見えない価値
翌朝、ラッジは約束通り工房の扉を叩いた。
伊勢が開けると、老商人はいつものように飄々とした顔で立っていた。ただ、昨日より少しだけ早い時間だった。
「続きを聞かせてもらおうか」
短く言って、ラッジは中に入った。
◆
工房の隅には、昨日の試作の痕跡がまだ残っていた。ブリジットが削った木片、細い棒、染みのついた布。エナがいくつか並べ直した葉のかけら。伊勢はそれらをちらりと見てから、丸椅子をラッジの前に置いた。
「昨日、うまく言えなかったんですが」
「うん」
「少し整理してきました」
ラッジは黙って腰を下ろした。
(昨日の「続きはまた明日」——あれはいつものラッジではなかった。急かさず、でも確かに待っていた。)
伊勢は言葉を選びながら、話し始めた。
◆
「まず、草のままだとかさばりますよね」
「そうだな」
「回復薬草を一種類並べるだけで、棚の一段が埋まる。状態を保つために重ねられないし、湿気にも気を使う。ラッジさんの店、薬草の棚、いつも窮屈そうにしてますよね」
ラッジは少し目を細めた。
「見てたのか」
「何度か寄らせてもらってるので」
伊勢は続けた。
「液体にして小さな瓶に詰めれば、同じ棚に三倍か四倍の種類を並べられる。棚が空けば、別の道具を置ける。道具屋にとって棚のスペースは——」
「資産だ」
ラッジが静かに言葉を引き取った。
「空いた棚は、売れる場所だ」
伊勢は頷いた。
◆
ラッジはしばらく黙って、手の甲を見ていた。
考えているのか、計算しているのか、伊勢には判断できなかった。ただ、老商人の背筋がわずかに前に傾いていた。昨日よりも、少し。
「もう一つあります」
伊勢は続けた。
「草は傷む」
「ああ」
「仕入れてから売れるまでに時間がかかると、廃棄が出る。廃棄はそのまま損になる。ラッジさんの店で、薬草の廃棄ってどのくらい出ていますか」
ラッジは答えなかった。ただ、口の端がほんの少し動いた。
それが答えだ、と伊勢は思った。
「液体にすれば、保存期間が延びる可能性がある。草の状態より長く、品質を保てる。廃棄ロスが減れば——」
「コストが変わる」
またラッジが言葉を継いだ。今度は少し速かった。
「棚が広くなって、廃棄が減る。同じ仕入れで、残るものが増える」
静かな声だったが、その中に何かが混じっていた。伊勢がこれまで聞いたことのない、ラッジの声の質だった。
◆
工房の外で、鳥が鳴いた。
朝の光が窓から斜めに差し込んで、昨日の試作の痕跡を照らしていた。染みのついた布が、ほんの少しだけ光っているように見えた。
伊勢はゆっくりと言った。
「だから、売れなくてもいいかもしれない、と思ったんです」
ラッジが顔を上げた。
「売ること自体より、ラッジさんの損を減らすことの方が、先にある気がして。液体の回復薬が売れるかどうかより、道具屋の棚が変わることの方が、実は大きいんじゃないかと」
(うまく言えているか分からなかった。でも、昨日よりは近かった。)
「新しいものを売るより、今あるものの損を埋める方が、先だということか」
ラッジは確かめるように言った。押しつけるでもなく、否定するでもなく、ただ声に出して確かめていた。
「……そう、だと思います」
◆
ラッジは立ち上がり、工房の中を一度ゆっくりと見回した。
木片、細い棒、葉のかけら。試作の痕跡。どこかまだ不完全な、入口の景色。
「伊勢」
「はい」
「値段の話は、まだしなくていい」
それだけ言って、ラッジは扉の方へ歩いた。振り返らずに続けた。
「続きを、作れ」
扉が閉まった。工房に、朝の静けさが戻った。
伊勢はしばらくその場に立ったまま、閉まった扉を見ていた。
(値段の話は、まだしなくていい——それはラッジが初めて言った言葉だった。いつも最初に値段を聞く男が。)
窓の外で、もう一度鳥が鳴いた。




