ここにいる理由を、まだ言葉にできない
伊勢は、朝のギルドが少し好きだった。
冒険者が集まり始める前。
掲示板の前も静かで、
職員たちの足音だけが石床に響く時間。
誰かに呼ばれているわけでもなく、
命じられているわけでもない。
それでも、当たり前のようにここに立っている。
その事実が、最近になって少しだけ不思議に思えるようになった。
◆
「伊勢さん」
声をかけられ、顔を上げる。
若い職員が、書類を抱えて立っていた。
「この配置案、見てもらえますか?」
「はい」
自然に受け取る。
内容を確認し、
不足している視点を一つ二つ補足する。
「ここ、初心者パーティの動線が被りますね」
「……あ、本当だ」
「休憩地点を一つ前に置いた方が安全です」
「ありがとうございます!」
職員は、ほっとしたように頭を下げて去っていった。
その背中を見送りながら、伊勢は思う。
(……普通だ)
頼られている。
応えている。
それが、すっかり当たり前になっている。
◆
少し前まで、
自分は“外から来た人間”だった。
異世界からの出向者。
期限付きの存在。
けれど今は、
誰もその肩書きを口にしない。
仕事を振られ、
判断を求められ、
結果を期待される。
それでも――。
胸の奥に、
いつも引っかかっているものがある。
誰も、口には出さない。
けれど。
頭の隅には、確かにある。
出向期限。
配置転換。
意思確認。
終わりが来ることを、
最初から前提にしている言葉たち。
(……仮の場所、か)
そう思った瞬間、
少しだけ胸が冷えた。
◆
昼前、中庭を通りかかると、
リリアがベンチに腰掛けていた。
書類を膝に置き、
真剣な表情で目を通している。
「……お疲れさまです」
声をかけると、顔を上げた。
「あ、伊勢様」
一瞬だけ、呼び方が揺れる。
「お疲れさまです」
その短いやり取りで、
距離が少し戻ったような気がした。
「何か、ありましたか?」
「いえ」
リリアは首を振る。
「ただ……考え事を」
それ以上は言わない。
伊勢も、踏み込まなかった。
踏み込めない理由が、
自分にも分かってしまったからだ。
◆
午後。
シャウプに呼ばれ、
簡単な報告を行う。
「現場は、落ち着いてきているな」
「はい。完全ではありませんが」
「十分だ」
シャウプは短く頷いた。
それから、ふと伊勢を見る。
「……お前」
「はい」
「ここにいるの、
居心地はどうだ」
不意打ちのような質問だった。
伊勢は、すぐには答えられなかった。
「……居心地は、いいです」
嘘ではない。
だが、それだけでは足りない。
「ただ」
一拍置いて続ける。
「ここは、
“ずっといる場所”ではないのだろうな、と」
シャウプは、黙って聞いていた。
「出向ですから」
伊勢は、淡々と言った。
「役目が終われば、
私は……」
その先は、言葉にしなかった。
◆
シャウプは、椅子に深く腰掛ける。
「居場所ってのはな」
低い声で言う。
「最初から用意されてるもんじゃない」
「必要とされて、
それに応えて、
それでも残りたいと思ったときに、
初めて自分で決めるもんだ」
伊勢は、目を伏せた。
「……決めて、いいんでしょうか」
「決めなきゃならん」
即答だった。
「期限があろうが、
立場が何だろうが」
「“今、ここにいる理由”を
自分で分からなくなったら、
それこそ終わりだ」
その言葉は、
励ましでも命令でもなく、
忠告だった。
◆
夕方。
ギルドの入口付近で、
少しだけ騒がしい声が聞こえた。
「……だからさ、売れないんだよ!」
明るく、張りのある声。
火花が散るような勢いのある声だった。
職員が困ったように対応している。
「最近さ、初心者に向けて色々と知恵を出してる奴がいるって聞いたんだ!」
その言葉に、伊勢は足を止めた。
「ギルドにいるってさ。
数字だけじゃなくて、現場も見て話す奴だって」
「……ええと、相談内容を整理してから――」
「いいから一回、会わせてよ!」
「作ってる側の話、ちゃんと聞いてくれるんでしょ?」
その声には、
不満だけではない。
期待が混じっていた。
伊勢は、声の主の姿をまだ見ていない。
けれど。
(……探されている)
そう、直感した。
今日は、まだ踏み込まない。
だが――
次は、ここにいる理由を問われる仕事になる。
その予感だけが、
胸の奥で静かに形を持ち始めていた。




