表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
出向先は、剣と魔法と人事部でした 〜評価されなかった社会人の異世界改革〜  作者: 怪獣姫


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

50/69

売れなくても良い

朝の工房は、木の匂いがする。

削り屑と、乾いた薬草と、昨日使った道具に残った油の匂いが混ざって、独特の空気を作っていた。


伊勢はその匂いに、少しずつ慣れてきた自分に気づいていた。最初に来たときは鼻の奥がむずがゆかったのに、今はむしろ落ち着く。場所というのは、繰り返し通うことで体に刻まれていくものらしい。


テーブルの上には、昨日ブリジットに削ってもらった道具が並んでいた。薬草の茎を固定するための木片、葉脈に沿って圧をかけるための細い棒。どれも小さく、一見すると何に使うのか分からない形をしている。


「角度、もう少し寝かせてみて」

エナが横から言った。命令ではなく、独り言に近い声だった。自分の手元を見ながら言うから、伊勢に向けているのかどうかも最初は分からなかった。でも今は分かる。エナが何かに気づいたとき、こういう言い方をする。



伊勢は棒の角度を変え、息を整えてから、ゆっくりと葉脈に沿って圧をかけた。

葉肉が潰れないように。しかし葉脈には確かに力が届くように。その二つを同時に意識すると、どうしても手が固くなる。固くなると力の配分が崩れ、どちらかが犠牲になる。何度やっても、その加減がむずかしかった。


息を吐きながら、もう一度。

細い液体が、葉の端からわずかに滲んだ。


「……出た」

誰かが息を飲んだ。伊勢自身だったかもしれない。気づいたら声に出していた。工房の中で、その一言だけが浮いたように聞こえた。



色は薄かった。量はごくわずかで、ブリジットが用意した小さな容器の底を濡らす程度しかない。粘度も一定ではなく、同じ葉から二度やっても違う結果が出た。圧のかけ方が少し変わるだけで、出てくるものが変わる。再現性がない。とても「完成」と呼べるものではなかった。


それでも、伊勢の手のひらには確かな感触が残っていた。

これまでの失敗と、手触りが違う。煮たときの、葉脈が白く濁っていく感覚とも違う。水に漬けたときの、何も起きないまま時間だけが過ぎる感覚とも違う。うまく言葉にはできないが、何かが変わった。入口のようなものに、指先が触れた気がした。


エナが小さく頷いた。ブリジットが容器をそっと持ち上げ、光に透かして確認した。マルコが無言でその横に立ち、同じように覗き込んだ。誰も余計なことを言わなかった。言葉にしてしまうと、消えてしまいそうな気がしたのかもしれない。伊勢もそう思っていた。



扉が開いたのは、その静かな時間の中だった。

「で、いつ売れる?」

ラッジだった。いつもと同じ歩き方で、いつもと同じ声で、いつもと同じ言葉を持って入ってきた。工房の空気を読む気配は、今日もなかった。


部屋の中の空気が、少しだけ揺れた。


伊勢は容器を見たまま、すぐには答えなかった。何を言うべきか考えていたわけではない。ただ、すぐに言葉が出てこなかった。容器の底に溜まった薄い液体を見ていたら、何かが喉の奥で引っかかっていた。


「ラッジさん」

「なんだ」

「売れなくてもいいかもしれません」



部屋が静かになった。

ラッジは固まっていた。片足を踏み出したままの姿勢で、次の一歩を忘れたように止まっていた。エナは手を止め、ブリジットが容器から目を離して伊勢の横顔を見た。マルコだけが、持っていた容器をそっとテーブルに置いた。その小さな音だけが、部屋の中に残った。

誰も笑わなかった。

冗談に聞こえる言い方ではなかったから。



伊勢自身も、なぜそう口から出たのか、うまく説明できなかった。

間違ったことを言った気はしなかった。でも正しいと言い切れる言葉も、まだ持っていなかった。この小さな液体を見ていたら——草のかさばりが消えて、時間をかけずに持ち運べる形になって——そう思った。それだけだった。理屈はまだ、追いついていない。


窓の外で、風が一度だけ吹いた。工房の中には届かなかったが、窓枠の隙間から細い光が揺れた。

「……続きは、また明日聞かせてもらおうか」


ラッジが静かに言った。いつもの「いつ売れる?」とは、少し違う声だった。急かす気配がなかった。ただ、待つという意志だけがあった。

伊勢は小さく頷いた。

容器の底の液体は、まだ揺れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ