者が動きやすくなっているのも、たぶん、そうなんだと思う」


 少し止まった。


「でも——魔物がいなくなった方が、もっと安全なんじゃないですか。根本的には」


 言い終えて、ユウトは伊勢の顔を見た。反論を求めているわけではなさそうだった。自分でもまだ答えが出ていない問いを、声に出してみただけのような目だった。


 伊勢はすぐには答えなかった。


 ギルドの扉の向こうで、街の音が遠く続いている。


「魔物がいなくなれば、採取者も来なくなります」


 それだけ言った。押しつけるのでなく、ただ置くように。


 ユウトの表情が少し動いた。想定していた返しではなかった、という顔だった。


「……採取できるものが、なくなるから、ですか」


「それもあります。ただ、魔物は素材になる。魔物がいるから採取者が来る。採取者が来るから、この街に仕事がある。全部倒してしまえば、一時的には安全になるかもしれない。でも、その後に残るのは何もない場所です」


 ユウトは黙っていた。


「均衡があるから、人が動ける。それを守ることが、ここでの安全だと思っています」


「……俺は、ただ守りたかっただけで」


 小さい声だった。誰かに言い訳しているのではなく、自分自身に確かめているような言い方だった。


「わかっています」と伊勢は言った。「守りたい、という気持ちは間違っていない。ただ、何を守るかの話だと思っています」


 ユウトはしばらくその場に立っていた。答えを返さなかった。それから視線を外して、「……行きます」とだけ言って、扉を出ていった。


 伊勢は少しの間、その場に立っていた。


(自分から、来た)


 昨日は視線が合っただけだった。今日は問いを持って来た。答えは出ていない。でも、問いを声にできるようになったこと自体が、変化だった。



 席に着くと、リリアが「今のユウトと話してた?」と聞いた。


「少しだけ」


「何の話」


「魔物を倒した方が安全ではないか、という話を、向こうから」


 リリアが書類から目を上げた。何か言いかけて、やめた。それから「そうか」とだけ言って、視線を戻した。


 窓から光が入っていた。カウンターの木目に影が伸びている。


「試作、形が出たそうで」


「さっき見てきました。一時間水を入れて、にじみを確かめているところです」


「うまくいきそう?」


「松材なので、あくまで形の確認です。通ったら、石化木に入ります」


 リリアが「そうか」と繰り返した。今度は少し違う温度だった。進んでいる、という受け取り方。



 一時間後、工房に戻った。


 ブリジットが布を取り上げていた。伊勢が入ると、こちらを向かずに「乾いている」と言った。


 マルコが試作品を手に取り、底を確かめた。


「にじんでいません」


 伊勢は試作品を受け取った。水を入れたまま一時間。底の布は乾いている。松材でこれなら、石化木ならさらに安定するはずだ。


「形が確認できました」


「そうだな」


 ブリジットが腕を組んだ。


「石化木は、同じ寸法で入る。ただし、やり直しは利かない。一発で削る。マルコはもう一度この試作品で感覚をつかんでから入る」


「わかりました」


「急かすなよ」


 それだけだった。命令でも、確認でもない。ただ、順番を守れ、という言い方だった。


 伊勢はうなずいた。



 夕方、ラッジの店に寄った。


「試作が通りました。石化木に入る段取りです」


 ラッジは棚の整理をしていた手を止めて、振り向いた。「そうか」と言って、また棚に向き直った。


「倉庫の石化木、一本だけ工房に渡してもらえますか。まず一本削ってみてから、数を決めたいとのことで」


「明日の朝でいいか」


「はい」


 ラッジがうなずいた。それ以上は言わなかった。準備だけして、あとは任せる。いつもの置き方だった。


 伊勢は店を出た。夕方の光が石畳を斜めに照らしていた。市場のにおいが薄くなり始めている。


(削れた)


 試作が、形が、確認できた。それだけのことだ。まだ石化木には入っていない。でも、次の一歩が確かになった。その積み重ねの中に、今日がある。


 伊勢は歩き始めた。



 その夜。


 ユウトはダンジョンの帰り道を、一人で歩いていた。


 今日の依頼は採取エリアの端、魔物の出る区画の手前だった。採取者三人の護衛だった。魔物は出なかった。剣を抜かなかった。


 帰り際、採取者の一人が「おかげで集中できた」と言った。ユウトは何と返せばいいかわからなくて、「また何かあれば」とだけ言った。


 石畳の隙間から草が伸びている。夜の街は静かだ。


(抜かなかった日が、積み重なる)


 伊勢の言葉が、まだ頭の中にあった。そういうものだ、と言った。確信があるような、ただ事実を置くような言い方だった。


 ユウトには、まだよくわからない。でも、わからないまま今日も歩いている。それが今できることだと、なんとなく思い始めていた。

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