先天性の病
◇◇◇◇◇
「……やっぱり、やめましょう。私と結婚したところで、あなたの輝かしい経歴と心に消えない傷を負わせるだけですもの」
フランシスカの口からこぼれ落ちたその悲観は、紛れもない本心であった。だが同時に、己の絶望を他者の温もりで強引に打ち消してほしいという、ひどく利己的で醜い『甘え』の裏返しでもあった。
そして彼女の婚約者───『アセナル・ルドワール』という青年は、そんな彼女の狡猾な期待を、決して裏切らない男なのだ。
「何を今更。キミの病のことは、全て承知の上でプロポーズしたと言ったはずだよ」
「でも……! わざわざ貴族家のあなたが、死にゆく私の為に〝未婚〟という価値あるステータスをドブに棄てる必要なんて、どこにもないわ……」
「もう、この不毛な話はやめてくれ。僕達の門出を祝福する為に、既に多くの貴族たちが集まる手筈が整っているんだ。それを今更、同情だの自己犠牲だのという理由でキャンセルする方が、よっぽど僕の顔に泥を塗る行為だとは思わないかい?」
あの日。結局のところ、フランシスカは彼の正論に何も言い返すことができなかった。
いや、違う。自己分析を突き詰めれば、それ以上反論を重ねることで、彼が本当に愛想を尽かし、結婚が白紙撤回されてしまうことを心の底で恐れたのだ。
フランシスカは今、間違いなく、致死量の幸福の中にいた。
だが、その幸福は彼女にとって、死という絶対的な終わりの前に与えられた、鎮痛剤のような一時的な満足でしかない。
確かに彼が「結婚しよう」と手を差し伸べてくれた瞬間は、理性が吹き飛ぶほどに嬉しかった。己の余命という最大の懸念事項すら棚上げにして、その温もりに縋り付いた。
何故なら『結婚』という二文字は、呪われた肉体を持つフランシスカ側からは、天地がひっくり返っても決して口にすることの許されない我儘だったからだ。
しかし冷静になって計算すればするほど、それはフランシスカという個人のエゴを満たすだけの、極めて利己的な決断であったと認めざるを得ない。
アセナルは、後々取り返しのつかない喪失感に苦しむことになるだろう。
晴れて夫婦となったその日から半年と経たないうちに、最愛の妻は確実に冷たい土の下へ埋葬されるのだから。
それでも、アセナルの決意は鋼のように固かった。
ならば。フランシスカは再度、その呪いのような幸福を全身で受け入れることにした。どうせ彼の輝かしい経歴に消えない泥を塗る結果になるのなら、せめて彼の中で永遠に美化される〝最も綺麗な泥〟として記憶に残りたかったのだ。
──せめて最後くらいは。車椅子などではなく、自分の足で彼と肩を並べて、ヴァージンロードを歩きたい。
その狂気じみた我儘を満たすため、フランシスカは後日、ギルドへと依頼を出した。
存在するはずもない御伽噺の秘薬。ゼロに等しい可能性の残滓に縋って。
そして今日。その滑稽な願いは、気まぐれな神の目に留まったのだ────
「お嬢様。……冒険者の、アリア・エルナードと仰る方が、お嬢様へ直接お話を伺いたいと面会を求めております」
初老の執事が告げたその言葉は、既に半ば以上諦めきっていたフランシスカの絶望の底に、一条の暴力的な光を灯した。
あの嘲笑われるような不可能な依頼に、目を留めてくれた冒険者が存在したのだ。心臓が早鐘を打つのを必死に抑え込み、フランシスカは貴族令嬢としての冷徹な仮面を被って執事に命じた。
「……丁重に、客間へお通ししてください」
だが。案内された客人と直接相対した瞬間、フランシスカは完全に思考のベクトルを見失い、戸惑った。
荒くれ者の代名詞である冒険者というからには、さぞかし歴戦の傷跡を刻んだ逞しい大男が現れると想定していたのだが。
今、高価なソファーに向かい合って座っているのは、風が吹けば折れてしまいそうなほど線の細い、ひどく可憐で美しい少女だったからだ。
あまりの想定外のビジュアルに、最初はタチの悪い冷やかしかと疑ったほどだ。だが、彼女──アリアが、国家の騎士達にも匹敵するという『AAランク』の特権階級冒険者であるという事実を確認し、フランシスカは即座にその無礼な偏見を改めた。
フランシスカにとって、目の前のアリアという存在は、己が永遠に手に入れられない『理想の体現』そのものだった。
太陽のように明るく、絵画のように美しく、そして理不尽を暴力でねじ伏せるほどに強い。
何より、冒険者などという過酷な職業を、同じ女性の身でありながら自らの意志で謳歌しているという事実が、狂おしいほどに羨ましかった。
──さぞかし、五体満足で健康な肉体の持ち主なのだろう。もし神がいて来世があるのなら、次はこの少女のような自由な冒険者になってみたい。
そんな不毛な嫉妬すら抱かせるほどに。
「それで……単刀直入にお伺いしますが、フェアリーレイズ入手の目処は立ったのでしょうか?」
「その件でお伺いしました。ですがその前に、どうしても確認しておきたいのです。フランシスカさんは何故、あの薬を求めているのですか?」
探りを入れるようなアリアの問いに対し、フランシスカは(それは確かに、依頼主として説明する義務がある)と冷静に判断し、車椅子に座る自分の下半身を覆っていた分厚い膝掛けを、無造作に剥ぎ取った。
露わになったフランシスカの左足を見て、アリアが息を呑み限界まで目を丸くする。だが、それはフランシスカにとって見飽きた〝いつもの光景〟でしかなかった。
誰だってそうだ。膝から先が丸ごと欠損している痛々しい切断面を見せつけられれば、健常者は等しくそのように同情と驚愕の表情を浮かべるのだから。
「実は私、一ヶ月後に結婚を控えているんです」
「……っ、それは、おめでとうございます」
言葉を濁し、(それより、その足は?)と雄弁に語るアリアの視線に対し、フランシスカはひどく芝居がかった、出来るだけ明るい声色で答えた。
「これですか? これは、全身を蝕む病魔の進行を少しでも遅らせる為に、自ら望んで切断したのです────」
そこから、フランシスカは淡々と、まるで他人のカルテを読み上げるかのように自身の凄惨な身の上話を始めた。
産み落とされたその瞬間から、己の肉体を内側からジワジワと殺し続けている呪い──『先天性魔力血栓症』について。
魔力血栓症。それは、本来循環すべき体内の微量な魔力が異常凝固してヘドロのような塊となり、血管を物理的に塞いで局所的な壊死を引き起こすという、極めて稀有で致命的な不治の病だ。
フランシスカの場合は先天性であり、年齢という時間を重ねるごとに、その呪いの進行度は反比例して加速していった。
これまでも幾度となく小さな血栓が彼女を激痛で苦しめてきたが、ついに一昨年。
左足の脛付近で肥大化した魔力血栓は、肉体の壊死を防ぐために『物理的な足の切断』という残酷な二択を突きつけるまでに進行してしまったのだ。
「現在、その憎き魔力血栓は私の身体中の血管で同時多発的に起きています。王都最高峰の専属医師の冷酷な見立てによれば……私の命は、もってあと半年といったところでしょうね」
「……その命を繋ぎ止める為に、フェアリーレイズを?」
「ええ、そうですわね。生存への執着……〝それも〟当然あります。ですが、もし治らなかったとしても、それは運命として受け入れる覚悟はできています」
余命宣告という重すぎる現実にアリアの表情が暗く沈んだが、フランシスカは逆に憑き物が落ちたようなハッキリとした口調で言い放った。
「いいですか? 私、自分が死ぬこと自体はとうの昔に恐れておりませんのよ。ただ……せめて人生の幕引きくらいは。美しく着飾ったウェディングドレス姿で、愛する彼と肩を並べて歩きたいじゃないですか。その自己満足の為だけに、ほんの一時でいい。たった一日でいいから歩ける足を取り戻したいだけなのです」
最初から、フランシスカは論理的に諦観している。
フェアリーレイズなどという魔法の薬は、現実には存在しないのだと。
ただ、莫大な金に物を言わせてでも、冒険者という名の〝何でも屋〟を巻き込んででも、砂粒ほどの見果てぬ希望に縋り付きたかっただけなのだ。
だが。そんなフランシスカの利己的で破滅的な決意を聞き終えたアリアの瞳には、同情でも呆れでもない、ひどく凛とした鋭い『覚悟』の炎が宿っていた。
絶対に諦めない、理不尽な運命など捻じ曲げてやるという圧倒的なまでの強者の意志。その真っ直ぐな光芒に当てられ、フランシスカは気圧されるように息を呑んだ。
「……分かりました! 私が必ず、何に代えてもフェアリーレイズを見つけ出しますから、どうか安心してください。絶対に、フランシスカさんを結婚式で歩かせてみせます。そして、その不治の病も、根こそぎ治してみせます!」
なんという根拠のない、傲慢で無責任な宣言だろうか。フランシスカは、その言葉の力強さにひどく驚愕した。
それは一昨年、自身の左足を切り落とし、世界の全てを呪って絶望の淵に沈んでいた自分に対し、婚約者のアセナルが叩きつけた言葉と、あまりにも似通っていたからだ。
『足を一本失ったからってなんだ。僕が必ず、またキミをこの足で歩かせてみせる! だからキミは、これ以上何も心配するな!』
フランシスカは、今日初めて会ったばかりの、目の前の華奢な少女から、己の最愛の男と同じ熱量の励ましを受けるとは、夢にも思っていなかった。
ふいに視界の端にチラついた絶対不可能なはずの『希望』に、凍りついていた目頭が熱く焼け付く。決壊しそうになる涙を隠すように、フランシスカは深く、深く頭を下げた。
「……どうか、よろしくお願いします」
──この無謀で美しい少女に、全てを託そう。仮にフェアリーレイズなど見つからず、この命が尽きたとしても、それは最初から計算済みのバッドエンドなのだから。
そう冷徹に割り切ることで、フランシスカはどうにか、こぼれ落ちそうになる涙を堪えた────




