水の巫女
薄れゆく意識の底、冷たい海水を肺に吸い込みながら、ビリディは極めて客観的に自身の人生のエンディングを想像していた。
──俺が死んで、一体誰か悲しむのだろうか?
世界にその悪名を知られる大犯罪組織──シャトルファング盗賊団の若頭が死んだという事実だけで、悲しむどころか祝杯を挙げる人間の方が圧倒的に多そうだが。
ビリディにはただ一つ、心残りがあった。
父親の本当の気持ちだけが知りたかったのだ。
シャトルファング盗賊団の絶対的頭領──『ブリディラート・リエン』に、自分は少しでも認められていたのだろうか?
ブリディラートの一人息子として生を受けたビリディは、致命的な欠陥を抱えていた。生まれつき、体内に『魔力』という概念が存在しなかったのだ。
この世界において、魔力を持たない人間など統計学的にも極めて稀有な異常事態であり。生まれたその瞬間から、彼は誰よりもマイナスからのスタートを強制されていた。
後継ぎたる息子が『無能』だと知った時のブリディラートが、さぞ絶望しただろう事は想像に容易い。
その事実を、ビリディが父親から直接面と向かって罵られた事は一度もなかったが、当然ながら親の愛情などという甘いものを与えられもしなかった。
その為、必ず父親に自分の価値を認めさせようと、ビリディは狂気的なまでの執念で自らの肉体を研ぎ澄ました。体術、武術、馬術、操船術、そして射撃。
この世のあらゆる物理法則は、大なり小なり魔法による支援で昇華されているのが常識だが、ビリディは違う。
魔力という基本が体内に存在しない分、全ての事象を己の肉体の性能だけで完結させてきたのだ。
その結果、ビリディの身体能力は、魔力強化された人間すらも凌駕する圧倒的なパフォーマンスを発揮するに至った。
故に、十五歳になる頃には、誰もビリディを〝魔力無しの欠陥品〟とは呼べなくなっていた。
更にビリディは、まるで高位の遠視魔法のように、遥か彼方の死角すらも自在に見通せる異常な『視力』を獲得していた。
その極限まで完成された肉体を持って、ビリディはただひたすらに〝悪党〟を演じてきた。
追い剥ぎ、麻薬密売、窃盗、暗殺。あらゆる反社会的事業に手を染め、冷徹な成果主義のもと、シャトルファング盗賊団の次期トップとして確固たる地位を築き上げた。
それでも。ビリディはこれまでただの一度も、父親に誉められた事はない。
だからこそ、死の淵で問うてしまう。
今の自分は、少しは親父に認められていたのだろうか? と。だが、その解答を知る術はもう、この世のどこにもない。
よりによって、自分の人生の最終章が〝直感〟という最も非論理的な理由だけで見ず知らずのガキを庇い、全身に鉛玉を浴びて海に沈む事になるとは。
まったく、自分でも吐き気がするほど情けない、三流の喜劇だと、ビリディは自嘲した。
──そういえば、〝アイツ〟どうなったかな?
暗い水中で、ビリディは命をかけて救おうなどと考えた蒼髪の少女の事を思い出す。
結果論から言えば、限りなく〝無駄な死〟を選んでしまった感は否めないのだが。ビリディは、己の非合理的な選択に後悔はしていなかった。
ただ、ほんの少しばかり。〝もう少しだけ、生きていたかった〟などという未練が、脳裏を過っただけだ。
── 汝、我に救いを求めるか? ──
突如、ビリディの脳髄に直接、性別すら曖昧な不可思議な問いが投げ掛けられる。
死が間近に迫り、いよいよ脳細胞が酸素欠乏で幻聴を生み出し始めたかと思いつつも、ビリディは漠然と、心の奥底で答えた。
……ああ。助かるものなら、助かりてぇ。
すると突然。海水の重圧に潰されかけていた自分の身体が、嘘のように軽くなった感覚を覚えた。
そして重い瞼の向こうから、一度は完全に失われたはずの〝光〟が差し込んできたのだ。
ゆっくりと目を開くと、当然ながらそこはまだ暗い海の底だった。
しかし、ビリディの目の前には、あの少女──リュシカの顔があった。
あった…と言うか、ビリディは彼女の柔らかい唇によって『口づけされている』という、極めて非日常的な状況の真っ只中にいた。
そこに変な〝いやらしさ〟や色気は微塵も存在しない。彼女の唇を媒介として、ビリディの死にゆく細胞の中へと、莫大な〝生命力〟というか〝生きる気力〟そのものが、強制的に注ぎ込まれている感覚だった。
破壊された内臓が繋がり、鉛玉が肉から押し出され、確かな〝希望〟が物理的に脈打っていく。
──俺は、まだ生きてる!
身体が動く事を悟ったビリディは、リュシカの細い身体を抱え込みながら、海面目掛けて全力でキックを放った。
どれくらいの時間が経過しているのかはわからないが、身体は己の全盛期以上に驚く程軽く、底知れぬ力が細胞の隅々までみなぎっていた。
いや、それだけではない。明らかに水の『抵抗』を感じないのだ。
彼女の魔法が周囲の流体力学を捻じ曲げているのか、まるで重力のない空を飛んでいるかのように、あっという間に海面へと到達し、勢いよく飛び出した。
そのまま身体がフワリと宙に浮かび上がる。
気が付けば眼下には、ビリディ達が乗っていたあの海賊船が漂流しており。
ゆっくりと甲板の上に着地したビリディは、思わず傍らに立つリュシカに尋ねた。
「お、おい……。一体全体、どうなってんだこりゃ?」
リュシカの金色の瞳は、呆然とビリディを見詰めていたが、何も答えなかった。
元々自発的には何も喋らない少女だった事を思い出し、ビリディは状況把握のために辺りを見渡す。
先程まで銃弾の雨を降らせていたマールーン公国の軍艦は、何故か忽然と姿を消している。
だが、甲板の上には、自らを盾にして倒れた相棒──ロゴスが、おびただしい血溜まりの中で事切れていた。
「ロゴス! おい、しっかりしろ! ロゴスッ!!」
ビリディが傍に駆けつけて何度も肩を揺さぶり呼び掛けるが、彼の巨体が再び起き上がる気配は、物理的にもう存在しなかった。
すると、沈黙していたリュシカが突然、能面のように感情の抜け落ちた声で口を開いた。
「無駄です。彼はもう、生命活動を完全に終えています」
「な、なんだと……!? 何とかならねぇのかよ! お前が俺の致命傷を治して助けたんだろ? だったら、コイツも助けられねぇのかよ!」
リュシカは、感情の読めない金色の瞳で、申し訳無さそうにスッと視線をそらした。
ビリディにも魔法に関する専門的な知識があるわけではないが、自分の体に撃ち込まれたはずの弾傷が完全に消滅していた事から、彼女の力は神がかった回復魔法の類いなのだと推測していた。
そして、その世の理を無視した奇跡を可能にするのは、〝水巫女〟と呼ばれるリュシカの能力しかないと考えていたのだ。
「……どんなデタラメな魔法も、万能じゃねぇって事か」
「ええ、その通りです。損傷した肉体の修復は可能ですが、既に肉体という器から離脱した『魂』を呼び戻す事は、いかなる奇跡を用いても不可能です。……それよりも。間もなくここに、厄介な問題が生じます」
淡々と客観的事実だけを述べるリュシカの口調は、ひどく〝人間味〟に欠けた無機質な響きを含んでいた。
思い返して見れば、貨物室で怯えていた元々のリュシカとは、纏っている雰囲気そのものが違う。言うなれば、幼い少女としての『自我』が完全に排除されているのだ。
「お前……、まるで別人みたいだな」
リュシカは何も答えない。おそらく、彼女の中に宿る何らかの存在が、一時的に主導権を奪っているのだろう。水巫女とは〝そういうもの〟だと聞いた事がある。
ただ、彼女の予告通り、致命的な問題が背後に〝迫っている〟事を、ビリディの異常な視覚も捉えた。
「チッ……! アイツら、戻って来やがったか!」
水平線の彼方から再び急速接近してくるのは、マールーン公国の軍艦だ。
あの後、どれ程の時間が流れたのか。また、どういう戦術的判断があったのかはビリディには知る由もないが、何らかの理由で一旦距離を置いていたのだろう。
沈んだはずのリュシカの死体を回収しに来たのか、あるいは自分たちの死亡を確認しに戻ったのか。どちらにせよ、最悪のタイミングである事に変わりはない。
「おい、今度こそアウトだぞ。お前はさっさと船室の奥に隠れてろ。……一度はテメェに救われた命だ。今度こそ俺が、奴らと刺し違えてでもお前を守り抜いてやる」
(大悪党の俺が、まさかこんな絵に描いたようなヒーロー気取りのセリフを吐く時が来るとはな……)
ビリディは強烈な気恥ずかしさと自己嫌悪を感じていたが、リュシカはその決死の覚悟すらも、一言で冷徹に言い退けた。
「その必要はありません。心配には及びません」
そしてリュシカは、静かに両手を虚空へと掲げた。
すると、マールーンの軍艦とビリディ達の船の中間地点の海面が、突如として不自然に隆起し、巨大な『水の柱』が飛び出した。
否、それは柱ではない。
その体積は、軍艦の倍はあろうかという異常な幅を持ち、高さに至っては三倍以上にも達する。
透き通った巨体は、超高水圧で圧縮された海水そのもので構成されており。
それはさながら、神話から抜け出してきた〝水龍〟の顕現であった。
数万トンはあろうかという絶望的な質量を持ったその水龍は、一瞬にして軍艦の上空へと覆い被さるように倒れ込み、船体ごと一気に暗い海の底へと引き摺り込んでいった。
艦の断末魔と乗組員の悲鳴は、轟音と共に一瞬で水に掻き消される。
直後、反動で辺りには津波のような巨大な波が発生し、ビリディ達の船を激しく揺さぶったが。
しばらく時間が経過すると、まるで何事も無かったかのように。海面は元通りの穏やかな凪へと落ち着き、その場にはただ静寂だけが残された────。




