殺気の無い拳
アリアが滞在している定宿の前に到着したグレンは、少し躊躇しながらも、意を決して受付の女将へアリアの呼び出しを頼もうと近づく。
先日のマリンルーズへの調査へ出発する前にも、ここで彼女をピックアップしていた為、女将もグレンの地味な顔を記憶していたのか、女将の方がグレンに声をかけた。
「おや、あなた、冒険者ギルドの従業員だったのかい?」
「あ、はい。そうなんです」
「だからアリアちゃんと仲良しだったんだね。今日はどうしたんだい? ギルドの仕事?」
「いえ、今日はアリアさんに個人的な用事がありまして」
グレンの返答を聞いて、女将は「あらあら……」と少し困ったように眉を下げる。
「残念だけど、アリアちゃんなら朝から西の森に行ってるよ? なんでも、匂いの良い香草を摘みに行くんだと張り切って出掛けて行ったんだけど、まだ帰ってないのかねぇ」
「……そ、そうですか。なら大丈夫です、大した用事ではないので」
グレンは女将にペコリと頭を下げ、直ぐに踵を返し宿屋を後にした。
宿に不在の可能性は考えていたのだが、まさかこのタイミングで一人で森へ行ったとは、完全に予想外であった。こうなると、チャミィが報告してきた『森で盗賊に捕まった赤毛の少女』は、アリア本人である可能性が一気に跳ね上がる。
いくら彼女がAAランクの冒険者とはいえ、相手はシャトルファングの最高幹部。流石にこの事実を無視する事は出来なかった。
グレンは宿屋の建物裏にある人目につかない茂みへと滑り込み、即座に空間をイメージして〝転移魔法〟を起動する。
チャミィの報告ログによれば、少女が捕獲されていたのは、グレンがよく知る『ボロ屋敷』付近のはずだった。それならば、転移でショートカットし、一瞬で現場まで到達できるのだ。
視界が歪み、グレンの目の前の景色が宿の裏路地から、西の森の奥深き広大な植生へと切り替わる。視界の先、前方三十メートル程の距離には、不気味な蔦の絡まる、見慣れた赤いレンガ造りの洋館が佇んでいた。
先ずは基本中の基本である〝広域探索魔法〟を起動し、周囲の魔力反応をスキャンする。しかし、人間の生体反応は返ってこない。
(おかしいな。チャミィの報告の時間軸から推測して、現場から完全に離脱しているとは考えにくいのだけど……)
グレンは思考を巡らせる。この森で探知魔法を完全に遮断できるステルス空間といったら、己が構築したあの洋館の『結界内』くらいしかなかった。
正直、普通の人間が、あの超高密度の防衛魔法を突破し、屋敷の中に侵入出来るとは考えられなかったが。事象における「絶対」は存在しないため、万が一のバグを想定し、足音を殺して屋敷の窓側へと接近する。
すると、窓ガラス越しに、屋敷の部屋の中で見知らぬ大男に細い腕を強引に掴まれているアリアの姿を目撃した。
その瞬間。グレンの体内の血液が物理的に沸騰するような強烈な感覚を覚える。
途端にグレンの脳内は、切迫した危機感に支配された。なにせ、己の張った『致死の結界』を無傷で突破し、アリアを拘束している者がいる。それは、一ミリの油断も隙も与えてはならない特級のイレギュラー対象と想定するべきなのだ。
グレンは風の魔力を極限まで高め、屋敷のアンティークガラスを自らの結界の層もろとも、ぶち破り突入した。
そして、アリアの腕を掴んでいる男の無防備な太い腕の関節目掛けて、『全力の手刀』を打ち込む。男はグレンの打撃を受けた直後、不自然な程に空中で身体を回転させ吹き飛び、床に激しく打ち付けられる。
その一瞬の隙に、グレンはアリアの身体を抱き上げ、破壊した窓から瞬時に屋敷外へと離脱する。
「アリアさん、怪我は!? 大丈夫ですか!?」
「ぐ、グレンくん! 大丈夫だよ、怪我はないの! あのね、あの人は……!」
アリアの言葉が終わるより早く、床に叩きつけられたはずの男は既に体勢を立て直しており、グレンに続いて屋敷の中から飛び出してきた。
黒髪の短髪。前髪のひと房だけが銀色に染まった特徴的なビジュアル。動きやすい盗賊特有の軽装と、腰に提げた湾曲剣。
グレンの脳内データベースで、その男の顔と名前が完全に一致した。
かつて中央大陸にいた頃、一度だけリンザール本部の付近の街道で目撃した事がある。
並々ならぬ危険な気配を振り撒いていたが、当時は争う理由もメリットも無かったため、ただ無関心に〝すれ違った〟だけだった。
その数日後、あの時すれ違った男が、シャトルファングの若頭──ビリディ・リエンである事を知る事になったのだ。
グレンの業務リストに彼を追跡するタスクは無く、それ以降、彼とエンカウントする事はなかったが。数年ぶりに相対して再認識する。やはりコイツは只者ではないと。
雰囲気だけのハッタリではない。物理的に極めて高度な戦闘が〝出来る〟人間だと、先ほどの『手刀の感触』の時点でグレンは確信していた。
あれは、一撃で腕を物理的に切断するつもりで放った手加減無しの手刀。それも、完全な不意打ちだった。
にも関わらず、彼はグレンの刃が皮膚に触れるコンマ数秒の瞬間に、自らの腕の筋肉を極限まで脱力させ打撃のベクトルを受け流したのだ。
故に彼は、あんな派手なコマのように回転して吹き飛んだ。その人間離れした反射神経と身のこなしは、完全に常識の域を超えていた。
グレンは、窓越しに彼を視認した瞬間から、無詠唱魔法によって自らの身体機能に『最大限の肉体強化バフ』を施した状態を維持している。
もし、彼がアリアの腕を咄嗟に手放さなければ、あのアクロバティックな受け流しも出来ず、腕は鋭い手刀の圧力により完全に切断されていたはずだ。
「……ビリディ・リエンか」
「ほう、こんな辺境の街でも俺の面が割れてるか。お前、何者だよ。ただ者じゃねぇな。久々に脊髄がビリビリと痺れやがった」
彼はグレンの顔を覚えていないようだが、やる気は満々らしく、腰のシミターをチャキリと抜き放っている。
「それにしても、この屋敷の理不尽な結界。仕掛けたのはお前だな。自分の家の窓を躊躇なくぶっ壊して突っ込んでくる程、その女の事が大事だったのか?」
ビリディは何故か挑発的にニヤリと笑い、次の瞬間、何の予備動作もなくグレンの首を刎ね飛ばす軌道で剣を真横に一閃していた。
グレンは最小限のバックステップで回避したが、刃の軌道から遅れて『鋭利な風の刃』が真空波となってグレンを追撃する。
刃自体に上位の風魔法が付与されたマジックソードである事を察したグレンは、自らの背後に庇っているアリアへその風の刃が到達するのを防ぐ為、あえて回避せずに受け止めるしかなく。浅からぬ裂傷を負った。
このレベルの戦闘を彼女を庇いながら捌き切るのは不可能だと、瞬時に判断したグレンは、アリアを少し離れた木陰へと降ろす。
「アリアさん、ちょっとそこで待っていてください。彼を排除します」
「ちょ、ちょっと待ってグレンくん! 話を聞いて! あの人は……!」
「大丈夫。僕にも彼の異常な戦闘レベルは理解できてます」
直ぐにグレンはビリディへ向き直り、無詠唱で風の刃を生成して撃ち放つ。しかしそれは、さして強力な魔法ではない。
純粋な威力や貫通力なら、相手のシミターに付与されている魔法の方が上だとわかっている。
グレンとて、最初から、こんな小手先の魔法でどうにかなるとは思っておらず。魔法は、あくまで牽制。
グレンはその風に乗るように超高速で距離を詰め、魔力で極限まで硬質化した右ストレートを、男の顔面目掛けて打ち込んだ。
牽制の風の刃が彼の頬を浅く切り裂いた、次の瞬間。グレンの眼球は驚愕に見開かれた。
自分への風の刃など微塵も気にする事もなく、彼はシミターを縦一線に振り下ろしたからだ。
その狙いは『グレンの拳そのもの』だった。
(ちっ……最初から、魔法がダミーだって見切っていたのか!)
ビリディの振り下ろしたシミターの刃と、グレンの硬質化した拳が正面から激突し、まるで分厚い鋼鉄同士が全力でぶつかり合ったような甲高い破砕音が森の木々を震わせた。
ビリディも、剣を弾き返すほどのその拳の異常な硬度に相当に驚いたらしく、追撃はせずに咄嗟にバックステップを踏んでグレンから距離をとる。
この男との近接戦闘が、コンマ一秒の判断ミスで死に直結する事を、グレンは理解させられていた。
「おいおい、マジかよ。お前、魔法使いじゃねぇのか。拳を鋼鉄みてぇに固めやがった。……くそっ、最高に面白いじゃねぇか」
「あなたも、ただ者じゃないですね。 あの魔力結界の中へ、ノーダメージで侵入できるのだから」
「へへへ。そりゃあ、少しお前をガッカリさせちまうかもな。俺はあの結界を素通りできた。何故なら、俺の体内に『魔力』って代物が1ミリも無えからだよ」
それはグレンにとって、極めて予想外の言葉だったが、ビリディが嘘を吐いているとも思っていなかった。実際に先程から探知魔法をかけ続けていても、ビリディの魔力シグナルはゼロのままだったからだ。
探知魔法は、生物の体内に流れる微弱な魔力にも反応する。つまり、ビリディに魔力が存在しないというのは事実であると、魔法が証明していた。
「さて。化け物級の魔力持ちと、最強の魔力無しで頂上決戦といこうじゃねーか。久々に血が沸騰してゾクゾクしやがるぜ」
ビリディは口角を吊り上げ、完全に戦いを楽しんでいるようだが。グレンの内心には、冷や汗のような不気味な疑問が広がっていた。
──何故、これほど圧倒的な肉体能力を持つ危険人物が近くにいるというのに、〝風の精霊〟が、なんの殺意や悪意の気配も知らせなかったのか。
グレンの特異体質である精霊の警告は、魔力による探知ではないので、魔力が無い事は理由にはならない。
単純に、目の前の男が『誰かを殺める気が無い』という判断をせざる得ない。
しかし、現実として今まさに数手先の命のやり取りをしている最中だという事実。その矛盾に、グレンの脳内は致命的な迷いを生じさせはじめていた────




