合わせてみないとわからない
朝の工房は、においが違う。
木屑の乾いたにおいと、昨日の作業が残した油のにおいが混ざっている。ブリジットはすでに作業台の前に立っていた。手元には昨夜のうちに引いておいた線がある。口径、深さ、底の厚み。三つの数字が木片の表面に、薄く刻まれている。
「マルコ」
「はい」
「この線を基準に、まず口だけ削れ。深さはまだ手をつけるな」
マルコが作業台に近づいて、木片を手に取った。普通の松材だ。石化木ではない。形が確かめられれば、それでいい。
◆
昼前、伊勢が工房に顔を出した。
マルコが口の部分を仕上げているところだった。削りすぎていない。線に沿っている。ブリジットが隣に立って、指で縁をなぞった。
「寸法を持ってきましたか」
「昨日のメモをそのまま渡した。問題ない」
伊勢はカウンターに近づいて、試作の途中の木片を見た。口径だけが開いていた。深さはまだ板のままだ。
「子容器、持ってきましたか」
「昨日のうちに取っておいた」
ブリジットが棚から木製容器を一本出した。現場用に使われているものと同じ形だ。伊勢は試作品の口に近づけてみた。
(入る)
子容器の外径より、試作の口径の方が少し大きい。ルカが言っていた「五分」の差だ。スムーズに入って、ひっかかりがない。
「問題なさそうです」
「深さを削ってからだ。口だけで判断しても意味がない」
ブリジットの声は平坦だった。急かしているわけでもなく、否定しているわけでもない。ただ、順番がある、という言い方だった。
マルコが口を挟んだ。
「底の厚みを増やすと、全体の重さも変わりますよね。据え置きとはいえ、棚の耐荷重を確認した方がいいかもしれません」
伊勢は少し間を置いた。棚のことは考えていなかった。道具屋にもギルドにも棚はある。石化木の親容器を置くとなれば、棚の位置と強度を確かめる必要が出てくる。
「ラッジに確認します」
「それからだな」
ブリジットがまた作業台に向き直った。これ以上は今日の話ではない、という向き方だった。伊勢はうなずいて、工房を後にした。
◆
石畳を歩きながら、伊勢は手元のメモに書き加えた。棚の耐荷重、確認。ラッジに聞く、という一行が増えた。
試作品はまだ口しか削れていない。形が確認できるのは、深さと底が仕上がってからだ。それから石化木に入って、また確かめて。手順は見えているが、終わりはまだ先にある。
(急がなくていい)
自分に言い聞かせているわけではなかった。ただ、そう思った。
◆
ラッジの店は、昼を過ぎても客の出入りが続いていた。
伊勢が入ると、ちょうど冒険者が一人出ていくところだった。ラッジはカウンターの内側に立ったまま、伊勢の顔を見て「何だ」と言った。
「棚の話です」
「棚」
「石化木の親容器を据え置くとすれば、どの棚に置くかと、耐荷重の確認が必要になると思って」
ラッジは少しの間、伊勢を見ていた。それから奥の棚の方に視線を向けた。
「奥の下段は補強してある。採掘道具の金属品を置くために作った棚だ。石化木ならそこで問題ない」
「見てもいいですか」
「どうぞ」
ラッジが顎でしゃくった。伊勢は棚の前に立って、下段を見た。板の厚みが他の段と違う。支えの桟が一本多い。確かに頑丈に作ってある。
「高さはどのくらいまで置けますか」
「今は採掘道具が入っている。親容器の大きさが確定してから、配置を考える」
ラッジの答えは短かった。決まっていないことは決まってから話す、という人間だ。伊勢はそれを受け取った。
「わかりました。形が確認できたら、また来ます」
「待ってる」
それだけだった。伊勢は店を出た。
◆
ギルドに戻ると、ユウトがいた。
珍しいことではない。ユウトはギルドの常連だ。今日は依頼の更新に来たのか、掲示板の前に立っていた。
伊勢はそのまま自分の席に向かおうとした。ユウトが掲示板から目を離して、伊勢の方を見た。
視線が合った。
ユウトが何か言いかけた。口が少し動いて、止まった。伊勢は足を止めなかった。すれ違って、席に着いた。
何かが変わった、とは言えない。ただ、以前はすれ違っても視線が合うことはなかった。
(積み重なっている)
目に見えるものではなかった。でも、伊勢はそう感じた。
◆
リリアが書類を畳みながら、「どうだった」と聞いた。
「試作は口だけ削れているところです。深さはこれからで」
「棚の話も出た」
「マルコが言い出しました。ラッジに確認したら、下段は補強済みとのことで」
リリアが少し考えるような顔をした。
「マルコが言ったのか」
「そうです」
「成長してるね」
伊勢は答えなかった。でも、確かにそうだとは思った。最初の試作のころは、削ることだけに集中していた。今は、置かれる場所まで考えている。
窓から光が入っていた。カウンターの木目に長い影が伸びている。夕方が近い。
◆
シャウプがギルドに戻ってきたのは、夕刻を過ぎてからだった。
外回りの報告書を机に置いて、椅子に座る。引き出しに手を伸ばして——引かなかった。そのまま報告書を開いた。
今日の護衛依頼の成立件数、採取者からの苦情の有無、新規登録の冒険者数。数字が並んでいる。変化はあるが、急激ではない。じわじわと、積み重なっていく数字だ。
シャウプは報告書を閉じた。
引き出しの方を、一度だけ見た。
それから、灯りを手元に引き寄せた。
◆
夜、工房ではマルコがまだ作業をしていた。
深さを削り始めていた。底の厚みを確かめながら、少しずつ落とす。やり直しが利く材だから、今のうちに感覚をつかんでおく。石化木に入る前に、手に覚えさせる。
ブリジットは少し離れた場所から見ていた。何も言わない。マルコが削り、確かめ、また削る。その繰り返しを、ただ見ている。
作業台の上に、子容器が一本置いてある。合わせるための基準として、ずっとそこにある。
形は、まだ途中だ。
でも、途中であることが、次の一手につながっている。




