ビリディの勘
◇◇◇◇◇
「おいロゴス! もっと魔法の出力を上げられねぇのか! このままじゃ完全に追い付かれるぞ!」
「無茶言わないでくださいよ、若! そもそもこの規格外の大型帆船を、たった二人でこの巡航速度に維持してるだけで、俺の魔力回路は完全に焼き切れる寸前ですよ!」
ビリディの脳内演算では、背後から迫り来るマールーン公国の軍艦から逃げ切る唯一の生存ルートは、一か八か隣国である【ルベリオン王国】の領海ラインに突入し、国際法を盾にする事だ。相手が公国の軍艦である以上、他国の領海への進入は躊躇うはず。
だが、ビリディの乗る海賊船は元々二人で完璧に操舵出来るサイズではなく、風を捕まえる効率の差で、後続との距離はジワジワと、だが確実に削り取られつつあった。
「公国の軍艦に目を付けられるなんて、全くもってツイてねぇ。しかもあいつら、警告も身元確認のプロセスもすっ飛ばして、問答無用で大砲をブチ込んで来やがったからな。最悪、この箱入りの女を人質として切るしかねぇか……って、おいッ! ロゴス。ちょっと待て、風を弱めろ!」
ルベリオンの領海線を目前にして、ビリディは海図の状況が『よりにもよって最悪の事態』へとシフトしている事に気付いた。
ビリディの常人を凌駕する驚異的な動体視力が、前方の水平線上に、ルベリオン王国の軍艦らしき不穏な船影を捉えたのだ。
このまま直進し続ければ、二つの国家の正規軍艦によって、前後から完全に挟み撃ちにされる。
どちらに捕まっても、今の状況は不味い。
どうする……と、コンマ数秒で戦術的思考を回した結果。せめて単一勢力なら、口八丁で何とかなる可能性が高い方に賭けた。
「ロゴス、帆を畳んで完全に船を停めろ! 船影が見える。この先はルベリオンの海域だ。万が一海軍なら、どのみち詰む。一か八か、マールーンと交渉する!」
「冗談でしょ!? 相手は海賊じゃないんですよ! いくら若でも状況が悪すぎます!」
「わかってるさ。だから、上手く交渉するんだ」
ビリディ達の船が推進力を失い減速すると、直ぐにマールーン公国の軍艦が巨大な船腹を横付けするように並走してきた。
向こうの甲板の高所に、指揮官らしき軍服の男が立ち、こちらを見下ろしている。
ビリディは蒼髪の少女──『リュシカ』を自分の傍らに立たせ、その男に向かって堂々と呼び掛けた。
「おい、貴殿らに告げる! 彼女はとある大国の〝お姫様〟だ。貴殿らはあろうことか、王族の乗る船を無差別に砲撃した。これがどれほどの国際問題に発展するか理解できるな? 俺達は彼女を安全な場所へ送り届ける任務がある。今回の無礼な砲撃は特例で見逃してやるから、今すぐ黙ってこの海域から退け!」
「……ハッ。私はマールーン公国海軍、この船を指揮するエンリケ・バートンだ。海賊の残党が『お姫様の送迎任務』とは、三流の喜劇にしても冗談が過ぎる。おや……よく見れば貴様、あのシャトルファングの、ビリディ・リエンじゃないか?」
(チッ、やはり面が割れたか)とビリディは内心で舌打ちしたが。
エンリケと名乗った男は、そんなビリディの顔をマジマジと見つめ────そして、口角を吊り上げ、ニヤリと下劣に笑った。
「世界的に有名な大悪党が、善人ぶってお姫様を送り届ける? そんな陳腐な嘘が通用するわけないだろう。それに、こちらの目的は最初からその〝水巫女〟の回収なんでね」
「水巫女っ……て。お前ら、このガキの正体をわかってて大砲を撃ち込んで来たのか? 一体どういうつもりだ!」
「下賤な海賊風情が国家の事情を知る必要はない」
エンリケは無造作に右手を高々と挙げ、その手をビリディの船へ向けて無慈悲に振り下ろした。
途端に、軍艦の側面から再び大砲が火を噴く。人質の命など、一ミリも考慮していない巨大な鉄の塊が、ビリディの乗る海賊船の船体に次々と物理的な大穴を開け、木組みを粉砕していく。
「ちくしょうッ! マジで撃ちやがった! 人質の安全性より制圧を優先しやがったぞ、あのイカれた指揮官!」
ビリディは悪態をつきながら、仕方なくリュシカの細い腕を強引に引き、少しでも射線の通らない後方デッキの方へと逃げ込む。腰のシミターに手を伸ばしながら、相棒へ向けて叫んだ。
「おい、ロゴス! ちょっとこの女見てろ!」
「若ッ! 危ない!!」
ロゴスの悲痛な叫び声の直後、乾いた鉄砲の破裂音が連続して鳴り響く。ビリディがハッとして振り向くと、ロゴスが自らの腹を押さえてよろめいていた。
エンリケがビリディの背中を狙って放った鉛玉の射線上に、ロゴスが自らの巨体を盾にして飛び込み、その全弾を肉体で受け止めたのだ。
更に、容赦のないマスケット銃の一斉射撃が行われ、更に二発、三発と、ロゴスの分厚い体に鉛玉が深く撃ち込まれる。
「ロゴスッ!!」
「わ、若……。俺に構わず、逃げてください……。俺は、これくらい……大丈夫っすから」
そう強がって笑うロゴスの体に、海兵達から更に追加で数発のトドメの凶弾が情け容赦なく放たれ。
ロゴスは大量の血反吐を吐き散らしながら、甲板に重い音を立てて倒れ伏した。
「くそっ、くそがあぁぁッ!!」
ビリディは血の涙を呑んで船の最後尾へとリュシカを連れて逃げ出すが、隣接した海軍の軍艦からは、接舷用の板を渡って次々に武装した海兵隊が雪崩れ込んで来る。
直ぐに追い詰められた。さすがにこの密集陣形と銃口の数では、いくらビリディの身体能力でも無傷で制圧するのは物理的に不可能。
もはや逃げるしか道はないが、退路は背後の『海』しか残されていない。だが、不用意に飛び込んだところで、空中や着水時に上から一斉射撃の的になるだけであり、数秒の延命にしかならないだろう。
「おいガキ。お前、一体どんなヤバい奴らに恨み買ってんだよ」
ビリディの吐き捨てるような質問に、リュシカは完全に怯えきった顔で、ブンブンと激しく首を横に振った。
最後尾の縁に追い詰められ、絶体絶命に立たされたビリディの眉間に、エンリケと数十名の海兵達の鉄砲がピタリと照準を合わせる。
「……大人しくチェックメイトを受け入れろ、ビリディ。水巫女をこちらへ引き渡せ。そうすれば、お前の命だけは見逃してやらなくもない。大悪党といえど、こんな所で無駄死にはしたくないだろう」
「ハッ。笑わせんな。ガキを渡した途端に、用済みとばかりに俺を撃つに決まってるだろうが」
「そこは信用してもらうしかないな。安心しろ、海軍の名誉に誓って逃がしてやる。我々が欲しいのは、あくまで〝水巫女〟だけだ。お前のような薄汚い海賊の首に、何の政治的価値もない」
エンリケの提示した取引は、状況を鑑みれば決して悪くない。ビリディの思考も(確かに、生きてさえいれば何とでもなる)と計算を弾き出していた。
元々世界中で〝指名手配〟されている身なのだから、ここで国家元首誘拐の罪を一つや二つ被せられたところで、状況はさほど変わらない。
しかし、その妥協案を受け入れようとした時。背後に庇っていたリュシカの小さな手が、ビリディの服の裾をギュッと強く握りしめ、消え入りそうな声で小さく呟いた。
「……ダメ。お願い、助けて……」
思えば、あの暗い貨物室で最初にリュシカを魔力結界の木箱から解放した時。
彼女の瞳は世界の全てに絶望し、半分死んだように影を落としていた。ビリディの乱暴な質問に対しても、ただ諦観したように己の名前以外は一切口を閉ざしていたあのリュシカが。今、初めて自分の明確な意思で発した言葉が〝助けて〟だった事が、ビリディにとって予想外だった。
しかも、彼女を救出すべき立場にあるはずの正規の『海軍』よりも、自分を拐った一味かもしれない指名手配犯の『悪党』に対して、必死に助けを求めているのだから余計に異常な状況だ。
一応、箱から出して自由にしてやった事で、ちょっとした〝混乱〟を彼女の精神に起こしているだけなのかもしれないが。
とは言え。
間違いなく関われば国を滅ぼすレベルの要人であり、まだ子供だからという些細な同情心だけで、ビリディは彼女を箱から解放してやったにすぎない。
つまり、ロゴスの命を奪った奴らを相手に、これ以上のリスクを冒して彼女を助ける義理や論理的な理由なんて、ビリディには何一つ無いのだ。
しかし─────。
「……悪ぃな、公国のエリート軍人さんよ。やっぱり、この子はテメェらには渡せねぇわ」
ビリディは、己の生存確率という合理的判断をドブに捨て、自らの野性的な〝直感〟だけを信じて行動した。
理屈ではない。目の前で平然と引き金を引くこの下劣な奴らにだけは、絶対にこの少女を渡してはならないと、魂が警鐘を鳴らしたのだ。
「……チッ、愚者が。ならば蜂の巣になって死ね」
エンリケの冷酷な宣告と共に、数十丁の鉄砲が一斉に火を噴いた。その瞬間、ビリディはリュシカの細い身体を自らの腕に強く抱え込み、背中を向けて弾幕の中を海へ向かってダイブする。
だが、空中に身を投げ出したと同時に、ビリディの身体のあちこちに、焼けた火箸を突き立てられたような凄まじい激痛が走った。殺意を持った鉛玉が、数発、容赦なく肉体に埋まる。
裏社会で生きてきた過去にも、何度か鉛玉を食らった経験はある。
だが今回は、一度に複数発を至近距離から受けた為か。着水時の衝撃すら感じないほど、既に自分の肉体が『致命傷』に至っている事は、薄れゆく意識の中でもハッキリと理解できた。
船の縁からは死角となる船体の底、根元辺りまで深く潜ったまま泳いで移動し、海軍の銃撃から逃れられないだろうか? と、沈みながらも必死に生存ルートを演算してはいたが。
急激な失血と酸素欠乏により、ビリディの肉体はもはや指先一つ動かせる状態にはなかった。
最期に、薄暗い海中でリュシカの身体を押し上げるようにしてその手を放した辺りで、もはやビリディの視界は完全なブラックアウトを迎え、その意識は霧散した。
結局、大切な相棒であるロゴスも、見ず知らずの少女も、誰一人として助け切る事が出来なかったという圧倒的な不甲斐なさと悔恨を胸に残しながら。
ビリディ・リエンは、冷たく暗い海の底へと、ゆっくりと沈んでいった────。




