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出向先は、剣と魔法と人事部でした 〜評価されなかった社会人の異世界改革〜  作者: 怪獣姫


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合わせてみないとわからない

 朝の工房は、においが違う。


 木屑の乾いたにおいと、昨日の作業が残した油のにおいが混ざっている。ブリジットはすでに作業台の前に立っていた。手元には昨夜のうちに引いておいた線がある。口径、深さ、底の厚み。三つの数字が木片の表面に、薄く刻まれている。


「マルコ」


「はい」


「この線を基準に、まず口だけ削れ。深さはまだ手をつけるな」


 マルコが作業台に近づいて、木片を手に取った。普通の松材だ。石化木ではない。形が確かめられれば、それでいい。



 昼前、伊勢が工房に顔を出した。


 マルコが口の部分を仕上げているところだった。削りすぎていない。線に沿っている。ブリジットが隣に立って、指で縁をなぞった。


「寸法を持ってきましたか」


「昨日のメモをそのまま渡した。問題ない」


 伊勢はカウンターに近づいて、試作の途中の木片を見た。口径だけが開いていた。深さはまだ板のままだ。


「子容器、持ってきましたか」


「昨日のうちに取っておいた」


 ブリジットが棚から木製容器を一本出した。現場用に使われているものと同じ形だ。伊勢は試作品の口に近づけてみた。


(入る)


 子容器の外径より、試作の口径の方が少し大きい。ルカが言っていた「五分」の差だ。スムーズに入って、ひっかかりがない。


「問題なさそうです」


「深さを削ってからだ。口だけで判断しても意味がない」


 ブリジットの声は平坦だった。急かしているわけでもなく、否定しているわけでもない。ただ、順番がある、という言い方だった。


 マルコが口を挟んだ。


「底の厚みを増やすと、全体の重さも変わりますよね。据え置きとはいえ、棚の耐荷重を確認した方がいいかもしれません」


 伊勢は少し間を置いた。棚のことは考えていなかった。道具屋にもギルドにも棚はある。石化木の親容器を置くとなれば、棚の位置と強度を確かめる必要が出てくる。


「ラッジに確認します」


「それからだな」


 ブリジットがまた作業台に向き直った。これ以上は今日の話ではない、という向き方だった。伊勢はうなずいて、工房を後にした。



 石畳を歩きながら、伊勢は手元のメモに書き加えた。棚の耐荷重、確認。ラッジに聞く、という一行が増えた。


 試作品はまだ口しか削れていない。形が確認できるのは、深さと底が仕上がってからだ。それから石化木に入って、また確かめて。手順は見えているが、終わりはまだ先にある。


(急がなくていい)


 自分に言い聞かせているわけではなかった。ただ、そう思った。



 ラッジの店は、昼を過ぎても客の出入りが続いていた。


 伊勢が入ると、ちょうど冒険者が一人出ていくところだった。ラッジはカウンターの内側に立ったまま、伊勢の顔を見て「何だ」と言った。


「棚の話です」


「棚」


「石化木の親容器を据え置くとすれば、どの棚に置くかと、耐荷重の確認が必要になると思って」


 ラッジは少しの間、伊勢を見ていた。それから奥の棚の方に視線を向けた。


「奥の下段は補強してある。採掘道具の金属品を置くために作った棚だ。石化木ならそこで問題ない」


「見てもいいですか」


「どうぞ」


 ラッジが顎でしゃくった。伊勢は棚の前に立って、下段を見た。板の厚みが他の段と違う。支えの桟が一本多い。確かに頑丈に作ってある。


「高さはどのくらいまで置けますか」


「今は採掘道具が入っている。親容器の大きさが確定してから、配置を考える」


 ラッジの答えは短かった。決まっていないことは決まってから話す、という人間だ。伊勢はそれを受け取った。


「わかりました。形が確認できたら、また来ます」


「待ってる」


 それだけだった。伊勢は店を出た。



 ギルドに戻ると、ユウトがいた。


 珍しいことではない。ユウトはギルドの常連だ。今日は依頼の更新に来たのか、掲示板の前に立っていた。


 伊勢はそのまま自分の席に向かおうとした。ユウトが掲示板から目を離して、伊勢の方を見た。


 視線が合った。


 ユウトが何か言いかけた。口が少し動いて、止まった。伊勢は足を止めなかった。すれ違って、席に着いた。


 何かが変わった、とは言えない。ただ、以前はすれ違っても視線が合うことはなかった。


(積み重なっている)


 目に見えるものではなかった。でも、伊勢はそう感じた。



 リリアが書類を畳みながら、「どうだった」と聞いた。


「試作は口だけ削れているところです。深さはこれからで」


「棚の話も出た」


「マルコが言い出しました。ラッジに確認したら、下段は補強済みとのことで」


 リリアが少し考えるような顔をした。


「マルコが言ったのか」


「そうです」


「成長してるね」


 伊勢は答えなかった。でも、確かにそうだとは思った。最初の試作のころは、削ることだけに集中していた。今は、置かれる場所まで考えている。


 窓から光が入っていた。カウンターの木目に長い影が伸びている。夕方が近い。



 シャウプがギルドに戻ってきたのは、夕刻を過ぎてからだった。


 外回りの報告書を机に置いて、椅子に座る。引き出しに手を伸ばして——引かなかった。そのまま報告書を開いた。


 今日の護衛依頼の成立件数、採取者からの苦情の有無、新規登録の冒険者数。数字が並んでいる。変化はあるが、急激ではない。じわじわと、積み重なっていく数字だ。


 シャウプは報告書を閉じた。


 引き出しの方を、一度だけ見た。


 それから、灯りを手元に引き寄せた。



 夜、工房ではマルコがまだ作業をしていた。


 深さを削り始めていた。底の厚みを確かめながら、少しずつ落とす。やり直しが利く材だから、今のうちに感覚をつかんでおく。石化木に入る前に、手に覚えさせる。


 ブリジットは少し離れた場所から見ていた。何も言わない。マルコが削り、確かめ、また削る。その繰り返しを、ただ見ている。


 作業台の上に、子容器が一本置いてある。合わせるための基準として、ずっとそこにある。


 形は、まだ途中だ。


 でも、途中であることが、次の一手につながっている。

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