怖い先輩
アリアという名の「苦手意識」から脱兎のごとく逃げ出したグレンの一日は、例によって掲示板の検分から幕を開ける。
冒険者たちの熱気に紛れ、彼は不人気な依頼がないか視線を走らせる。今のところは食い詰めた初心者を地獄へ誘うような不良在庫は見当たらない。
実のところ、コミュ障を極めたグレンにとって、討伐系の裏仕事は精神的負担が少ない。
何故なら、その魔物を屠りさえすれば、最悪ギルドを通さなくても依頼主は困らない。
わざわざ感謝の言葉を投げつけられる「完了報告」という名の拷問をスキップしても構わないのだ。
もっとも、そうなるとギルドにも依頼報酬は入らないが、最低限の調律───「適度に」救い「適度に」見捨てる。その冷徹なバランスさえ保てば、彼に与えられた使命は達せられるのだ。
「おう、ゴミ箱じゃないか。ちゃんと魔物の勉強はしてるのか?」
鼓膜を汚染する、聞き慣れた声。
その主はレオンだった。大型案件を片付け、暇を持て余した強者がギルドに居座り、手近な玩具を弄り倒す。それはルウラ支店における日常的な「生態系」の縮図だった。
「そ、そうですね。勉強させてもらってます」
「頼むぞ。ギルドの従業員が無知では、俺たち冒険者が安心して背中を預けられないからな。……あ、お前は接客すらできないんだったか。ギャハハハ!」
お客様は神様であり、冒険者はその代行者だ。
何を言われても、グレンに許された反応は「背景」に徹することのみ。視線を合わせることさえ放棄した彼に、反論の二文字は存在しない。
「グレンくん。ちょっと付き合ってくれる?」
その淀んだ空気を切り裂いたのは、フィルネ・レンペルだった。
彼女は巨大な緑色の鉱石を抱え、レオンの鼻先にそれを突きつけるようにして割り込む。
レオンのお気に入りであり、同時に彼の手綱を握る担当受付嬢。そんな彼女がグレンに声をかけるのは極めて珍しい事象だった。
「なによ。依頼主のところまで、この鉱石を運ばなきゃいけないの。重いから持ってくれる? ……どうせ暇でしょ」
「あ、あぁ、はい」
レオンが呆気に取られた顔で取り残されるのを尻目に、グレンはフィルネから「重荷」を預かり、彼女の背中を追ってギルドを脱出した。
だが、手渡された鉱石を抱えた瞬間、グレンは奇妙な違和感に眉を寄せる。
それは案外と軽いのだ。
彼女が「重いから」と称したそれは、見かけ倒しの多孔質、あるいは何らかの処理が施されたかのように、あまりにも手応えがなかった。
そして、ルウラの街外れ。依頼主への納品と完了報告は、フィルネの流れるような事務処理によって、一切の無駄なく完了した。
冒険者が「獲物」を届けて報酬を得るのがギルドの表舞台なら、その獲物を依頼主へ届け、現金を回収してくるのは従業員の職務だ。
二人の間には冬の湖底のような静寂が横たわっていたが、ギルドへの帰路、フィルネが唐突にその沈黙を破った。
「グレンくん。冒険者ギルドにとって、一番大事にしなきゃいけないことって何だと思う?」
「え、えーと。依頼を、冒険者にしっかり届ける……とか、でしょうか?」
「そうだね。でもさ、それでも冒険者に届かなかった依頼がどうなるかは、知ってるでしょ?」
(……なるほど、そういう事か)
グレンは妙に納得した。掲示板から依頼書を剥ぎ取る〝だけ〟を仕事にしている自分に向けられた先輩からの嫌味だと。
しかしグレンは言い返さない。言い返せないのだが。
「そ、それは……、期限切れで『破棄』されますね」
「そう。冒険者は自分の都合で依頼を選ぶけど、依頼主は切実なの。破棄されたら、彼らの問題は永遠に解決されない」
「それは……し、仕方ないことですよ」
その言葉がフィルネの逆鱗に触れたのか。彼女の瞳が、鋭い冷気を帯びてグレンを射抜いた。
だが、グレンの言葉は厳然たる事実だ。需要と供給が一致しなければ、依頼者からの救いは冒険者に届かない。それがこの世界の、そしてギルドという組織の残酷な摂理なのだから。
「わかってるわよ、そんなこと。……それでも、本当に困っている人のために選り好みせず剣を振るってくれる冒険者がもっといてもいいよね? って話」
「ま、まあ。そうですね」
(ゴブリンなんて、と吐き捨てたレオンにこそ聞かせてやりたい言葉ですね)
グレンはそう思ったが、それを口にする勇気は一ミリも持ち合わせていなかった。
「あとさ。……私たち、同い年でしょ? いい加減に敬語、やめてくれない?」
「あ、はい。……ごめんなさい」
再度、フィルネに睨まれる。
グレンは亀のように首を縮め、石畳を見つめるしかなかった。
ふいに向けられた彼女からの心遣い(?)が眩しすぎて、日陰を好むグレンには、いささか刺激が強すぎたのだ。




