そういう話じゃなかった
工房の朝は削る音から始まる。
マルコが作業台の前に座り、鑿を小さく動かしていた。試作品の口の部分を薄く削っている。壁が厚すぎれば重くなる。薄くしすぎれば割れる。その間のどこかを、手の感覚で探っている。
ブリジットは離れた場所から、その手元を見ていた。
「底は」
「昨日より締まってます。でもまだ」
マルコが試作品に水を入れ、逆さにした。しばらくして、指の腹に湿り気が伝わった。布で拭けばわかる程度だが、漏れていることは漏れている。
ブリジットは腕を組んだ。継ぎ目を接着剤で固める方法は試した。乾燥後に収縮して、かえって隙間ができた。一体削りにすれば継ぎ目はなくなるが、口が狭くなって詰め替えが手間になる。どこかを立てれば、どこかが倒れる。
◆
昼を過ぎたころ、伊勢がやってきた。
「どうですか」
「まだ漏れる」
ブリジットは試作品をひとつ差し出した。伊勢は逆さにして少し持ち、静かに戻した。
「急ぎませんから」
「……一つ、聞いていいか」
ブリジットは作業台に背をもたせた。
「あれは、余った在庫を減らすための話だったはずだ。道具屋の棚を少し空けて、保存を延ばして——それで終わりのはずだった」
伊勢は答えず、続きを待った。
「ラッジのところで聞かれているというのは知っている。でも、量産するとなると話が変わる。今のやり方は一度に少ししか作れない。設備も手順も、そこまで考えていない」
工房の中が静かになった。マルコが手を止めているのが、視界の端に映った。
「量産、という話になってきているんですか」
伊勢が言った。断定ではなく、確認するような言い方だった。
「そういう声が出てきているなら、そうなる。需要が先に走っている」
ブリジットの声は平坦だったが、どこか釘を刺すような響きがあった。できる、できないの話ではなく、順序が違う、という意味だった。
「今の工房で無理に増やせば、質が落ちる。それは困る」
伊勢はしばらく黙っていた。在庫処理の延長で動いていた話が、いつの間にか需要に引っ張られている。自分でもうっすら気づいていたが、こうして言葉にされると輪郭がはっきりした。
「続けるかどうか、考え直す必要があるということですね」
「少なくとも、今のままで応えようとするのは無理だ。どうしたいのかを決めてから、また来い。こちらはその後の話だ」
ブリジットは試作品を作業台に置いた。それ以上は言わなかった。
◆
工房を出た伊勢は、しばらく石畳の上に立っていた。
需要が出てきたのは悪いことではない。でも、需要に応えるための仕組みが何もない。設備も、手順も、人も。在庫処理の話として始めたから、そこまで考えていなかった。
(どうしたいのか、か)
答えは出ないまま、歩き始めた。
◆
翌朝。ケインがギルドに着いたとき、掲示板の前で声がしていた。
中堅どころの冒険者が、小さな木の容器を手に持ちながら話していた。三人ほどが聞いている。
「組んだ先輩に少し分けてもらった。効き目は強くないけど、すぐ出せるのがいい」
「どこで売ってる?」
「まだ表には出てないらしい。持ってる人から、という感じで」
ケインは近づかずに聞いていた。エナが以前「液体にすれば持ち運びやすい」と言っていたのを思い出した。それが今、掲示板の前の会話になっている。
(広まってる)
自分が関わった話ではない。でも、知っている流れの先にある光景だった。
◆
その日の護衛依頼は、採掘エリアまでの往復だった。
ケインは後ろを歩きながら、依頼人である採掘師二人組の足取りを見ていた。ペースは一定で、荷物の揺れ方も安定している。慣れた人間の歩き方だ。
「最近、護衛つけて来る採掘師が増えたな」
前を歩く片方が言った。
「単純に、安心料として払うやつが増えた感じがする」
ケインは何も言わなかった。ただ、その言葉を聞きながら、自分の足が少し軽くなった気がした。剣を抜かなかった一日が、ここに積み重なっている。
◆
帰り道、偶然エナと一緒になった。
「ギルドで聞きました。液体のやつ、口コミで広まってるみたいで」
「そうか」
エナは多くを語らなかった。ただ少し間を置いてから、ぽつりと言った。
「広まるのはいい。ただ、広まった先に何があるかを考えないといけない」
「どういうことですか」
「需要が出れば、量がいる。量を作るには、今とは違うやり方がいる。今はまだ、そこまで追いついていない」
ケインには詳しい段取りはわからなかった。でも、エナが目の前の話ではなく、もう少し先のことを見ていることは伝わった。
「難しいんですね」
「悪い話じゃない。ただ、順番がある」
エナはそれだけ言って、角を曲がっていった。ケインはしばらくその背中を見ていた。
石畳の先で、夕方の市場のにおいが混ざり始めていた。




