静かすぎるダンジョン
朝の光が、ギルドの大きな窓から斜めに差し込んでいた。まだ冷たい空気の残る朝だというのに、建物の中はすでに多くの冒険者で賑わっている。木の床がきしむ音、革鎧が擦れる音、酒場の奥から漂うパンとスープの匂い。いつもの朝の光景――のはずだった。
だが。
伊勢は掲示板の前の空気に、わずかな違和感を感じていた。
依頼書は貼られている。
冒険者も集まっている。
しかし、なぜか会話が弾んでいない。
腕を組んで依頼書を見上げる者、顎に手を当てて考え込む者。誰もがどこか歯切れが悪い。
「……伊勢様」
隣に立つリリアが、小さく声をかけた。胸に抱えた書類をぎゅっと握りながら、掲示板を見上げている。
「はい」
「少し、変だと思いませんか?」
伊勢は視線を掲示板へ戻した。朝日を受けた依頼書が、白く光っている。
「新人向け依頼が減っています」
リリアの指が、掲示板の端を指す。そこに並んでいるのは
・小型魔物討伐
・浅層巡回
・薬草採取護衛
初心者が最初に受ける依頼ばかりだ。
だが。
数が少ない。
伊勢は依頼書の端を指で押さえた。
「……達成済みが多いですね」
赤い印がいくつも並んでいる。昨日、その前の日、さらにその前。浅層の依頼が一気に消化されている。
リリアが頷いた。
「ここ数日で、浅層の討伐が急に進んでいます」
そのとき。
「おう、伊勢」
背後から低い声がした。
振り向くと、シャウプが腕を組んで立っていた。大きな体が朝の光を背負い、床に長い影を落としている。
「なんかおかしいんだよな」
無精ひげをかきながら、シャウプは掲示板を見上げる。
「新人の依頼が減ってる」
それから、声を少し落とした。
「それに」
「浅層が静かすぎる」
伊勢は眉をわずかに動かす。
「静か、ですか?」
シャウプは頷いた。
「魔物が少ねぇ」
「それは、良いことでは?」
リリアが言うと、シャウプはゆっくり首を振る。
「いや」
少し考える。
「……少なすぎる」
その瞬間だった。
◆
ギルドの扉が勢いよく開いた。
「おい!聞いたか!」
若い冒険者が飛び込んでくる。頬を紅潮させ、息を弾ませて叫んだ。
「勇者がまたやったぞ!」
空気が一瞬で変わる。
「今度はオークの群れだ!」
「一人で全部倒したらしい!」
掲示板の前の冒険者たちがどっと騒ぎ出す。
「さすが勇者だ!」
「この街は安泰だな!」
酒場の方からも笑い声が広がる。肩を叩き合う冒険者たち。誰もが興奮している。
その様子を見ながら、リリアが少し困ったように微笑んだ。
「最近、このような報告が増えていまして……」
伊勢は黙って話を聞いていた。
勇者。
ユウト。
転生者。
確かに強い。巨狼を一撃で倒したという話も聞いている。
だが。
伊勢は静かに尋ねた。
「その討伐は……どこで?」
リリアが書類を確認する。
「浅層です」
「昨日はコボルトの群れ」
「その前は大型ゴブリン」
伊勢の指が机の上で止まった。
浅層。
また浅層。
そして。
◆
「おいシャウプ」
低い声が割り込んだ。
ラッジだった。道具屋の主人が、いつもの不機嫌そうな顔でギルドへ入ってくる。
「薬草が余ってる」
シャウプの眉が動く。
「……余ってる?」
ラッジは肩をすくめた。
「採取者が言ってた」
「魔物が少なくて採りやすいらしい」
「今までの倍持ってくる」
ギルドの空気が、わずかに沈む。
伊勢が静かに言った。
「……薬草が増える」
リリアが続ける。
「魔物が減る」
シャウプが腕を組む。
「そして勇者が狩ってる」
しばらく沈黙が流れた。
窓の外では、朝日が街の屋根を照らしている。通りでは冒険者たちが楽しそうに話している。
「勇者がいれば安心だ」
「この街はもう安全だな」
その声を聞きながら、伊勢は小さく呟いた。
「本当に……そうでしょうか」
シャウプが伊勢を見る。
「お前も思うか」
低い声だった。
伊勢は少し視線を落とす。
「まだ確信はありません」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「ですが」
「ダンジョンは」
「こんなに静かになる場所ではないはずです」
シャウプは短く息を吐いた。
「だよな」
ぼそりと呟く。
「静かすぎるってのは」
「大体ロクな前触れじゃねぇ」
◆
窓の外では、勇者の話で盛り上がる冒険者たちの笑い声が響いている。
伊勢は掲示板を見上げた。
浅層討伐。
達成済み。
達成済み。
達成済み。
赤い印が、やけに多く見える。
伊勢は小さく呟いた。
「……魔物は」
「どこへ行ったんでしょうね」
誰も答えない。
ただ、ギルドの空気だけが、ほんの少しだけ重くなっていた。




