第81話 半分の視界
卵が、音もなく消えた。
正確には、佐藤誠司の右目から消えただけだった。
十一月の朝。台所には味噌汁の湯気と、油の弾ける小さな音が満ちていた。誠司はフライパンを右手に持ち、半熟になった卵を奥から手前へ折ろうとしていた。
いつもなら、箸先で縁を整えるだけの作業だった。
だが、右端が見えない。
黄色い卵の端が視界の外へ抜け、次の瞬間、じゅ、と湿った音がした。コンロ脇に卵が垂れ、焦げた匂いが立ちのぼる。
「……っ」
「あ」
背後で、美咲が短く声を漏らした。
誠司は反射的に右を向こうとして、目だけでは足りないことを思い出す。首ごと動かす。ようやく、コンロの脇に落ちた卵が見えた。
「ごめん。ちょっと、失敗した」
「火、弱めるね」
美咲は理由を聞かなかった。誠司の手からフライパンを奪うことも、代わると言うこともしなかった。ただ火力を落とし、濡らした布巾でこぼれた卵を拭き取った。
その手つきがあまりに普段どおりで、誠司はかえって息苦しくなった。
作戦から二週間。
右眼の視野狭窄。慢性的な頭痛。深層対話は一度につき四分まで。
医師から説明された言葉は理解できた。検査結果も、数値も、危険性も理解している。けれど、理解することと、生活できることは別だった。
手を伸ばした先が、思ったより遠い。
右から差し出された物に、気づくのが一拍遅れる。
壁に肩をぶつける。階段で足元を確かめる時間が増える。人と並んで歩けば、無意識に相手を左側へ置こうとする。
失ったのは視界の一部だけだ。
それでも生活は、その一部を狙い澄ましたように使っていた。
「パパ、今日から会社だっけ?」
制服姿の陽菜が、食卓から尋ねた。
「ああ。もう休んでばかりもいられないからな」
「無理しないでよ」
「わかってる」
「パパのわかってるは、あんまり信用できない」
陽菜が眉を寄せると、隣で湊が大きくうなずいた。
「できない!」
「そこは信用してくれよ」
誠司が笑うと、二人も笑った。
美咲だけは笑わなかった。
卵焼きを皿へ移し、焦げた端を自分の側へ向ける。誠司の前には、形の整った部分が置かれた。
「いってらっしゃい」
玄関で、美咲はいつもと同じ声で言った。
「いってきます」
靴を履き、立ち上がる。右側の壁との距離を測り損ね、肩がわずかに擦れた。
美咲の視線がそこへ落ちたことに、誠司は気づかなかった。
◇
東都精機システムズの自動扉が開いた瞬間、事務フロアの音が薄くなった。
電話の呼び出し音。キーボードを叩く音。コピー機が紙を吐き出す音。
すべて残っているのに、人の声だけが一段下がった。
誠司が歩くと、視線が追ってくる。
以前は、そこにいることさえ気づかれない日があった。書類を整え、誰かのミスを黙って直し、会議では発言の順番が回ってこない。四十代の、替えが利く事務職員。
それが今は、社員たちが道を空ける。
「佐藤さん、おはようございます」
「体調、大丈夫ですか?」
「復帰、おめでとうございます」
返事をするたび、頭を下げられた。
誠司には、その一つ一つが落ち着かなかった。
「おはようございます。もう大丈夫です」
そう答えながら、自席へ向かう。
右側から近づいてきた後輩に気づかず、肩がぶつかりそうになった。
「あ、すみません!」
「いや、こっちこそ」
誠司は首ごと右へ向けた。後輩の顔が、遅れて視界へ入る。
若い社員は一瞬だけ誠司の右目を見て、慌てて視線を下げた。
「あの、佐藤さん」
「うん?」
「その……サイン、もらってもいいですか」
「サイン?」
「管理者の。家宝にします」
「いや、俺は芸能人じゃないんだから」
周囲から小さな笑いが起きた。
張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
誠司も笑った。笑いながら、胸の奥に細い違和感が残った。
彼らが見ているのは、佐藤誠司なのだろうか。
それとも、国家級ダンジョンを救った管理者なのだろうか。
どちらも自分のはずなのに、片方だけが急に大きくなり、もう片方を机の下へ押し込めているように感じた。
「……佐藤くん」
声に振り向く。
矢沢が、三歩ほど離れた場所に立っていた。
以前なら、誠司の机まで来ることはなかった。用があれば呼びつけ、資料を投げるように渡し、遅れが出れば人前で責めた。
替えはいくらでもいる。
そう言った口が、今は言葉を探して何度も開閉している。
「矢沢部長。おはようございます」
「あ、ああ。おはよう」
矢沢の視線は誠司の顔に定まらなかった。右目、机、床、また右目。細い額に汗が浮いている。
「体調は……その、大丈夫なのか」
「はい。ご心配をおかけしました」
「そうか。なら、いいんだが」
そこで会話は途切れた。
フロアの奥で、コピー機が一枚、紙を吐き出した。
矢沢は何かを言おうとした。唇が動き、けれど音にはならない。
謝罪かもしれない。
弁明かもしれない。
誠司にはわからなかったし、追及するつもりもなかった。
「本日の集計、午後までにまとめておきます」
「……無理はするなよ」
「ありがとうございます」
誠司がいつもどおり頭を下げると、矢沢の顔がかすかに歪んだ。
責められなかったことが、責められるより苦しい。
そんな顔だった。
矢沢が去ったあと、誠司はパソコンを起動した。画面の右端に並ぶアイコンを見落とし、カーソルが空白をさまよう。
一度、二度。
三度目でようやく目的のファイルを開く。
背後から誰かが手伝おうとする気配がしたが、誠司は何も言わず作業を続けた。
以前と同じ速さではできない。
それでも、できないわけではない。
右側が見えないなら、首を動かす。
一度で届かないなら、二度確かめる。
失ったものを数えて手を止めるより、残っているもので今日を終わらせたかった。
◇
その日の深夜。
地下施設の作業室で、誠司は端末の前に座った。
冷えた空気が頬を撫でる。無数の区画情報が立ち上がり、青白い光が机の上を流れた。
以前なら、そのすべてが一つの景色として頭へ入ってきた。
今は違う。
右側の表示を確認するため、誠司は首を動かす。頭の奥で鈍い痛みが脈打った。
コトリの声が静かに響く。
『誠司。今夜の深層対話は、四分以内です』
「わかってる」
『現在の身体状態で単独処理を行った場合、全区画カバー率は五十三・三パーセントです』
画面中央に数値が浮かんだ。
【単独カバー率 53.3%】
【未監視領域 46.7%】
ほとんど半分。
誠司は、欠けた数字を見つめた。
そのとき、端末の奥で一つ目の通信灯が点いた。
『佐藤さん。上層は俺が全部持ちます』
天城蓮の声だった。
二つ目、三つ目と通信灯が続けて点る。
『CからE区画は俺が監視する』
黒瀬大輝の低い声。
『F区画以降は任せろ。お前は深いところだけ見ろ』
桐島鷹也が続く。
『変動パターンは、あたしが拾うから! 管理者さん、勝手に無茶しないでよ!』
宮前千紗の明るい声が重なり、最後に、少し間を置いて影山恭一が告げた。
『……俺は、誠司さんの負荷を見ます』
五つの通信灯が、端末の暗がりに並んだ。
作戦前まで、そこにはコトリの声しかなかった。
一人で見て、一人で決めて、一人で背負う。それが管理者なのだと、誠司は思い込んでいた。
画面には、まだ五十三・三パーセントという数字が残っている。
だが、その右側に、新しい計算欄が開いた。
欠けた四十六・七パーセントを、誰が、どれだけ埋めるのか。
誠司は、点灯した五つの灯を見つめた。
最初に動いたのは、天城蓮だった。
『上層区画、接続します』
端末の左上に広がっていた警告表示が、一つずつ青へ変わる。
【天城蓮 担当領域寄与 +21.0pt】
『変動の大きいところだけ、佐藤さんに送ります。細かい巡回は俺がやります』
「蓮、判断に迷ったら」
『すぐ呼びます。だから佐藤さんも、呼ばれるまでは手を出さないでください』
十九歳の声は、以前よりわずかに低くなっていた。
誠司は口を開きかけ、閉じた。
任せるとは、仕事を渡すことではない。
相手が自分とは違う方法で処理するのを、途中で奪わずに見ていることなのだ。
「……わかった。任せる」
『はい』
返事と同時に、C区画からE区画までの監視線が点灯した。
【黒瀬大輝 担当領域寄与 +9.0pt】
『C区画の圧力値が基準より〇・八パーセント高い。ただし過去二十四時間の変動幅内だ。警告には上げない』
「了解」
『管理者。確認しなくていい』
「え?」
『俺が確認した。だから報告している』
淡々とした声だった。
責めているわけではない。
けれど、その言葉は誠司の指を端末の上で止めた。
確認しなければ、不安が残る。
自分で見なければ、見落としがある気がする。
その不安こそが、誠司を一人で抱え込ませてきた。
「……そうだったな」
誠司は、C区画へ伸ばしかけた処理線を消した。
「大輝が見たなら、大丈夫だ」
『ああ』
短い返事のあと、F区画より深い領域へ別の監視線が走る。
【桐島鷹也 担当領域寄与 +8.0pt】
『こっちは静かすぎるな』
「静かすぎる?」
『異常がないんじゃない。通常なら出るはずの微細振動が消えている』
桐島が、波形を拡大した。
確かに、線が不自然なほど平らだった。
誠司の身体が前へ傾く。
深層へ接続し、自分で確かめたい衝動が喉元まで込み上げた。
だが、その前に宮前千紗の声が飛んだ。
『待って! それ、異常じゃないよ!』
【宮前千紗 変動解析寄与 +7.0pt】
『昨日、冷却系統を切り替えたでしょ? 振動の基準値が古いままなんだよ。新しい系統に合わせて補正すると……ほら!』
平らだった波形に、細かな起伏が戻った。
正常範囲を示す青い帯の中央を、規則正しく進んでいる。
桐島が小さく息を吐いた。
『なるほどな。助かった』
『でしょ? あたし、数字見るの得意なんだから!』
『十二年前は計算間違いばかりだったがな』
『それ今言う!?』
『事実だ』
『鷹也は昔から一言多い!』
二人の声が重なり、作業室に笑いが生まれた。
地下深く、夜の誰もいない施設。
以前なら、端末の駆動音と誠司の呼吸しか聞こえなかった場所に、今は言い合う声がある。
誠司の口元が、わずかに緩んだ。
その直後、右目の奥が鋭く痛んだ。
「……っ」
『誠司さん』
影山恭一の声が即座に反応した。
【影山恭一 負荷監視寄与 +6.0pt】
『脳圧変動、基準値を一・九パーセント超過。深層対話開始から二分十一秒です』
「まだ半分ある」
『時間ではなく、身体を見てください』
「でも、今夜の処理は」
『俺の担当は区画じゃない』
影山の声は静かだった。
『誠司さんを、四分以内で止めることです』
誠司は答えられなかった。
端末には、各担当者が受け持つ領域が色分けされている。
蓮が上層を支え、大輝が中層を監視し、鷹也が深部の変化を拾い、千紗が数値の意味を読み替える。
そして恭一が、誠司自身を見ている。
これまで誠司は、管理対象に自分を含めていなかった。
壊れれば休む。
倒れたら誰かに運ばれる。
まだ動けるうちは、使えるものとして扱う。
そんな誠司を、影山は一つの区画と同じように監視していた。
「……わかった」
誠司は深層との接続を一段浅くした。
頭蓋の内側を締めつけていた痛みが、少し遠のく。
『負荷、低下しました』
「ありがとう、恭一」
『仕事です』
淡々と返した声の奥に、わずかな安堵があった。
コトリが全担当領域を統合する。
画面いっぱいに、白い計算式が流れた。
【監視能力統合】
【佐藤誠司 53.3%】
【天城蓮 +21.0pt】
【黒瀬大輝 +9.0pt】
【桐島鷹也 +8.0pt】
【宮前千紗 +7.0pt】
【影山恭一 +6.0pt】
【単純合算 104.3%】
【重複監視領域調整 -4.3pt】
【実効カバー率 100.0%】
すべての区画が青く染まった。
警告の赤は一つも残っていない。
コトリが告げる。
『全管理領域のカバー率、百パーセントです』
誠司は瞬きをした。
「百……?」
『誠司が単独で深層対話を行っていた時期の最高値は、九十四・〇パーセントでした』
【旧体制最高値 94.0%】
【新体制 100.0%】
【改善幅 +6.0ポイント】
青い光が、誠司の顔を照らした。
右側の一部は見えない。
首を動かさなければ、五つの通信灯を一度には確認できない。
深層にいられる時間も、以前の半分以下になった。
失ったものは、戻っていない。
誰かが代わりに痛みを引き受けてくれたわけでもない。
それでも、見える範囲は広がっていた。
「一人だと」
誠司は、ゆっくりと言った。
「俺一人だと、半分しか見られない」
通信の向こうが静かになる。
誠司は点灯した五つの灯を、首を動かしながら一つずつ見た。
「でも、六人なら」
胸の奥にあった硬いものが、少しだけほどけた。
「前より見えるんだな」
誰もすぐには答えなかった。
端末の冷却音だけが、作業室を流れていく。
やがて千紗が、鼻をすするような音を立てた。
『管理者さん、それ、もっと早く気づいてよ』
『まったくだ』
桐島が続く。
『俺たちは十二年待ったんだぞ』
『待っていたわけじゃない』
黒瀬大輝が訂正する。
『眠っていた』
『細かいなあ、大輝は!』
千紗が抗議し、蓮が小さく笑った。
『佐藤さん』
「ん?」
『次からは、最初から頼ってください』
誠司は、返事をするまでに少し時間がかかった。
「ああ」
その一言は、これまで口にしてきたどんな了解より重かった。
「頼むよ。みんな」
端末上の六本の監視線が、一つの円を描いた。
◇
翌朝、誠司が家へ戻ると、台所から包丁の音が聞こえていた。
「おかえり」
美咲が振り向く。
「ただいま」
誠司は食卓の椅子を引こうとした。右側にあるテーブルの角を見落とし、肘をぶつける。
ごつ、と鈍い音がした。
「……っ」
「大丈夫?」
「ああ。ちょっと、まだ慣れなくて」
誠司は肘をさすりながら笑った。
美咲は何も言わなかった。
朝食を並べる。
味噌汁。焼き鮭。白いご飯。小皿に載せた漬物。
美咲は湯呑みを置きかけ、一瞬だけ手を止めた。
いつもなら、誠司の右手側に置いていた。
その手が、食卓の上を静かに横切る。
湯呑みは左へ。
箸も左へ。
醤油差しも、誠司が首を動かさずに届く位置へ移された。
椅子の右側にあった新聞は畳まれ、反対側へ置かれる。
どれも、わざとらしさのない動きだった。
誠司は味噌汁を一口飲んだ。
湯気の向こうで、美咲が焼き鮭の骨を取っている。
「最近さ」
「うん?」
「なんか、物が取りやすくなった気がする」
美咲の指が、ほんの一瞬だけ止まった。
「そう?」
「ああ。目が慣れてきたのかな」
「そうかもしれないね」
美咲は笑った。
誠司も笑い、左側に置かれた醤油差しへ自然に手を伸ばした。
その指は迷わず、正確に瓶をつかんだ。
誠司は気づかない。
自分の見えない場所で、妻が生活の形を少しずつ変えていることに。
失った半分を、誰かが黙って埋めていることに。
地下でも。
この家でも。
佐藤誠司はもう、一人で世界を見てはいなかった。




