名前のない子
ダンジョン入口の広場が、一瞬だけ静まった。
武器に手をかけた冒険者たちの間で、誰かが低く叫ぶ。
「囲むな、散れ!」
魔物は三匹。小型だが、数がある。
だが――それだけだった。
慣れた冒険者たちにとって、これは難しい仕事ではない。
少女が踏み荒らされないよう気をつけながら、手短に追い払う。
それで、終わった。
◆
少女は、目を覚ました。
冒険者たちが取り囲んでいる。
魔物の気配は、もうない。
少女はゆっくりと起き上がり、周囲を見回した。
怖がっていない。
不思議なほど、怖がっていない。
ただ、少しだけ眠そうな目で、まばたきを繰り返している。
「……おはよう」
誰かがそう言うと、少女は小さく会釈した。
「おはようございます」
その返事が妙に丁寧で、冒険者たちの間に苦笑が漏れた。
◆
ギルドに連れてきたのは、リリアだった。
応接の椅子に座らせ、湯を出し、毛布を渡す。
手順は落ち着いていた。
だが、その横顔には、いつもと違う緊張が見えた。
伊勢が近づく。
「記録は?」
「ダンジョン入口付近で保護。同行者なし。怪我なし」
リリアは書類に目を落としたまま続ける。
「名前と出身地を確認しようとしましたが……」
少し、言葉が止まる。
「分からない、と」
◆
伊勢は少女の前に膝をついた。
目線を合わせる。
「体は大丈夫ですか」
「うん」
少女は小さく頷いた。
声は落ち着いている。
「名前は、分かりますか」
「……わかんない」
少し考えてから答える。
困っているというより――本当に、分からないという顔だった。
「どこから来たか、覚えていますか」
少女はまた少し考えた。
「遠いところ」
それだけだった。
◆
リリアが小声で言う。
「記憶の混乱でしょうか」
「かもしれません」
伊勢も小声で返す。
少女は二人の会話を聞いていた。
だが、特に気にした様子もない。
湯の入った器を両手で持ち、静かに飲んでいる。
その所作が、なぜか少しだけ場違いに整っていた。
◆
しばらくして、少女が顔を上げた。
「ねえ」
「何ですか」
「ここって、あぶないの?」
伊勢は一拍だけ考えた。
「場所によります。危険な場所もあります」
「そっか」
少女はまた湯を飲んだ。
それから、ほんの少しだけ首を傾げる。
「魔物、へらしてるのに、こわくなるの?」
空気が、かすかに変わった。
リリアが顔を上げる。
伊勢の動きが、ほんの一瞬だけ止まる。
「……何をですか」
「まもの」
少女は当たり前のように繰り返した。
「へらしたら、こわくなるって、ちがうの?」
◆
一拍。
また一拍。
伊勢はゆっくりと息を吐いた。
「……そういう場合もあります」
それ以上は、広げなかった。
少女は「ふーん」と小さく頷き、また湯に視線を戻す。
会話は、そこで終わる。
◆
「名前、決めていいですよ」
しばらくして、伊勢が言った。
少女が顔を上げる。
「自分で?」
「覚えるまで、の仮の名前でいいので」
少女は少し考えた。
ずいぶん真剣に、考えた。
そして。
「……ルカ」
「ルカ、ですか」
「うん」
理由は言わない。
ただ、少しだけ満足そうにした。
◆
その日の夕方。
ギルドの一室で、リリアは記録を書いていた。
名前:ルカ(仮)
出身:不明
記憶:曖昧
ペンが、一度止まる。
(……不思議な子)
怖がらない。
混乱しない。
それなのに、何かを知っているような言葉を落とす。
偶然だろうか。
リリアは視線を上げ、窓の外を見た。
夕暮れの街。
冒険者が帰ってくる。
遠くのどこかで、まだダンジョンは口を開けている。
◆
廊下を歩く伊勢の隣で、ルカが小さな足音を立てていた。
「ここに、いていい?」
「しばらくは」
伊勢は短く答えた。
「怖くないですか、知らない場所は」
「ぜんぜん」
ルカは当たり前のように言った。
そして、少しだけ笑う。
「おもしろいから」
◆
夜。
ギルドの窓から、ルカは外を眺めていた。
街の灯り。
人の声。
遠いダンジョンの石門。
その目は――観察していた。
静かに、確かに。
名前のない子は今夜、この街で眠る。
何者かは、まだ誰も知らない。




