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出向先は、剣と魔法と人事部でした 〜評価されなかった社会人の異世界改革〜  作者: 怪獣姫


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名前のない子

 ダンジョン入口の広場が、一瞬だけ静まった。


 武器に手をかけた冒険者たちの間で、誰かが低く叫ぶ。


「囲むな、散れ!」


 魔物は三匹。小型だが、数がある。


 だが――それだけだった。


 慣れた冒険者たちにとって、これは難しい仕事ではない。

 少女が踏み荒らされないよう気をつけながら、手短に追い払う。


 それで、終わった。



 少女は、目を覚ました。


 冒険者たちが取り囲んでいる。

 魔物の気配は、もうない。


 少女はゆっくりと起き上がり、周囲を見回した。


 怖がっていない。


 不思議なほど、怖がっていない。


 ただ、少しだけ眠そうな目で、まばたきを繰り返している。


「……おはよう」


 誰かがそう言うと、少女は小さく会釈した。


「おはようございます」


 その返事が妙に丁寧で、冒険者たちの間に苦笑が漏れた。



 ギルドに連れてきたのは、リリアだった。


 応接の椅子に座らせ、湯を出し、毛布を渡す。


 手順は落ち着いていた。

 だが、その横顔には、いつもと違う緊張が見えた。


 伊勢が近づく。


「記録は?」


「ダンジョン入口付近で保護。同行者なし。怪我なし」


 リリアは書類に目を落としたまま続ける。


「名前と出身地を確認しようとしましたが……」


 少し、言葉が止まる。


「分からない、と」



 伊勢は少女の前に膝をついた。


 目線を合わせる。


「体は大丈夫ですか」


「うん」


 少女は小さく頷いた。

 声は落ち着いている。


「名前は、分かりますか」


「……わかんない」


 少し考えてから答える。

 困っているというより――本当に、分からないという顔だった。


「どこから来たか、覚えていますか」


 少女はまた少し考えた。


「遠いところ」


 それだけだった。



 リリアが小声で言う。


「記憶の混乱でしょうか」


「かもしれません」


 伊勢も小声で返す。


 少女は二人の会話を聞いていた。

 だが、特に気にした様子もない。


 湯の入った器を両手で持ち、静かに飲んでいる。


 その所作が、なぜか少しだけ場違いに整っていた。



 しばらくして、少女が顔を上げた。


「ねえ」


「何ですか」


「ここって、あぶないの?」


 伊勢は一拍だけ考えた。


「場所によります。危険な場所もあります」


「そっか」


 少女はまた湯を飲んだ。


 それから、ほんの少しだけ首を傾げる。


「魔物、へらしてるのに、こわくなるの?」


 空気が、かすかに変わった。


 リリアが顔を上げる。


 伊勢の動きが、ほんの一瞬だけ止まる。


「……何をですか」


「まもの」


 少女は当たり前のように繰り返した。


「へらしたら、こわくなるって、ちがうの?」



 一拍。


 また一拍。


 伊勢はゆっくりと息を吐いた。


「……そういう場合もあります」


 それ以上は、広げなかった。


 少女は「ふーん」と小さく頷き、また湯に視線を戻す。


 会話は、そこで終わる。



「名前、決めていいですよ」


 しばらくして、伊勢が言った。


 少女が顔を上げる。


「自分で?」


「覚えるまで、の仮の名前でいいので」


 少女は少し考えた。


 ずいぶん真剣に、考えた。


 そして。


「……ルカ」


「ルカ、ですか」


「うん」


 理由は言わない。


 ただ、少しだけ満足そうにした。



 その日の夕方。


 ギルドの一室で、リリアは記録を書いていた。


 名前:ルカ(仮)

 出身:不明

 記憶:曖昧


 ペンが、一度止まる。


(……不思議な子)


 怖がらない。

 混乱しない。


 それなのに、何かを知っているような言葉を落とす。


 偶然だろうか。


 リリアは視線を上げ、窓の外を見た。


 夕暮れの街。

 冒険者が帰ってくる。


 遠くのどこかで、まだダンジョンは口を開けている。



 廊下を歩く伊勢の隣で、ルカが小さな足音を立てていた。


「ここに、いていい?」


「しばらくは」


 伊勢は短く答えた。


「怖くないですか、知らない場所は」


「ぜんぜん」


 ルカは当たり前のように言った。


 そして、少しだけ笑う。


「おもしろいから」



 夜。


 ギルドの窓から、ルカは外を眺めていた。


 街の灯り。

 人の声。

 遠いダンジョンの石門。


 その目は――観察していた。


 静かに、確かに。


 名前のない子は今夜、この街で眠る。


 何者かは、まだ誰も知らない。

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