期限という言葉が、静かに刺さる
その考えは、突然浮かんだわけではなかった。
むしろ、
ずっと視界の端にあったものが、
ある瞬間、はっきりと形を持った――そんな感覚だった。
◆
人事局の書庫は、朝でもひんやりとしている。
高い天井。
並ぶ書棚。
紙とインクの匂い。
リリアは古い記録簿を抱え、静かに歩いていた。
靴音が、石床に控えめに響く。
出向者名簿。
他国、他組織、他部署。
それぞれの名前の横に、
小さな文字で並ぶ情報。
任期
目的
帰任
淡々とした言葉だ。
感情の入り込む余地など、最初からない。
指先で行を追っていたリリアは、
ある瞬間、動きを止めた。
(……出向)
胸の奥が、かすかに冷える。
(伊勢様も……)
そうだった。
彼は、この世界に「来た」人間だ。
ここで生まれ、ここで生きてきた人ではない。
(終わりが、ある)
その事実が、
今になって重くのしかかってきた。
◆
書庫を出ると、窓から光が差し込んでいた。
埃が舞い、
光の筋がゆっくりと揺れる。
リリアは、しばらくその光を見つめたまま動けなかった。
(……考えすぎ)
そう言い聞かせようとする。
だが、胸の奥に沈んだ違和感は、
簡単には消えてくれなかった。
(もし……)
(もし、突然いなくなったら)
想像した瞬間、
喉の奥が詰まる。
慌てて首を振った。
(違う)
(まだ、何も決まっていない)
だからこそ――
確認しなければならなかった。
◆
午後。
ギルド長室の前に立ったとき、
リリアは一度、深く息を吸った。
ノックの音が、
思ったよりも大きく響く。
「失礼します」
「入れ」
シャウプは、書類から目を離さず応じた。
部屋の空気は、落ち着いている。
だが、今日はそれが少しだけ重い。
「……ギルド長」
「何だ」
ペンを置き、こちらを見る。
その視線に、逃げ場はない。
「伊勢様の件で……
一つ、確認をさせてください」
シャウプの眉が、わずかに動いた。
「出向には……
期限があるものではないかと」
言葉にした途端、
胸が締め付けられる。
「伊勢様も、
いずれは……」
その先が、どうしても言えなかった。
◆
シャウプは、すぐには答えなかった。
椅子に背を預け、
天井を一瞬だけ見上げる。
それは、考えている仕草というより――
覚悟を整える仕草だった。
「……心配する必要はない」
やがて、静かに言う。
「少なくとも、
今すぐどうこうなる話じゃない」
その声は、落ち着いていた。
だが、リリアは気づいてしまった。
ほんのわずかな、間。
それでも、その言葉に救われたのも事実だった。
「……そう、ですか」
息が、自然と漏れる。
「ああ」
シャウプは頷く。
「伊勢は、今ここに必要な人間だ」
「ギルドにとっても……な」
それは、嘘ではなかった。
だからこそ、
余計に安心してしまう。
リリアは、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
◆
部屋を出たあと、
廊下の窓辺で足を止める。
外では、冒険者が行き交っている。
いつも通りの風景。
(……よかった)
胸の奥に溜まっていたものが、
少しずつ溶けていく。
(期限がないなら)
(今は、考えなくていい)
そう思えるだけで、
世界が少し明るく見えた。
◆
ギルド長室。
扉が閉まったあと、
シャウプは長く息を吐いた。
「……まったく」
小さく呟き、
机の引き出しを開ける。
そこにあるのは、一通の書類。
厚手の紙。
赤い封蝋。
中央ギルドの印。
表題は、簡潔だった。
――《異世界出向者・伊勢海人
現状確認および今後の配置に関する照会》
シャウプは、それを手に取らず、
ただ見つめる。
「今は……まだだ」
誰に言うでもなく呟き、
引き出しを静かに閉めた。
その音は、とても小さい。
だが――
確かに、何かが閉じられた音だった。
真実は、まだ表に出ない。
それでも、
期限という言葉だけが、
静かに時を刻み始めていた。




