英雄の余波
巨狼討伐の話は、半日で街を一周した。
酒場。市場。武具屋。
「新人が一撃だってよ」
「雷魔法らしいぞ」
「詠唱なしって話だ」
人は噂が好きだ。
特に、英雄の噂は。
ギルドの掲示板の前にも、人だかりができていた。
新しい紙が一枚貼られている。
討伐報告。
――巨狼
――単独討伐
――新人登録者
その名前の前で、誰かが声を上げる。
「ユウトってやつか」
「すげえな」
「勇者みたいじゃねえか」
笑い声が広がる。
だが、全員が笑っているわけではない。
少し離れたところで、年配の冒険者が腕を組んでいた。
「……ああいうのはな」
低い声。
「街を変える」
誰に聞かせるでもない言葉。
だが、その言葉は静かに重かった。
⸻
ギルドの奥。
事務机の上に、同じ報告書が置かれている。
リリアはそれをじっと見つめていた。
指先が紙の端を押さえている。
少しだけ、力が入る。
「……早い」
予想していた。
転生者が現れれば、こうなると。
だが。
予想より早かった。
シャウプが椅子に深く座り、腕を組んでいる。
「どう見る」
短い問い。
リリアは顔を上げる。
「冒険者型転生者の可能性が高いです」
「だろうな」
シャウプは鼻を鳴らした。
「善人っぽいが」
「はい」
「だから厄介だ」
リリアは黙って頷く。
悪人なら分かりやすい。
だが、善人は止めにくい。
それが一番難しい。
リリアは書類を閉じた。
「中央の規定通り、観察段階に入ります」
シャウプが頷く。
「担当は」
「私です」
静かな声だった。
人事官としての役割。
転生者の監視。
その責任を理解している声。
⸻
その頃。
ギルドの別室。
伊勢は一人で机に向かっていた。
討伐報告の束が並んでいる。
巨狼討伐。
新人。
単独。
指先で紙を軽く叩く。
「……善人」
小さく呟いた。
報告書の端に書かれた証言。
――周囲に謝っていた
――魔物にも謝っていた
――危ないから倒したと言っていた
伊勢は小さく息を吐く。
「困りましたね」
悪人ではない。
悪人なら対処は簡単だ。
だが善人は違う。
善意は止めにくい。
しかも。
強い。
窓の外から笑い声が聞こえる。
酒場の方だ。
もう祝杯が始まっているのだろう。
英雄の誕生。
伊勢は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「……まだ何も壊れていない」
だからこそ。
「今のうち、ですか」
小さく呟く。
⸻
扉が軽く叩かれた。
「失礼します」
リリアだった。
伊勢が顔を上げる。
「どうしました」
リリアは少し背筋を伸ばす。
「伊勢様」
丁寧な声。
「転生者の観察任務に入りました」
伊勢は頷く。
「中央の規定通りですね」
「はい」
リリアは続ける。
「ただ……」
「ただ?」
少し迷う。
そして言った。
「街の空気が、少し変わっています」
伊勢は小さく笑った。
「英雄ですから」
「……はい」
リリアは窓の外を見る。
遠くの酒場。
歓声。
笑い声。
英雄の話題で、街は浮かれている。
伊勢は書類を整えながら言う。
「観察を続けましょう」
「まだ問題は起きていません」
リリアは頷く。
だが胸の奥に、小さな違和感が残る。
そのときだった。
遠くの酒場から、大きな声が聞こえた。
「ユウトだ!」
「また魔物倒したってよ!」
「さっき北門で見たぞ!」
歓声が広がる。
酒杯がぶつかる音。
笑い声。
英雄の名前。
リリアは静かに眉を寄せた。
そして、伊勢を見る。
伊勢は窓の外を見たまま、動かない。
ゆっくりと指で机を叩く。
酒場にいる。
だが同時に、魔物を倒しているという噂が広がる。
情報が混ざっている。
誇張か。
それとも。
伊勢は目を細めた。
「……速すぎる」
小さな声。
もし本当にこの速度で討伐が進むなら。
低ランク魔物の減少。
新人冒険者の依頼減少。
討伐報酬の偏り。
素材市場の歪み。
思考が静かに広がる。
まだ何も起きていない。
だが。
火はすでに落ちている。
伊勢はゆっくりと息を吐いた。
「さて」
机の上の報告書を、もう一度見た。
ユウト。
英雄。
善意。
そして。
「……どこまで広がりますかね」
その問いに答える者は、まだいなかった。




