口から口へ
ギルドの詰め所は、朝の空気をまだ残していた。
窓から差し込む光が、カウンターの木目をなぞっている。伊勢は手元の書類に目を落としながら、シャウプの声を待った。
「先月と比べると、護衛依頼の成立件数は三割増し。キャンセルは一件だけだ」
シャウプが羊皮紙を置く。数字は淡々としていた。けれど、淡々としているほど、中身は確かだと伊勢は思う。
「採取者側の苦情は?」
「ほぼ出ていない。最初の週は『余分な費用だ』という声がちらほらあったが——今は聞かなくなった」
リリアが隣で手元に目線を落とし、小さく書き込みをしている。伊勢はそれを視界の端に収めながら、もう一度数字を見た。
(思ったより早い)
強制にしたから動いた、ではなく、動いた結果が数字になっている。そこが違う、と伊勢は感じていた。
◆
午後。伊勢は道具屋に寄った。補充の確認ではなく、ただの立ち話のつもりだった。
ラッジは奥の棚に背を向けて、木箱の整理をしていた。入口の鈴が鳴っても振り向かないのはいつものことで、伊勢は黙って待つ。
「今日は何の用だ」
「特には」
ラッジが振り向く。少しだけ眉を上げて、また棚に向き直った。
「最近、冒険者に聞かれることが増えた」
なんの前置きもなかった。伊勢はカウンターに肘をついて、「何を」と返す。
「液体のやつだ。どこで売ってるか、と。まだ正式には扱っていないのにな」
ラッジの声は平坦だった。驚いているわけでもない。ただ、事実として置いているような言い方だった。
「誰かから聞いたんだろう」
「だろうな。口だろう。誰かが誰かに、という」
伊勢は少し黙った。
(口コミ、か)
制度でも告知でもなく、自然に広がっている。それは予測の内だったが、こんなに早いとは思っていなかった。
「具体的にはどういう聞き方だ」
「『小さいやつで、少しだけ買える薬があると聞いた』——そういう言い方が多い。値段を聞いてくるやつもいる」
伊勢は答えを引き延ばすように息を吸って、「まだ値段は決まっていない」と言った。
「知ってる」
ラッジが棚から振り向いた。目は穏やかで、急かす気配はなかった。
「急かしてるんじゃない。そういう声が出てきてる、というだけだ」
◆
帰り道、リリアと並んで歩いた。
石畳の隙間から草が伸びている。雨上がりの街は、においが変わる。リリアはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「根付いてきてる、って感じがするね」
「護衛の方か」
「うん。それも。液体の方も」
伊勢は「そうだな」とだけ返した。根付く、という言葉は正確だと思った。植えた記憶がある。育っているかどうかは、しばらく見ないとわからない。でも今は、育っている気がした。
「焦らなくていいんだよな、こういうのは」
リリアがぽつりと言った。独り言のようだったが、こちらに向けた言葉でもあった。
「そうだな」
「でもちょっとわくわくする」
伊勢は少しだけ笑った。リリアも笑っていた。石畳の先に、夕方の市場のにおいが混ざり始めていた。
◆
その日の夜。
シャウプは机の前に座って、引き出しを一度だけ引いた。開けず、また押し込む。
書簡はまだそこにある。
外では、誰かが笑い声を上げていた。少し遠い。
シャウプは灯りを消した。




