英雄の誕生
ダンジョン前の広場は、朝から人が多かった。
荷車が軋み、革袋がぶつかり、金具の擦れる音が混ざる。
湿った土の匂いと、剣油の匂い。
冒険者たちの一日は、ここから始まる。
「今日の依頼は軽めだな」
「新人の面倒見る日だ」
そんな声が飛び交う中。
ざわり、と空気が変わった。
広場の端。
ダンジョンの口へ続く道の向こうから、低い唸り声が聞こえた。
人の背丈ほどある巨狼。
毛並みは灰色、牙は白く、目は濁った金。
涎が糸を引き、足元の土を爪で抉る。
「おい……あれ、出てきたのかよ」
「深層寄りのやつだぞ」
誰かが息を呑む。
本来なら、四人パーティで囲んで削る相手だ。
新人だけでは危ない。
だが、その巨狼の前に、一人の青年が立っていた。
細身。
背は高いが、筋肉が誇示されるタイプではない。
装備は新しい。
まだ傷がない。
それなのに、足が止まっていない。
逃げない。
青年は巨狼を見て、少しだけ眉を寄せた。
そして、困ったように笑った。
「……ここ、通れないと困るんですけど」
声は落ち着いていた。
怖がっていないわけじゃない。
怖いのに、立っている声だ。
巨狼が吠え、地面を蹴る。
空気が震えた。
「危ねぇ! 下がれ!」
誰かの叫び。
だが青年は下がらない。
右手を前に出す。
指先が、すっと空を切る。
次の瞬間。
青年の足元に淡い光が走った。
魔法陣――いや、模様が重なり合っている。
複数。
「……詠唱、してない?」
「いや、口動いてねえぞ」
ざわめきが広がる。
青年が小さく息を吸い込む。
その息が吐き出される前に、空が鳴った。
雷。
ただの雷ではない。
白い線が一本落ちるのではなく、幾筋も重なり、束になって巨狼へ叩きつけられる。
眩しさに、誰かが目を細めた。
音が遅れて来る。
耳が痛いほどの轟音。
巨狼の身体が跳ね、地面に叩きつけられ――
動かなくなった。
焦げた匂いが立ち上る。
静寂。
そして。
「……は?」
誰かの間抜けな声が、空気を破った。
次に起きたのは歓声だった。
「やった!」
「一撃だ!」
「嘘だろ!?」
青年はその歓声に目を丸くした。
そして、慌てて手を振る。
「いえ、えっと……危なかったので、つい……!」
言い訳みたいに聞こえるのに、本人は本気だ。
巨狼を見て、青年は眉を下げた。
「ごめん。痛かったよね」
死体に向かって謝った。
周囲が一瞬、黙る。
次の瞬間、笑いが漏れた。
「なんだこいつ」
「変な奴だな」
だがその笑いは、嫌な笑いじゃない。
どこか温かい。
青年は地面に膝をつき、巨狼の傷を確かめるように触れた。
そして立ち上がり、周囲を見回す。
「……この魔物、よく出るんですか?」
冒険者たちが顔を見合わせる。
「いや、普通は出ねえ」
「最近、ちょっと荒れてる」
青年は真面目な顔になった。
「それなら、倒した方がいいですよね」
その言葉はまっすぐだった。
正義感ではない。
善意だ。
「危ないの、嫌なので」
青年は笑った。
その笑顔に、周囲が勝手に安心してしまう。
「名前は?」
誰かが聞く。
「ユウトです」
青年――ユウトは、少し照れたように頭をかいた。
「冒険者登録、今日が初めてで」
「初めてでこれかよ!」
笑いと拍手。
誰かが肩を叩く。
誰かが酒を持ってこようとする。
広場は一気に“英雄の誕生”の空気になっていく。
その輪の外側で、年配の冒険者が一人、黙っていた。
目が笑っていない。
隣の仲間に小さく呟く。
「……強すぎる」
誰にも届かないような声。
歓声は大きくなり、巨狼の死体は荷車に載せられた。
ユウトはその荷車を押すのを手伝いながら、周囲に何度も頭を下げる。
「役に立ててよかったです」
ただ、それだけ。
英雄は、自分が英雄になったことに気づいていない。
その日の夕方。
ギルドの奥で、討伐報告の紙が机に置かれた。
“巨狼/単独討伐/新人登録者/ユウト”
紙の端には、中央ギルドの刻印が押されていた。
それを見つめたリリアの指先が、わずかに止まる。
息を吸い、吐く。
そして、静かに言った。
「……始まりました」
ギルドの窓の外。
街は、まだ英雄の話で浮かれている。
夕焼けが石畳を赤く染め、笑い声が遠くまで響いていた。




