仕事だから、だと思いたかった
リリアは、その日いつもより早く出勤していた。
朝のギルドは静かだ。
冒険者の足音もなく、掲示板の前も空いている。
石床に靴音が響くたび、
自分の呼吸がはっきり聞こえる。
(……落ち着こう)
深く息を吸い、吐く。
制服の襟を整え、
いつもの自分を取り戻すための動作を、丁寧に繰り返す。
◆
昨日から、周囲の視線が変わった。
あからさまではない。
だが、微妙に違う。
挨拶のあとに一拍置かれる。
何気ない一言に、含みが混じる。
「今日は早いですね」
「ええ、少し……」
それ以上は続かない。
けれど、その“続かない”こと自体が、気になった。
(……仕事に、集中しないと)
そう思うほど、
意識が余計なところへ向いてしまう。
◆
書類を確認する。
人員配置。
採取者のローテーション。
農園との連絡。
数字と文字は、嘘をつかない。
だから、好きだ。
(感情より、分かりやすい)
そう思ってきた。
――思っていたはずだった。
◆
「リリアさん」
声をかけられ、顔を上げる。
伊勢だった。
「この件ですが……」
差し出された資料を受け取りながら、
リリアは一瞬、言葉に詰まった。
距離が、近い。
ほんの少し。
昨日までなら、気にも留めなかった距離。
(……いけない)
すぐに一歩、後ろへ下がる。
「ありがとうございます。確認します」
声は、完璧に業務用だった。
伊勢は、ほんの一瞬だけ瞬きをする。
だが、何も言わない。
「よろしくお願いします」
それだけを残して、去っていった。
◆
胸の奥が、ちくりと痛む。
(……何をしているの)
(私は、人事官)
(距離は、必要)
自分に言い聞かせる。
仕事に感情を持ち込まない。
それは、誇りでもあった。
◆
昼休み。
一人で中庭のベンチに腰を下ろす。
風が吹き、木々が小さく揺れる。
遠くで、冒険者の笑い声が聞こえた。
(……助かった人たち)
(その裏で、
私は何を考えている)
無意識に、昨日の夜を思い出す。
杯の数。
柔らかくなった声。
敬語が消えた自分。
(……違う)
小さく首を振る。
(あれは、ただの労い)
(仕事が一区切りついたから)
(それ以上じゃない)
そう思おうとするほど、
胸の奥が静かにならない。
◆
午後。
再び伊勢とすれ違う。
今度は、目が合った。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
だが、リリアはすぐに視線を逸らした。
「……」
伊勢は、何も言わない。
その沈黙が、
なぜか責められているように感じてしまう。
(……違う)
(責められているわけじゃない)
(ただ……)
言葉が、続かない。
◆
夕方。
執務を終え、机を片付ける。
書類は整理され、
明日の予定も整っている。
完璧だ。
――なのに。
(……終わらない)
胸の奥のざわめきだけが、残る。
◆
ギルドを出る直前、
廊下の角で伊勢と鉢合わせた。
「あ……」
「……お疲れさまです」
声が、少しだけ硬い。
リリアは、反射的に頷いた。
「お疲れさまでした」
一歩、すれ違う。
その瞬間。
「……リリアさん」
呼び止められ、足が止まる。
「何でしょうか」
振り返る。
伊勢は、少し迷ったあと、言った。
「何か、
私が不都合なことをしましたか」
その問いは、静かだった。
責めも、詰問もない。
ただ、確認だった。
リリアの胸が、ぎゅっと締まる。
(……違う)
(伊勢が悪いわけじゃない)
唇を噛み、正直に答える。
「いいえ」
一拍。
「……私の問題です」
伊勢は、それ以上踏み込まなかった。
「そうですか」
それだけ言って、
少しだけ距離を取る。
その背中を見送りながら、
リリアは気づいてしまった。
(……距離を取ったのは、私なのに)
(どうして、こんなに苦しいの)
◆
夜。
部屋に戻り、椅子に腰を下ろす。
今日一日を、ゆっくり振り返る。
仕事は、問題なく終わった。
判断も、配置も、正しかった。
それなのに。
(仕事だから)
(仕事として)
何度も、心の中で繰り返す。
だが、最後に残ったのは、
その言葉ではなかった。
(……私は)
(どこまでを、仕事にしたいんだろう)
答えは、まだ出ない。
ただ一つ確かなのは――
割り切ろうとするほど、
心は割り切れていなかった
ということだけだった。




