決める前に、決めること
夕方の市場を抜けると、においが変わった。野菜と焼き物の混ざったにおいから、石のにおいへ。伊勢は路地の端で立ち止まり、少しの間そこにいた。
工房でのブリジットの言葉が、まだ頭の中を動いていた。
(どうしたいのかを決めてから来い)
在庫処理の話として始めた。余っているものを無駄にしない、それだけのつもりだった。それが今、需要に追いかけられている。追いかけられていることに気づかないふりをしていたのは、自分だったかもしれない。
答えは出ないまま、また歩き始めた。
◆
翌朝、伊勢はギルドに顔を出す前にラッジの店に寄った。
開店直後の店内は静かで、ラッジはカウンターの拭き掃除をしていた。伊勢の顔を見て、布を畳む。
「用があるなら聞く」
「石化木のことです」
ラッジが少しだけ動きを止めた。それから、カウンターに布を置いた。
「倉庫にある。採掘道具の柄に使っていたやつだ」
「重くて不評だったと聞きました」
「そうだ。目が詰まっている分、同じ大きさでも倍近く重くなる。振るう道具には向かなかった。加工も手間がかかるから、量を作ることもできなかった」
ラッジが続ける。
「ただ、水は通さない。長年水辺にあったせいだ。見た目は木のままだが、中身は違う」
伊勢は少し考えた。重い。それは現場に持っていく容器としては致命的だ。ただ、持っていかなくていいなら、話は変わる。
(据え置きにする)
道具屋やギルドに置いたままにする容器なら、重さは問題にならない。そこから冒険者が軽い木製の容器に移し替えて持っていけばいい。木製容器のにじみは、石化木の側で保管している間は関係ない。
「削れますか」
「削れないことはない。ただ、硬い。普通の鑿では歯が立たない」
ラッジの声は平坦だった。できる、できないを並べているだけで、どちらを勧めているわけでもない。伊勢はそれをありがたいと思った。
「数はそれほど要らないと思います。据え置きで使う分だけなので」
「そういうことか」
ラッジが少し間を置いた。
「倉庫の分で足りるかどうかは、工房と話してからだな」
伊勢はうなずいた。在庫の話が、また少し先へ進んでいた。
◆
ギルドに着くと、リリアがすでに書類を広げていた。
窓の外から光が入っている。カウンターの木目に影が伸びていた。リリアは伊勢の顔を見て、「おはよう」とだけ言った。
「少し話があります」
伊勢が向かいの椅子を引いて座ると、リリアは書類に視線を落としたまま「うん」と返した。ちゃんと聞いている、という返し方だった。
「液体の方、続けるかどうかを決めないといけなくて」
「ブリジットさんに言われた件」
「そうです」
リリアが顔を上げた。
「どっちにしたいの」
直球だった。伊勢は少し間を置いた。
「続けたいと思っています」
「うん」
「護衛と同じ方向の話だと思うので。必要な分だけ手に入れられる、それだけでいい気がしていて」
リリアはしばらく黙っていた。窓の外で鳥が鳴いた。
「それで十分じゃない」
伊勢は答えなかった。でも、何かが少し落ち着いた気がした。
◆
午後、シャウプに呼び止められた。
ギルドの廊下で、すれ違いざまに「少しいいか」と言われた。伊勢は立ち止まる。
「液体の方、動きがあると聞いた」
「工房に話を持っていく前に、整理しているところです」
「俺に話してほしいことがあるなら聞く」
シャウプの言い方は簡潔だった。押しつけではなく、ただ扉を開けておくような言い方。伊勢は少し考えた。
「続けるつもりです。ただ、木製容器のままでは量が追いつかないので、やり方を変えます」
「どう変える」
「ラッジのところに石化木があります。水を通さない材です。重くて道具には使えなかったやつですが、据え置きで使うなら重さは問題にならない」
シャウプが少し間を置いた。
「据え置き、というのは」
「道具屋やギルドに置く親容器に使います。冒険者はそこから軽い木製容器に詰め替えて現場へ持っていく。保管の問題と、持ち運びの問題を分けるかたちです」
シャウプはうなずいた。それだけで、余分なことは言わなかった。伊勢はその簡潔さを、信頼と受け取った。
◆
夕方、伊勢は工房の前に立った。
昨日と同じ石畳。同じにおい。でも、昨日と違うのは、答えを持ってきたということだった。
扉を開ける前に、少しだけ息を吸った。
工房の中から、削る音が聞こえた。マルコが今日も作業している。ブリジットがいるかどうかは、入ってみないとわからない。
伊勢は扉を押した。
ブリジットは奥の机に向かっていた。振り向かないまま、「来たか」とだけ言った。
「決めてきました」
ブリジットが振り向いた。
「続けます。ただ、やり方を変えます」
「どう変える」
「石化木で据え置きの親容器を作れないかと思っています。ラッジの倉庫にあります。水を通さない材で、重すぎて道具には使えなかったやつです」
ブリジットは少し黙った。腕を組んで、試作品の方を見た。
「親容器、というのは」
「道具屋やギルドに据え置いて、そこから木製容器に詰め替えて使う形にしようかと。現場には軽い木製容器を持っていく。保管と持ち運びを分けることで、木製容器のにじみも許容範囲になるかと思っています」
工房の中が静かになった。マルコが手を止めているのが、視界の端に映った。
「硬い材だ。通常の鑿では歯が立たない」
「わかっています」
「数は少なくて済むのか」
「据え置き分だけなので、それほど要らないかと」
ブリジットがゆっくりと腕を解いた。
「漏れをなくすことだけ考えていたが——保管の問題と持ち運びの問題を分けるなら、話が変わる」
声の温度が、少しだけ変わった気がした。問題を解く人間の声だった。
「サンプルを持ってこられますか」
「石化木を見てみないとわからないことがある、まずはそれからだ。」
ブリジットはまた机に向き直った。これ以上は今日の話ではない、という意味だった。伊勢はうなずいて、工房を出た。
◆
石畳の上で、少し立ち止まった。
決めた、という感覚が、じわりとある。大きな決断ではない。ただ、ひとつ絡まっていたものがほぐれた気がした。保管と持ち運びを分ける。それだけのことだが、それだけで話の形が変わった。
空が少し暗くなっていた。市場のにおいが薄くなり始めている。
次は、ラッジにサンプルを頼むことだ。それから、ブリジットが見て、何を言うかだ。
答えが出たわけではない。ただ、次の一歩が見えていた。
伊勢は歩き始めた。




