売れなくても良い
朝の工房は、木の匂いがする。
削り屑と、乾いた薬草と、昨日使った道具に残った油の匂いが混ざって、独特の空気を作っていた。
伊勢はその匂いに、少しずつ慣れてきた自分に気づいていた。最初に来たときは鼻の奥がむずがゆかったのに、今はむしろ落ち着く。場所というのは、繰り返し通うことで体に刻まれていくものらしい。
テーブルの上には、昨日ブリジットに削ってもらった道具が並んでいた。薬草の茎を固定するための木片、葉脈に沿って圧をかけるための細い棒。どれも小さく、一見すると何に使うのか分からない形をしている。
「角度、もう少し寝かせてみて」
エナが横から言った。命令ではなく、独り言に近い声だった。自分の手元を見ながら言うから、伊勢に向けているのかどうかも最初は分からなかった。でも今は分かる。エナが何かに気づいたとき、こういう言い方をする。
◆
伊勢は棒の角度を変え、息を整えてから、ゆっくりと葉脈に沿って圧をかけた。
葉肉が潰れないように。しかし葉脈には確かに力が届くように。その二つを同時に意識すると、どうしても手が固くなる。固くなると力の配分が崩れ、どちらかが犠牲になる。何度やっても、その加減がむずかしかった。
息を吐きながら、もう一度。
細い液体が、葉の端からわずかに滲んだ。
「……出た」
誰かが息を飲んだ。伊勢自身だったかもしれない。気づいたら声に出していた。工房の中で、その一言だけが浮いたように聞こえた。
◆
色は薄かった。量はごくわずかで、ブリジットが用意した小さな容器の底を濡らす程度しかない。粘度も一定ではなく、同じ葉から二度やっても違う結果が出た。圧のかけ方が少し変わるだけで、出てくるものが変わる。再現性がない。とても「完成」と呼べるものではなかった。
それでも、伊勢の手のひらには確かな感触が残っていた。
これまでの失敗と、手触りが違う。煮たときの、葉脈が白く濁っていく感覚とも違う。水に漬けたときの、何も起きないまま時間だけが過ぎる感覚とも違う。うまく言葉にはできないが、何かが変わった。入口のようなものに、指先が触れた気がした。
エナが小さく頷いた。ブリジットが容器をそっと持ち上げ、光に透かして確認した。マルコが無言でその横に立ち、同じように覗き込んだ。誰も余計なことを言わなかった。言葉にしてしまうと、消えてしまいそうな気がしたのかもしれない。伊勢もそう思っていた。
◆
扉が開いたのは、その静かな時間の中だった。
「で、いつ売れる?」
ラッジだった。いつもと同じ歩き方で、いつもと同じ声で、いつもと同じ言葉を持って入ってきた。工房の空気を読む気配は、今日もなかった。
部屋の中の空気が、少しだけ揺れた。
伊勢は容器を見たまま、すぐには答えなかった。何を言うべきか考えていたわけではない。ただ、すぐに言葉が出てこなかった。容器の底に溜まった薄い液体を見ていたら、何かが喉の奥で引っかかっていた。
「ラッジさん」
「なんだ」
「売れなくてもいいかもしれません」
◆
部屋が静かになった。
ラッジは固まっていた。片足を踏み出したままの姿勢で、次の一歩を忘れたように止まっていた。エナは手を止め、ブリジットが容器から目を離して伊勢の横顔を見た。マルコだけが、持っていた容器をそっとテーブルに置いた。その小さな音だけが、部屋の中に残った。
誰も笑わなかった。
冗談に聞こえる言い方ではなかったから。
◆
伊勢自身も、なぜそう口から出たのか、うまく説明できなかった。
間違ったことを言った気はしなかった。でも正しいと言い切れる言葉も、まだ持っていなかった。この小さな液体を見ていたら——草のかさばりが消えて、時間をかけずに持ち運べる形になって——そう思った。それだけだった。理屈はまだ、追いついていない。
窓の外で、風が一度だけ吹いた。工房の中には届かなかったが、窓枠の隙間から細い光が揺れた。
「……続きは、また明日聞かせてもらおうか」
ラッジが静かに言った。いつもの「いつ売れる?」とは、少し違う声だった。急かす気配がなかった。ただ、待つという意志だけがあった。
伊勢は小さく頷いた。
容器の底の液体は、まだ揺れていた。




