薬草採取者トーマス
ダンジョンの空気は、地上とはまるで違う。
冷たい。湿っている。そして、どこか重たい。
地下へ続く石階段を降りるたび、空気がゆっくりと変わっていく。
松明の火が小さく揺れ、石壁に影が伸びた。
伊勢は足を止めた。
「……静かですね」
横を歩くリリアが頷く。
「ええ」
本来なら、この辺りにはスライムがいる。
弱い魔物だが、初心者には油断できない存在だ。
だが――気配がない。
水滴の音だけが、ぽたり、ぽたりと響いていた。
◆
「おーい」
後ろから、よく通る声がした。
振り向くと、大柄な男が階段を降りてくる。
分厚い作業着。
腰には小さな鎌とナイフ。
背中には薬草を入れる大きな籠。
日焼けした顔に無精ひげ。
だが目は穏やかで、人懐っこい笑みを浮かべている。
トーマスだ。
この街で長く薬草採取をしている男で、新人採取者の面倒を見ることも多い。
ギルドでも顔が広く、採取者たちからの信頼も厚い人物だった。
「二人とも早いな。伊勢、調査か?」
伊勢は軽く会釈する。
「ええ」
トーマスは背中の籠をぽんと叩いた。
「俺はいつもの採取だ。新人が潜る前に薬草の様子見ておく」
リリアが微笑む。
「トーマスさんは、いつも新人の面倒を見ていますね」
トーマスは少し照れたように頭をかいた。
「まぁな。薬草採取ってのは慣れないと危ないんだ」
そして通路を指した。
「行くぞ。ついでに教えてやる」
◆
三人は通路を進む。
石の床。湿った空気。
トーマスは壁際を指した。
「本当なら、この辺に薬草がある」
伊勢が視線を向ける。
土が掘られた跡。
葉がちぎれた跡。
だが、新しい芽が少ない。
トーマスが眉をひそめた。
「……おかしいな」
リリアが聞く。
「何がです?」
トーマスはしゃがみ込み、土を触る。
「薬草はな、魔物の気配がある場所に生える。この辺ならスライムがいるはずなんだ」
伊勢が周囲を見回す。
「いませんね」
トーマスは小さく頷いた。
「いないな」
そして少し苦笑した。
「まぁ、そのせいで薬草は余り気味だ」
リリアが小さく息を吐く。
「街でも在庫が増えていると聞きました」
伊勢も頷いた。
「ええ。道具屋でもそうでした」
トーマスは肩をすくめる。
「勇者のおかげで怪我する奴が減ってるからな」
それから笑った。
「でも、薬草なんて本当は使わない方がいいんだ」
リリアが少し真面目な顔になる。
「ですが、それではトーマスさんのお仕事が減ってしまうのでは?」
トーマスは気にした様子もなく笑う。
「いいんだよ」
そして、どこか柔らかい声で言った。
「娘がパン屋をやりたいって言うんだから」
リリアが少し驚いた顔をする。
「パン屋ですか?」
「ああ」
トーマスは嬉しそうに笑った。
「街のパン屋のおばさんに憧れてるらしい」
伊勢が思わず言う。
「まだ小さいんじゃないですか?」
リリアもすぐに続けた。
「そうですよ、まだ子供でしょう?」
トーマスは大笑いした。
「そうなんだよ。まだ八歳だ」
三人の間に、少しだけ笑いが広がる。
◆
そのとき。
遠くで剣の音が響いた。
金属がぶつかる音。
トーマスが肩をすくめる。
「勇者だな。また魔物倒してる」
しばらくして、通路の奥から青年が現れた。
勇者ユウト。
剣には黒い血がついている。
ユウトは三人に気づくと少し驚いた顔をした。
「あれ? 伊勢さん」
伊勢は軽く会釈する。
「お疲れ様です」
ユウトは笑った。
「大したことないですよ。オークが三匹、浅層に来てました。珍しいですけど、倒したから大丈夫です」
トーマスが眉を上げる。
「オーク? 浅層に?」
ユウトは頷いた。
「最近ちょっと増えてる気がします」
◆
帰り道。
トーマスがぽつりと言う。
「勇者、いい奴だ」
籠を揺らしながら続けた。
「強いし真面目だ。魔物が減れば採取もしやすい」
リリアが頷く。
「ええ」
伊勢は答えなかった。
ダンジョンの奥を見る。
暗い。
静かだ。
静かすぎる。
◆
ダンジョンの奥。
さらに深い場所。
光の届かない場所で――
大きな影がゆっくり動いた。
腹が鳴る。
餌が足りない。
魔物が、いない。
赤い目が開く。
そして、それは上を見た。
人間のいる方を。




