噂は、味方にも敵にもなる
噂というものは、風に似ている。
目には見えないのに、
確かにどこかから吹いてくる。
広場の井戸端。
酒場の奥。
ギルド掲示板の前。
名前は出ない。
だが、内容は具体的だ。
――あの鍛冶屋、ちゃんと見てくれるらしい。
◆
「金は取るけどな」
酒場の隅で誰かが笑う。
「でもさ、あれ悪くないぞ。傷の入り方まで見てくれた」
「次どう使えばいいかも教えてくれたし」
肯定の声が、じわりと広がる。
だが。
「説教されるだけじゃねえの?」
「初心者相手に商売してるだけだろ」
「長持ちさせて買い替え減らす気じゃね?」
否定も、同じ速さで広がる。
噂は、公平だ。
味方も敵も、同じように増やす。
◆
その風は、工房にも届いていた。
昼過ぎ。
炉の熱が揺らめく中、
ブリジットは腕を組んで立っている。
いつもより、少しだけ無言が長い。
「……増えたね」
扉の開閉が、明らかに増えている。
「はい。昨日より三割ほど」
伊勢の落ち着いた声。
◆
だが、来る者すべてが真剣な目をしているわけではない。
様子見。
冷やかし。
半信半疑。
ブリジットは、それを全部感じ取っていた。
(……見られてる)
評価されているのは、武器だけではない。
自分自身だ。
◆
そのとき、工房の扉が強く開いた。
「おい!」
低い声が、空気を震わせる。
振り返ったのは、中堅の冒険者。
使い込まれた装備、傷だらけの盾。
◆
「お前の武器、切れ味落ちやすいって聞いたぞ」
周囲が一瞬、静まる。
熱気の中、
空気だけが冷えたようだった。
◆
ブリジットは、すぐに答えなかった。
喉が、わずかに乾く。
だが、目は逸らさない。
「……どこで聞いたの?」
「酒場だ」
「そう」
短く息を吐く。
◆
「切れ味は落ちるよ」
はっきり言う。
「使えばね」
ざわ、と周囲が揺れる。
◆
「でもね」
一歩前に出る。
炉の火が背中を照らす。
「ちゃんと手入れすれば戻る」
「戻らないなら、私の責任」
◆
胸の奥が、少しだけ強く打つ。
怖くないわけじゃない。
でも。
(逃げないって、決めた)
◆
「今ここで見る?」
顎で剣を示す。
「金は取るよ。でも、納得いかなかったらいらない」
静かだが、芯のある声だった。
◆
中堅冒険者は一瞬、言葉を失う。
そして剣を差し出した。
「……やってみろ」
◆
ブリジットは剣を受け取る。
重みを感じる。
刃を光にかざし、
指先でなぞり、
油を引く。
布で丁寧に拭い、
研ぎ石を当てる。
動きは速いが、雑ではない。
◆
「振ってみて」
◆
冒険者が空を切る。
刃が空気を裂く音が、明らかに変わる。
◆
「……戻ってる」
◆
「だから言ったでしょ」
ブリジットは肩をすくめる。
「血と油が膜を作って、切れ味を鈍らせるの」
「落ちるのは武器のせいじゃない。扱い方の問題」
一拍。
「武器のせいにしないで」
最後の一言だけ、強くなった。
◆
周囲で見ていた冒険者たちの視線が変わる。
疑いから、観察へ。
◆
中堅冒険者は黙ったまま金を置いた。
「……次も来る」
◆
扉が閉まる。
しばらくして。
ブリジットは、ふう、と長く息を吐いた。
「……心臓に悪い」
小さく笑うが、手のひらは少し汗ばんでいる。
◆
「大丈夫ですか」
伊勢が静かに問う。
「平気」
一拍。
「……たぶんね」
◆
工房の外で、女武闘家の声が響く。
「ほら言ったでしょ! あそこ、ちゃんとしてるって!」
笑い声。
その明るさが、少しだけ救いになる。
◆
夕方。
火の色が、橙から赤へ変わる。
ブリジットは炉の前で、静かに立っていた。
「噂は止まらないね」
「はい。良いのも悪いのも」
◆
「分かってる」
彼女は火を見つめる。
「でもね」
一拍。
「逃げたら、全部嘘になる」
視線は揺れない。
◆
ギルドでは。
シャウプが報告書を閉じる。
「……面白い」
口元が歪む。
「小さな火が、広がってきやがった」
◆
リリアが静かに問う。
「どうなさいますか」
◆
シャウプは椅子に背を預ける。
「まだ見てるだけだ」
一拍。
「だがな。火は、扱いを間違えると燃える」
◆
その言葉を、伊勢は聞いていた。
噂は、味方にも敵にもなる。
ならば。
どう燃やすかを、考えるだけだ。




