甦る恐怖
◇◇◇◇◇
気付けば、幼き少女は一人だった。
言語すら未発達の身で、見知らぬ草原のド真ん中にポツリと〝配置〟されている。雲一つない蒼穹、柔らかな風に靡く赤い髪。
そんな無垢なる少女を狙い、飢えた狼の群れが舌を舐めずりながら包囲を狭めていく。
「わんわん……わんわん……」
迫る死神をただの犬と錯覚し、無邪気に喜ぶ少女へ、狼達が一斉に牙を剥いた────その刹那。
網膜を焼くほどの眩い『光』が世界を白く染め上げた。
そして光が収束した直後、少女の全身は狼達の返り血で赤く染まり、周囲には原形を留めない肉塊と化した狼の残骸が散乱していた。
そんな凄惨な光景を見て、少女はただ「わんわん死んじゃったぁ」と、いつまでも泣き叫び続けていた。
────「また、あの悪夢……」
いつもの安宿のベッドで、アリアは弾かれたように目を覚ました。時刻は既に正午。不快な幻視の代償として、全身は寝汗でぐっしょりと濡れ、極めて不快な粘着感を放っている。
即座にシャワーを浴びて不浄を洗い流し、腰に愛用の短剣を帯びて部屋を出る。
「おや、アリアちゃん。今日は随分と遅いね」
「おはよ……じゃなくて、こんにちは、女将さん」
「今日も稼ぎに行くのかい? 気を付けてね」
笑顔で手を振り返し、宿を出る。空腹は訴えかけていたが、ランチの誘惑よりも優先すべき『日課』がアリアにはあった。
「一旦、ギルドを覗いてこよう。そう、一旦ね。軽くパトロールするだけなんだから……」
誰への弁明か。最近の自分は、明らかに用もないのにギルドへ入り浸っている気がした。
本来、彼女ほどの高ランク冒険者になれば、適当な素材を売るか、月に数回大型依頼をこなすだけで十分に食っていける。毎日のようにギルドの掲示板に張り付く物理的必然性など、どこにもないのだ。
ただ────ほんの少しだけ、足を向けたくなる〝理由〟が出来てしまっていた。
「今日は何て話し掛けようかな。そろそろネタが尽きてきたし……って、いやいや! 何を血迷ってるの私! 別に彼に会いに行くわけじゃないんだから!」
独り言という名の自己欺瞞を路上で大絶賛ダダ漏れにしている彼女を、通行人たちが奇異の目で振り返っていたが、自意識の暴走に忙しい本人は全く気付いていない。
しかし、そんなアリアの平和な脳内会議を、鼓膜を裂くような女性の悲鳴が物理的に粉砕した。
東門の方向。見れば、血相を変えた人々が濁流のように押し寄せてくる。
「ゴブリンだぁぁ!」
「門番がやられた! 誰か助けてくれ!」
その単語を聞いた瞬間、アリアの背筋を這い上がるような悪寒が走った。
ゴブリン──また、あの『異常個体』?
論理的思考が警鐘を鳴らす。本来、ゴブリンは臆病で夜行性の魔物。白昼堂々、ましてや王都の正規兵が守る門を単独で突破するなど、生態学的にも戦力的にもあり得ない。ベイナント渓谷の時もそうだったが、「日中の市街地襲撃」など、異常を通り越して狂気だ。
そして、視線を向けた先にアリアの網膜は捉えてしまった。
逃げ惑う男性の背後へ、肉薄せし緑色の魔物が無慈悲に斧を振り下ろす瞬間を。
そして鮮血と、けたたましい断末魔。
「そ、そんな……どうして、またアレが……」
阿鼻叫喚の地獄絵図を前に、アリアの両足は、渓谷で味わった「死の恐怖」のフラッシュバックにより完全に縫い止められていた。
だが、無知という名の特権を持つ者は、いつの時代も存在する。
「ひゃっほー! 雑魚いただきー!」
「どけドケェ! 英雄様のお通りだぁ!」
思考停止に陥るアリアの脇を抜け、粗末な軽装に武器を持っただけの四人の男たちが、奇声を上げながらゴブリンへ突撃していった。死にたがりの三流冒険者のように。
アリアの微かな「ダメ……」という制止の声は彼らの耳に届かない。自信満々で〝最弱の魔物〟を狩りに行った彼らが、単なる〝挽肉〟へと変換されるのに、五分すら不要だった。
視線の先で、四つの命が、文字通り一瞬にして刈り取られる。
「た、戦わなきゃ……。護りたまえ、母なる神の────」
震える唇を噛み破り、アリアは詠唱を開始した。だがその時、血に飢えたゴブリンの濁った瞳が、逃げ遅れた小さな女の子を捕捉した。
詠唱の完了より早く、無慈悲な斧が少女の脳天へと振り下ろされる。
その瞬間。一人の女性が、自らの命を盾にするように間へ飛び込み、斧の直撃を受けて地に伏した。少女の母親だろうか?
ゴブリンはそんな尊い犠牲など路傍の石ほどにも介さず、仕切り直すように次なる一撃を、今度こそ少女へと振り上げた。
「────バム、ルーザ、オルフプロテクション!!」
肺が千切れるほどの早口で残りの詠唱を完了させたアリアの両手から、強烈な光の波動が放射された。
少女を中心に展開された半透明のドーム状バリアが、振り下ろされた致死の斧を間一髪で弾き返す。
「動けぇぇっ、私の、あしぃぃッ!!」
己の魂に刻まれた恐怖心を絶叫でねじ伏せ、アリアは腰の短剣を抜き放つと、死神が待つ修羅場に向かって全力で駆け出した。




