怠け者
「あのぉ……フィルネ、さ……ん……?」
蚊の鳴くような、消え入りそうな精霊の囁きにも似た声で、グレンは呼びかけた。
掲示板に新規の依頼書を糊付けしていたのは、童顔に金髪のショートヘアが実にあざとく似合う少女、フィルネ・レンペルだ。年齢こそグレンと同じだが、このルウラ支店においては二年も早く泥水をすすってきた「大先輩」である。
彼女は一瞬、ゴミを見るような、あるいはもっと無機質な「何か」を見るような視線をグレンに投げた。だが、次の瞬間には、彼の存在など最初から定義されていなかったかのように、軽やかな足取りで立ち去っていく。
そこでもう一度声をかけるだけのガッツを持たないのが、グレン・ターナーという男だ。
現在十八歳。元々は中央大陸にある冒険者ギルド本店所属だったが、二年程前からルウラに異動になっていた。
身長は高めだが全体的にヒョロく。髪色も限りなく黒に近い茶色とまさに精神を体現したような地味な見た目。
今日も変わらず朝八時にギルドに出勤してから、空気のように存在感を消しているほど致命的なまでにコミュニケーションの才能が欠落していた。
ただ、そんなグレンに対して、視線を合わせれば石化するとでも思っているのか、あるいは言葉を発すれば寿命が縮むと信じているのか。
この支店に勤める十人の同僚のうち、半数以上が彼に「敵意」という名の、至極全うな感情を抱いている。
理由は単純明快。彼はギルド職員でありながら、ほぼメインである『受付・接客』という業務に一切足を踏み入れないからだ。
故に、陰では「役立たず」、あるいは「給料泥棒」という、身も蓋もないが的を射た称号で呼ばれている。グレンもそれを知っているが、それでも彼はカウンターに立たない。
コミュ障ゆえに「できない」という個人的な事情もさることながら、彼が採用された折、本店のギルドマスターから直々に「通常業務には一切関わらなくてよい」という、特権的かつ呪いのような免罪符を与えられているからだ。
もっとも、現場で汗を流す同僚たちからすれば、そんな上層部の密約など知ったことではない。彼にとっての職場は、常に冷たい視線の針のむしろであった。
フィルネに無視され、魂が半分ほど抜けかけたグレンは、救いを求めて別の背中を探す。
「が、ガイさん……」
ようやく声を絞り出した相手は、ベテラン職員のガイ・トッツォ。三十歳。
この魔窟において、グレンを「人間」として扱ってくれる希少種である。岩のようなゴツイ体格に強面。だがその内面は、道端に咲く花を愛でるような優しさに満ちたナイスガイだ。
「おう、どうした?」
太陽のような快活な返信。それだけで、グレンの凍てついた心は数度ほど解凍される。
「あのぉ……『G・ワームの巣穴に落としたペンダント回収』の依頼……売れたんです?」
「あぁ、昨日の朝に『聖女様』が受けていったぜ」
「そ、そうですか……」
G・ワーム。直径二メートル、全長十二メートルに及ぶ、大地の悪意を凝縮したような巨大芋虫だ。彼らの巣穴へと続く地上からの縦穴は十メートルを超える深淵となり、そこへ落ちた物を拾うのは、死神のポケットから小銭を盗むような苦行である。
サッと降りてサッと戻れる〝浮遊魔法〟の使い手ならいざ知らず、まともな神経の持ち主なら、報酬と命を天秤にかけて投げ出すような「不良在庫」だった。
それを受けたのが、アリア・エルナード。
清楚な白に身を包み、奇跡を操る美貌のAAランク。巷では「聖女」と崇められているが、グレンに言わせれば、雲の上のさらに上、「天使」と呼んでも差し支えないほどに現実感のない存在だった。
「それがどうかしたか?」
「な、何でもないです。……ああ、そういえば『ベイナント渓谷のゴブリン』は、掲示板から外しておきました」
「まあ、古い依頼をいつまでも貼っておく余裕はないからな。いい判断だと思うぜ」
〝掲示板から剥がす〟それこそが、グレンに与えられた「仕事」である。
次々と舞い込む依頼に押し出され、掲示板の隅で埃を被る「売れ残り」を見切って、剥がす作業。受付業務に追われる者たちから見れば、それはただ掲示板を眺めて遊んでいるだけにも見えるだろう。
『いい判断』というガイの言葉さえ、グレンの歪んだネガティブ・フィルターを通れば、「それくらいしか褒めるところがないんだろうな」という皮肉に変換される。
グレンは逃げるようにその場を離れ、冒険者たちの波に紛れ込んだ。
────その時だ。
喧騒に満ちていた店内の空気が、物理的な圧力を伴って割れた。
かつて伝説の偉人が「海を割った」とされる伝説を再現するかのように、掲示板へと続く一本の道が自然と形成されていく。そこを歩いているのは、他ならぬ「聖女様」アリア・エルナードだった。
いつもの白いチュニックに、本日は珍しく鋼鉄のブレストプレートを付けている。相変わらず膝上で揺れるチェックのスカートを差し置いても、いつもの「お淑やかな聖女」とは一線を画す〝戦う女〟の鋭利な美しさがそこにはあった。
周囲の冒険者たちが「おお、聖女様だ」「今日も尊い……」などと野太い賛美を漏らす中、当の本人は一切の余所見もせず、血走った眼光で掲示板を凝視している。
何かを探しているようだった。それも、極めて必死に。そんな風に掲示板を見つめていたアリアが、唐突に声を上げた。
「あの依頼書ないじゃん!」
鈴を転がすような美声に混じった、場違いなほどに幼い響き。それが店内の喧騒を物理的に切り裂いた。




