その話をするには、少しだけ信頼が必要だった
工房の火が落ち、
炉の奥で赤く残っていた熾火が、ゆっくりと暗くなっていく。
昼間の熱が嘘のように、
空気は少しだけ重たい。
ブリジットは革のエプロンを外しながらも、
すぐにはその場を離れなかった。
片腕でエプロンを掴んだまま、
もう一方の手で、無意識に指先を擦っている。
金属の熱が、まだ皮膚に残っているのだろう。
◆
「……伊勢」
呼びかける声は、
昼間の張りのあるものとは違っていた。
少し低く、
少しだけ慎重だ。
ブリジットは顔を上げず、
床に落ちた煤を見つめたまま続ける。
「もう一個だけさ」
一拍。
唇を引き結び、
それから短く息を吐く。
「聞いてほしい話がある」
伊勢は、すぐに答えなかった。
ただ、ゆっくりと頷く。
それだけで、
ブリジットの肩がほんの少し下がった。
リリアも空気の変化を察し、
手にしていた書類を胸に抱え直し、一歩だけ下がる。
――仕事の話。
そう自分に言い聞かせながら。
◆
「初心者向けの装備が売れない」
ブリジットは工具棚にもたれ、
体重を預けるように立った。
「それ自体はさ、
別に珍しくもない」
軽く言おうとしたのだろう。
だが、語尾は少しだけ掠れていた。
◆
「でも」
彼女は拳を握る。
その拳が、
かすかに震えている。
「問題は、その先」
◆
「ちゃんとした武器を作るほど、
儲からなくなる」
言い切った瞬間、
ブリジットは一度、視線を逸らした。
自分の言葉を
真正面から見るのが、少し怖いかのように。
リリアの指先が、
紙の上で止まる。
◆
「壊れにくい」
指を一本立てる。
「無理をさせない」
二本目。
「結果、
買い替えも修理も減る」
三本目を立てたところで、
ふっと力が抜けた。
「……商売としては、
最悪だよね」
口元だけで笑う。
だが、目は笑っていない。
◆
伊勢は、
相槌を打たなかった。
遮らず、
急かさず。
この話には、
それが必要だと分かっている。
◆
「派手でさ」
ブリジットは壁に掛けられた装飾剣を指差す。
「無茶がきいて」
「壊れやすい武器の方が」
指を戻し、
自分の胸を軽く叩く。
「……正直、回る」
唇を噛む。
「分かってるんだよ」
「全部」
◆
「だから」
顔を上げる。
その目は、
これまで見せたことのないほど真剣だった。
「私、
ずっと中途半端なんだ」
苦笑するが、
目は逸らさない。
「理想はある」
「でも、
商売を捨てきれない」
「かといって」
手を広げ、
すぐに閉じる。
「何も言わずに作るのも、違う」
◆
沈黙。
炉の奥で、
木材がぱちりと音を立てた。
◆
ブリジットは、
いつの間にか伊勢のすぐ横に立っていた。
肩が触れるほど近い。
だが、そこに甘さはない。
ただ、
同じ方向を見て話す距離だった。
◆
リリアは胸の奥に、
小さな棘のような違和感を覚えた。
(……この人)
(こんな話を、
誰にでもする人じゃない)
視線が、
無意識に伊勢へ向く。
その前で、
これほど無防備になる。
その事実が、
ちくりと刺さる。
(……距離が、近い)
嫉妬だと断じるほど、
自分は単純ではない。
けれど、
平気な理由も見つからなかった。
◆
「正直に言うね」
ブリジットは、
今度ははっきりと伊勢を見る。
「今日のやり方」
「ランクで装備を見せるやつ」
一瞬、
言葉を探すように眉を寄せる。
「……あれで、
ちょっと怖くなった」
◆
「売れなくなるかもしれない」
ぽつり、と。
工房の空気に、
その言葉が沈む。
◆
「それでも」
ブリジットは拳を握り直す。
「ちゃんと選んでくれた顔を見たらさ」
目を伏せる。
「……逃げたくなくなった」
その声は、
ほとんど囁きだった。
◆
伊勢は、
ここで初めて口を開く。
「ブリジットさん」
落ち着いた声。
「それは、
中途半端じゃない」
ブリジットの目が、
ぱっと見開かれる。
◆
「一番、
現実的な葛藤です」
「全員を救うやり方は、
ありません」
静かに、しかし明確に。
「でも」
「選択の結果を、
誰が背負うのかは決められる」
◆
「今までは」
伊勢は、
ブリジットの握った拳を見る。
「ブリジットさんが、
一人で背負っていた」
その言葉に、
彼女の肩がすっと落ちた。
◆
「……ずるいね、アンタ」
そう言って、
ブリジットは伊勢の腕を、軽く肘で小突いた。
力は弱い。
照れ隠しでもない。
ただ、
気を許した相手にしかしない動作だった。
「そんな言い方されたらさ」
顔を背け、
短く息を吐く。
「もう、
戻れないじゃん」
◆
「伊勢」
ブリジットは、
少しだけ言い淀んでから言った。
「……あんたさ、下の名前は?」
「え?」
伊勢は一瞬だけ目を瞬かせる。
「海人ですが」
「ふうん」
ブリジットは視線を逸らし、
ほんの一拍考える。
「じゃあ、今から海人」
そう言ってから、少し遅れて――
ブリジットが、
少しだけ照れたように言う。
その呼び方に、
特別な響きはない。
ただ、
壁が一枚、なくなった音がした。
◆
リリアは、
その瞬間を見逃さなかった。
(……名前で)
胸の奥が、
静かに軋む。
それでも、
目を逸らさなかった。
◆
「もう少しだけさ」
ブリジットは頭を掻き、
視線を泳がせる。
「一緒に考えてほしい」
「商売としても」
「人としても」
伊勢は、
迷わず頷いた。
「はい」
◆
工房の外で、
夕暮れの風が吹く。
火の残り香は、
まだ消えていなかった。
正しいものほど、残らない。
――その現実から、
目を逸らさずに済む相手が、
今、目の前にいる。
ブリジットは、
初めてそう思えた。




