暗闇での攻防
岩壁の扉を抜け、一歩足を踏み入れた空間は、文字通りの〝完全な暗闇〟だった。
所々に設置された松明の灯りは、せいぜい半径二メートルの可視領域を確保するに留まっている。
(……最悪の場所だ)
暗視能力に長けたゴブリンにとっての絶対的ホームグラウンド。ただのゴブリンならともかく、相手は知能と筋力が底上げされた強化個体だ。その上、数が未知数とくれば、グレンの論理的思考回路も極めて慎重なアラートを鳴らしていた。
一応のルーチンとして探知魔法を起動するが、案の定、空間のノイズに阻まれて効果はゼロだ。
壁面の質感からして、この広大な洞窟は天然ではなく人為的に掘削されたものだろう。広さが余計に厄介だ。奴らが身を隠す『闇の体積』を無駄に拡張している。
ヒュンッ────。
突然、漆黒の虚空から鋭利な槍の穂先が飛び出してきた。
グレンは最小限のモーションでそれを弾き返したが、反撃のベクトルを向ける猶予はなかった。何故なら、相手は攻撃の反動を利用して、即座に元の闇の中へと溶け込んだからだ。
「……冗談だろ?」
(強化ゴブリンは、ここまで高度な戦術(ヒット&アウェイ)を考えられるのか?)
グレンは戦況を打破すべく、手近な松明へ魔法で魔力を注ぎ込み、炎の可視領域を強制的に拡張した。
しかし、奴らはその光のバウンドに一切動じることなく、照らされた領域から後退し、より深い闇へと逃げ込んだ。
そして魔法の効果が切れ、炎が元の明るさに萎んだ瞬間、再び闇の中から殺意が蠢き出す。
──光を避け、闇の利を完璧に理解している。
その統率の取れた軍隊のような挙動に、グレンは戦慄を禁じ得なかった。
(せめて、後衛で索敵を担う人間がもう一人いれば……)
という考えは無意味だ。今この場に呼べるとすればアリアくらいだが、グレンは彼女がこの地獄に到着する前に、全ての元凶を物理的に排除しておきたいのだから。
その後、圧倒的な視界の不利を背負いながらも、どうにか二体の強化ゴブリンを解体したが。張り詰めた緊張感と暗闇での神経戦は、グレンの精神を確実に摩耗させている。
いや、摩耗の要因はそれだけではない。
(……体内魔力の残量が、危険水域に近い)
グレンは自身のステータス異常の根本原因に気付いた。
要因の一つとして、ルウラの市街地で、家屋内の空気を止めるという極めて燃費の悪い『空間操作魔法』を継続使用した事。
そこから間髪入れずに『空間転移魔法』を発動し、さらにこの洞窟で無意味な『探知魔法』と『炎の拡張』を連発した事。
そして、これら全てを、魔力をバカ喰いする〝無詠唱〟のダイレクトリンクで回していた事だろう。
冷静な思考能力が働いていれば、こんな素人みたいな魔力管理ミスは犯さない。
──どうして僕は、この程度の事でここまで〝熱く〟なっているんだ?
思考の片隅で、グレンは自らを嘲笑う。
これはソティラスの業務マニュアルには存在しない、完全なサービス残業だ。
これまでのグレンは、多かれ少なかれ『ギルド全体の利益』という天秤にかけて行動していた。
では、今回のこの非合理的で無利益なスタンドプレーは誰の為なのかと言えば。
──彼女の為としか、解は導き出されない。
思えば元々、グレン・ターナーという男は、文字通りの〝無感情な機械〟だったのだ。
押し付けられた『打ち切り依頼』の山から、影響力の強い貴族の案件や、政治的な火種になりそうなものだけを効率的に選別し、解決したところで誰も得をしないような案件は、比喩ではなく本物の〝ゴミ箱〟へと直行させていた。
そんな、極めてドライで冷酷な男。
だからこそ、周囲から〝役立たずの事務員〟や〝ギルドのゴミ箱〟と嘲笑われようと、それ自体は彼のメンタルに1ミリのダメージも通らなかった。
ところが、あの底抜けに真っ直ぐな聖女と関わってから、グレンのシステムに明確なバグが生じ始めている。何が原因か、論理的な証明は難しい。
彼女の持つ、誰に対してもフラットな性格か。利益や名誉など微塵も気にとめず、ただ目の前の理不尽に立ち向かうその愚直さか。
そもそも、グレンの根底には、冒険者とギルドという組織に対する、ヘドロのような〝恨み〟が沈殿している。
シラルという辺境の村に生まれた彼は、六歳の時、当時のギルド本部と冒険者たちの身勝手が原因で、見捨てられた村にて両親を理不尽に奪われた。
怒りに狂った六歳の子供が、単身でリンザールのギルド本部へ殴り込んだという、そんな狂気じみた過去がある。
しかし、その後の彼が皮肉にもそのギルド本部で育てられたのは、当時のギルドマスターだけが、狂える獅子となった少年の怨念を、その身一つで受け止めてくれたからだ。
それ以来、グレンは世界との間に分厚い壁を構築し、唯一心を開いたのは育ての親であるギルドマスターだけだった。
裏の仕事も、所詮はマスターへの恩返しの一環でしかなかったのだ。
だが、アリアと接するうちに、その分厚い壁にヒビが入り、人間に対する〝温情〟という名の非合理的な感情が生まれつつある。
彼女の危なっかしい行動が、人の〝温かみ〟をフラッシュバックさせたのか。あるいは、彼女の愚直さに、かつて世界を恨んだ自分と似た〝何か〟を見出したのか。
己の解析は未だ完了していない。
ただ、一つだけ確かな事実があった。
──これで、二回目か。
グレンは冷静さを欠いた自身の行動履歴を振り返る。
一度目はリーヤマウンテン。あの狂人ジャックの罠で、ゴブリンの首を斬るという最適解を捨て、アリアを庇って自らが致命傷を負うという、ソティラスらしからぬ判断ミスを犯した事。
(……それほどまでに僕は、彼女の存在を〝大切〟だと定義しているのか?)
そんなバグを許容した以上、もはや後戻りはできない。
サヴァロンという狂人がこの闇の奥に潜伏しているなら、今日この場所で完全に沈黙させておかなければ、自身の論理的思考が破綻する。
今後の彼女の絶対安全圏を確保する為にも、だ。
だが、深い自己分析にリソースを割いていた一瞬の油断が、戦場における〝最悪のシチュエーション〟を招いた。
前方と背後の完全な死角から、二体のゴブリンによる同時奇襲。
「チッ……」
らしくない舌打ちと共に、グレンは瞬時に損切りを行った。
背後の防御を完全に捨て、前面の個体へのカウンターに魔力を全振りする。背中を一撃抉られたところで、即座に機能停止には陥らないという冷酷なダメージ計算だ。
しかし。
グレンの背中に刃が届くより早く。
「……グゲェッ!?」
背後のゴブリンが、変な奇声を上げてその場に崩れ落ちた。
「……あんたも、追って来ていたのか」
闇の中からヌルリと現れ、ボソリと呟いたその男の姿に、流石のグレンも目を見開いた。
坊主頭に、手には独特な反りを持つ異端の剣〝カタナ〟。
「ね、ネジイさん……? どうしてあなたがここに?」
「……奴を、追っている」
『奴』とは、十中八九、サヴァロンの事だろう。
相変わらず言葉の足りない男なので詳細は不明だが、驚愕すべきは、この男がこの完全な暗闇の中で〝一切の不自由を感じていない〟という事実だ。
その後、彼はまるで全てが見えているかのように、暗闇に潜むゴブリンの気配を正確に捉え、無駄のない斬撃で次々と解体していった。
(どうしてこの人が、Sランクではなく〝Aランク〟に留まっている?)
グレンのデータベースに、また一つ解析不能な謎が追加された。
ネジイという規格外の戦力が合流してからは、もはや作業だった。
各々が洞窟の左右の壁に沿って前進し、闇から飛び出してくる不運なゴブリンを物理的に排除していくだけの簡単なルーティン。
終いには、学習能力を得たゴブリン達が、暗闇の奥へと慌てて逃げ去っていく足音すら響き始めた。
そのまま血生臭い通路を暫く進むと。
深い闇の向こう側から、不自然なほどに煌々とした人工的な光が漏れ出しているのが見えた。
どうやら、この洞窟の最深部に、開けた巨大な空間が存在するようだ。




