また、一年後……
レオンとて一線を越えるつもりなど毛頭ない。これは単なる八つ当たりで、己の中に渦巻く理不尽な苛立ちの正当な捌け口──のはずだった。
しかし、宙に吊るし上げた小柄な少女は、いつしか足の抵抗を止め、土気色の顔をしてグッタリと項垂れていた。『これ以上はマズイ』
頭では理解していてもレオンは振り上げた拳の降ろし方が分からなかった。
苛立ちという名の猛毒が全身を侵している。いっそこのまま、彼女の首の骨をへし折ってしまおうか。
そんな狂気の螺旋に思考が呑まれかけた、まさにその刹那。彼の脇腹に突如、大きな〝質量〟が衝突した。
視界が水平にスライドする。違う、自分の巨体が紙切れのように吹き飛ばされている。手のひらにあったはずの少女の命の重みは、幻のように消失していた。
次の瞬間、全身が硬い石畳に激突する。肺から酸素が強制排出され、呼吸という機能が停止した。脇腹を貫く絶望的な激痛に、ガハガハと血の混じった声にならない悲鳴が漏れる。
一体、何が起きた?霞む視界の中で、周囲の冒険者たちが〝汚物〟を見るような目で自分を囲んでいるのが見えた。
そして、彼が『ゴミ箱』と呼んで見下していた地味な従業員が、気を失ったフィルネを抱き留めながら、床を這うレオンを見下ろしていた。
その視線は、絶対零度。
日常で感情の起伏を一切見せない男の、深淵を覗き込むような暗く冷たい瞳。怒りなどという生温かいものではない、純粋な『排除』の意思。レオンの背筋を、生まれて初めての絶対的な恐怖が駆け抜けた。
だが次の瞬間、その男──グレンは、いつもの覇気のない表情へと切り替わり「だ、誰か彼女に回復魔法を……!」と情けない声で叫んでいた。
すぐさま駆け寄った冒険者が治癒を施し、むせ返りながら息を吹き返したフィルネがボロボロと涙を零す。その光景を見て、レオンは漸く狂気から覚醒した。自分は今、本気で彼女を殺しかけていたのだと。
「おい、早く衛兵を呼べ!」
怒声と共に、複数の冒険者がレオンの四肢を乱暴に押さえつける。
(そんなに力むな、動けるわけがないだろ!)と叫びたかったが、血の味しかしない喉は機能しなかった。
「散々バカにしてた従業員に蹴り飛ばされてやんの!どこまで惨めなんだよ、お前はもう終わりだ!」
頭上から降ってきた嘲笑に、レオンはかつてない底無しの絶望を味わった。自分は、あの『ゴミ箱』の蹴り一発で沈んだのだと。
情けない。あまりにも滑稽だ。肋骨は確実に数本イッているし、内臓の損傷も深刻だろう。
だが、プライドという名の急所を砕かれた痛みに比べれば、肉体の苦痛など無に等しかった。
やがて駆けつけた王国兵により、レオンは王城地下の冷たい牢獄へと引きずられていった。
────光の届かぬ地下牢に放り込まれてから、三日が過ぎた頃。
既に生きる気力も、時間の概念すらも失いかけていたレオンの鼓膜を、聞き慣れた足音と声が叩いた。
「三番牢だな?了解した」
「ええ。面会時間は守りますので」
それは今や〝かつての仲間〟と呼ぶべき、バズとベッツの声だった。
面会だと?冗談じゃない。落ちぶれ果てた惨めな自分を、わざわざ高みから見物しに来たのか。自嘲と猜疑心にまみれるレオンの鉄格子越しに、二人の影が落ちる。
「ようレオン。元気……なわけねえか」
「やってしまいましたね。あなたは本当にもう……救いようがない」
レオンは無言を貫いた。肉体は話せる程度には治癒しているが、紡ぐべき言葉のストックが空っぽだった。
「なんだ、いつもの憎まれ口を叩く元気もねぇのかよ?」
バズの軽い挑発に僅かな苛立ちを覚え、顔も上げずにボソボソと毒を吐く。
「……何しに来た。笑いに来たんなら帰れ。もう俺はお前らとは無関係だろうが」
「ええ、そうですね。どうやらあなたは、最低でも一カ年はここから出られないそうです」
「本当にお前、あのレオンか?ったく、情けねぇ面しやがって」
昔馴染みの声すら、今のレオンの歪んだ聴覚フィルターを通せば純度百パーセントの嫌味に変換される。だが、もうどうでもよかった。
懲役一年。人を殺しかけたにしては短い刑期だが、前科持ちの墜ちた冒険者の未来など、何の価値もない。もはや帰る場所も、帰る理由もないのだ。
「……もう放っとけ。俺に構うな」
「あーあ。完全に心が折れちまってるな。行くか、ベッツ」
「そうですね。死人に構っていても時間の無駄ですし」
遠ざかる二つの気配を感じ、レオンは恨めしげに顔を上げた。だが、二人の影は鉄格子の少し先でピタリと止まり、静かにこちらを振り返っていた。
そしてベッツが、呆れたような、それでいて清々しい笑顔で告げる。
「というわけで。『ヴァルハラ』の活動休止期間は、一年延長ですね」
何を寝言を言っているのかと目を丸くするレオンに対し、バズが分厚い拳を鉄格子に向けて突き出した。
「この一年で、その腐った面をなんとかしとけよ。ウチのリーダーがそんなツラじゃあ、ヴァルハラの名が廃るからな!」
ガハハ、という豪快な笑い声。そして二人は笑顔で言った。
「──じゃあな、また一年後だ」
迷いのない足取りで階段を上り、闇に溶けていく二人の背中を見つめながら、レオンは今更すぎる己の底無しの愚かさと、彼らの理不尽なまでの情の深さに打ちのめされていた。
気がつけば、汚れきった頬を温かい水滴が伝い落ちる。
レオン・ペルム、二十四歳。それは彼が、虚飾の鎧を脱ぎ捨て、大人になってから初めて流した嬉し涙だった────




