それを感情と呼ぶには、まだ早い
リリアは、自分が今、どこを見ているのか分からなくなっていた。
◆
ギルドの二階。
書類整理用の小部屋。
窓からは道具屋通りが見下ろせる。
冒険者が歩き、
職人が声を張り、
いつもと変わらないはずの風景。
――なのに。
視線は、無意識に一人の人物を追っていた。
◆
伊勢が、ブリジットと話している。
向かい合って、
距離は近すぎず、遠すぎず。
だが。
ブリジットの表情は、
これまでリリアが見てきたものとは違った。
肩の力が抜けている。
声が、少し柔らかい。
(……心を、許している)
そう感じた瞬間、
胸の奥に、細い針のようなものが刺さる。
◆
――違う。
すぐに、思考が否定する。
(仕事の話)
(信頼関係)
(それ以上でも、それ以下でもない)
そう整理すれば、
納得できるはずだった。
◆
リリアは、机に戻り、
書類に目を落とす。
採取者の配置。
次週のローテーション。
数字は、整っている。
いつも通りだ。
(……問題なし)
そう書き込もうとして、
ペンが止まる。
集中できていない。
◆
伊勢の声が、
ふと耳に届く。
大きくもなく、
感情的でもない。
それでも、
相手の言葉を遮らない話し方。
(……あの人は)
(人を、置いていかない)
だから。
だからこそ。
◆
ブリジットが笑った。
遠くからでも分かる、
晴れた笑顔。
その瞬間、
胸の奥が、きゅっと縮む。
(……あ)
初めて、
その感覚を“自分のもの”として認識した。
◆
――これは。
嫉妬、と呼ぶには早い。
好意、と言い切るには浅い。
だが。
見過ごしていい違和感ではない
ということだけは、分かった。
◆
リリアは、深く息を吸った。
(私は、人事官)
(判断は冷静に)
(感情に振り回されない)
いつも通りの、
自分への言い聞かせ。
けれど、
今回は少しだけ違った。
(……でも)
(感情があること自体を、
否定する必要はない)
そう思えたのだ。
◆
窓の外で、
伊勢がふと顔を上げる。
一瞬だけ、
視線が合った気がした。
リリアは、
反射的に視線を逸らす。
心臓が、
少しだけ速く打っていた。
◆
(……まだ)
(今は、まだ)
言葉にはしない。
行動にも出さない。
ただ。
この感情が、
どこへ向かうのかを、
見届けることだけは、
許してもいい。
リリアは、そう思った。
机の上の書類に、
改めて目を落とす。
文字は、
もう滲んではいなかった。
感情はまだ、
名前を持たない。
けれど確かに、
そこに在った。




