表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第2部:管理者覚醒編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
80/82

第80話 おかえりなさい



 最初に戻ってきたのは、痛みだった。


 頭の奥で、脈拍に合わせて鈍いものが膨らんでは縮んでいる。右目の裏側には、熱を持った石でも埋め込まれたような重さがあった。


 次に、音が戻った。


 規則正しい電子音。


 空調が吐き出す風。


 布の擦れる、ごく小さな音。


 誰かが鼻を啜る音。


 佐藤誠司は、閉じた瞼をゆっくり持ち上げた。


 白い天井が見えた。


 ただし、全部ではなかった。


 左側ははっきりしているのに、右側には薄暗い幕が垂れている。そちらへ目を動かしても、視界の端がついてこない。


 何度か瞬きをすると、窓から差し込む午後の光が天井に淡い四角を作っていることに気づいた。


「パパ、起きた!」


 湊の声が病室に弾けた。


 誠司が左へ顔を向けると、ベッド脇に家族がいた。


 湊は布団の端を両手で掴み、身を乗り出している。陽菜は椅子から立ち上がりかけた姿勢で固まり、目を丸くしていた。


 その後ろに、美咲がいた。


 髪は乱れ、目元が赤く腫れている。何日も眠っていないような顔だった。


「パパ!」


 陽菜がベッドへ駆け寄った。


「陽菜……湊……」


 喉が乾いて、名前が掠れた。


 湊の小さな手が、誠司の左手を包む。続いて陽菜も、その上から指を重ねた。


 温かかった。


 最深部の冷え切った空気とは違う。


 生きている者の体温だった。


 美咲は何も言わず、二人の横へ立った。


「……誠司さん」


 その声を聞いた瞬間、途切れていた記憶が一気に戻った。


 黒い渦。


 四人の光。


 コトリの薄くなった声。


 八十九人。


 最終負荷指数、二十八・三。


 そして、指切り。


 誠司は動かしにくい指を、ゆっくり持ち上げた。


「……ただいま」


 美咲の唇が震えた。


「おかえりなさい」


 それだけを言うと、彼女は誠司の手を握った。


 強くはない。


 確かめるような握り方だった。


 手のひらは汗ばんでいる。指先は少し冷たい。


 美咲は声を上げなかった。


 俯いたまま、誠司の手に額が触れそうなほど顔を近づけ、涙だけを落とした。一滴、また一滴と、誠司の手の甲を濡らしていく。


「美咲」


 誠司が呼んでも、返事はない。


 肩だけが細かく震えている。


「ごめん」


 その言葉に、美咲の指が強くなった。


「謝らないで」


 低い声だった。


「帰ってきた人が、最初に謝らないで」


 誠司は口を閉じた。


 陽菜が唇を噛み、湊は何が起きているのかわからない顔で、美咲と誠司を交互に見ている。


 誠司は三人の手をまとめて握ろうとした。


 だが、腕に力が入らない。


 指がわずかに動いただけだった。


 それでも、美咲はその動きを見逃さなかった。陽菜と湊の手ごと包み込み、誠司の胸元へそっと寄せた。


「指切り、守ったよ」


 誠司が言った。


 陽菜の目から涙が溢れた。


「遅いよ」


「うん」


「すぐ帰ってくるって言ったのに」


「うん。ごめん」


「だから謝らないでって言われたでしょ」


 陽菜は泣きながら怒った。


 誠司は小さく笑った。


「そうだった」


 湊が、誠司の腕を恐る恐る触った。


「パパ、もう死なない?」


 病室から音が消えた。


 美咲の指が固まる。


 陽菜も泣くのを止めた。


 誠司は、すぐに大丈夫とは言えなかった。


 何が起きたのか、自分の身体がどうなったのか、まだ何も知らない。


 わかっているのは、ここに帰ってきたことだけだった。


「今は、生きてる」


 誠司は湊の手を見た。


「パパは、ここにいる」


 湊はしばらく考え、それから小さく頷いた。


「じゃあ、いい」


 子どもの結論は、単純で、重かった。


 病室の扉が静かに開いた。


 白衣を着た医師と、黒瀬環が入ってきた。


 黒瀬はいつものスーツ姿だったが、目の下に濃い影がある。抱えているタブレットには、いくつもの検査結果が表示されていた。


「佐藤さん」


 黒瀬の声を聞き、誠司は顔を向けた。


「黒瀬さん……みんなは」


 自分の状態より先に、言葉が出た。


「八十九人は」


「全員、帰還しています」


 黒瀬は即答した。


「死亡者はゼロ。重篤者もいません」


 誠司の肩から、見えない重りが落ちた。


「四人は」


「保全状態を維持しています。宮前千紗、桐島鷹也、黒瀬大輝、影山恭一。全員、人格構造は安定しています」


「コトリは」


 黒瀬の返答が、一拍遅れた。


「存在しています」


 その言い方だけで、誠司にはわかった。


「影響が残ったんですね」


「はい。ただし、現段階では詳細を確定できません。応答速度と一部の処理能力が低下していますが、会話も判断も可能です」


 誠司は天井を見上げた。


 四人は帰った。


 コトリも消えていない。


 八十九人も無事だった。


 胸の奥から安堵が広がる一方で、右目の裏側の痛みが、その結果に代償があったことを知らせていた。


 医師がベッド脇へ進んだ。


「佐藤さん。今から検査結果について説明します」


 美咲が誠司の手を握ったまま、姿勢を正した。


 黒瀬はタブレットを誠司から見える位置へ向けた。


「佐藤さん。最深部での最終負荷指数は二十八・三でした」


 画面に、危険閾値を越えた線が表示される。


【最終負荷指数 28.3】

【危険閾値 25.0】

【重篤域 32.0】


「事前予測の期待値は二十七・五。実測値はそれを〇・八上回りました。ただし、重篤域には到達していません」


 黒瀬が次の画面を開く。


【検査結果】


【右眼 視野狭窄】

【回復見込み 部分的】


【断続的頭痛】

【慢性化の可能性あり】


【第三段階権限 使用制限】

【連続使用 四分以内】

【従来上限 十分】


 美咲の手が、強くなった。


 医師は誠司の右側へ指を動かした。


「こちらが見えますか」


 誠司は目だけを向けた。


 指があるはずの場所に、何も見えない。


「見えません」


「では、ここは」


 指が中央へ近づく。


「見えます」


 何度か同じ確認が繰り返された。


 右目の中心は見えている。


 だが外側が欠けていた。


「右目の視野は、完全には戻らない可能性があります」


 医師は慎重に言った。


「時間の経過で、ある程度改善することは考えられます。ただ、以前と同じ範囲まで回復するとは断定できません」


「日常生活は」


「現時点の検査では、大きな介助が必要になる状態ではありません。ただし、距離感や右側から接近する物への反応に影響が出る可能性があります。頭痛についても、経過観察が必要です」


「仕事はできますか」


 美咲が誠司を見た。


 医師も一瞬、言葉を止めた。


「通常の生活や事務作業については、状態を見ながら復帰できると考えています」


「管理者としては」


 黒瀬が答えた。


「第三段階権限の連続使用は、一回につき四分以内です」


「四分……」


「これまでの上限は十分でした。今後は六分短くなります」


 誠司は表示を見つめた。


 数字にすれば、使用可能時間は従来の四十%。


 失われたのは六分。


 だが危機の中では、その六分で帰せる人数が変わる。


「制限を超えた場合は」


「今回より低い負荷でも、症状が悪化する危険があります」


 黒瀬は曖昧にしなかった。


「次に同じことをすれば、死なないという保証はありません」


 病室に、機器の電子音だけが残った。


 誠司は右目を閉じ、左目だけで家族を見た。


 美咲。


 陽菜。


 湊。


 三人とも、不安を隠そうとしていない。


 誠司は美咲の手を握り返した。


 今度は、指に少しだけ力が入った。


「美咲」


「何」


「大丈夫だ」


 美咲の眉が寄った。


「大丈夫じゃないでしょう」


「うん。前と同じではない」


 誠司は右側の暗い視界を確かめた。


「でも、帰ってこられた」


 美咲の目が再び潤んだ。


「指切りは、守れた」


 陽菜がベッドへ顔を近づけた。


「パパ、目、痛い?」


「少しだけ」


「見えないの?」


「ちょっと、右側が見えにくい」


 誠司は陽菜の顔へ視線を合わせた。


「でも、陽菜の顔はちゃんと見えるよ」


 陽菜は泣きそうな顔のまま、笑った。


 湊が布団を引っ張った。


「パパ」


「うん」


「怪獣、勝った?」


 誠司は目を閉じた。


 最深部で消えた黒い渦。


 保全領域に灯った四つの光。


 一人も失わなかったという表示。


 それらを思い出し、静かに頷いた。


「ああ。勝った」


 湊の顔が明るくなる。


 誠司は、もう一度言った。


「一人も、死ななかった」


 湊は、怪獣を倒した父を見るように、しばらく誠司を見つめていた。


「パパ、強いね」


「パパ一人で勝ったんじゃないよ」


 誠司は答えた。


「たくさんの人に助けてもらった」


「じゃあ、みんな強い?」


「ああ。みんな強かった」


 美咲が俯いたまま、誠司の手を撫でた。


「その中に、あなたも入ってるの」


 誠司は何も返さなかった。


 右側の暗い視界の外で、美咲がどんな顔をしているのか見えない。首を少し動かすと、ようやく彼女の横顔が視界へ入った。


 泣き腫らした目で、怒っている。


 それでも手は離さない。


 誠司はその手の温度を確かめるように、指を重ねた。


「ただいま」


 もう一度言った。


 美咲は目を閉じた。


「おかえりなさい」


     *


 数日後。


 誠司は地下施設の作業室にいた。


 右目の外側は、まだ暗い。


 頭痛も完全には消えていない。長く立っていると、頭の奥で鈍い拍動が始まる。


 それでも、今日だけは来なければならなかった。


 約束を果たすためだった。


「佐藤さん」


 後ろから黒瀬が呼んだ。


「本当に、今日でなくてもよかったんですよ」


「今日がいいんです」


 誠司は椅子へ腰を下ろし、端末を起動した。


 以前なら視線だけで拾えた右端の表示が見えない。顔ごと動かして確認しなければならなかった。


 黒瀬はそれに気づいたが、何も言わなかった。


「端末に、何かあるんですか」


「あります」


 誠司は四つの保全領域を開いた。


【宮前千紗 安定】

【桐島鷹也 安定】

【黒瀬大輝 安定】

【影山恭一 安定】


 黒瀬の目が、三番目の名前で止まった。


 呼吸が浅くなる。


 それでも、彼女はすぐには意味を理解できないようだった。


「黒瀬さん」


「……はい」


「あなたに、会わせたい人がいます」


 誠司が接続を許可すると、画面中央に一つの表示が浮かんだ。


【保全人格 黒瀬大輝】

【状態 安定】

【外部対話 可能】


 黒瀬の唇が開いた。


「……え」


 音になったのは、それだけだった。


 端末から、かすかなノイズが流れる。


 そして。


『……環』


 黒瀬の呼吸が止まった。


 十二年ぶりの、兄の声だった。


「兄さん……?」


『ああ』


 声は少し掠れていた。


 十二年前とまったく同じではない。


 だが、呼び方も、息を置く間も、黒瀬の知っている兄だった。


『俺だ』


 黒瀬はモニターの前に立ったまま動かなかった。


 顔から表情が消えている。


 受け止めきれない感情が多すぎて、どれ一つ外へ出せないようだった。


「そんな……」


 膝が小さく震えた。


「だって、兄さんは……十二年前に」


『すまなかった』


 大輝の声が重なる。


『すぐ帰るって言って』


 短い沈黙が入った。


『帰れなくて、すまなかった』


 黒瀬の膝が折れた。


 床へ座り込み、片手をつく。スーツの裾が歪み、タイトスカートに深い皺ができた。


「兄さん」


『環』


「兄さん……っ」


 その声は、分析官のものではなかった。


 数字を並べ、確率を計算し、感情を隠し続けてきた女の声でもない。


 十二年前、兄を待ち続けた妹の声だった。


「わたし、ずっと探してた」


 涙が頬を流れる。


「兄さんがどこに行ったのか、何をしてたのか、どうして帰らなかったのか」


『……ああ』


「知りたくて、この仕事に就いて」


 黒瀬は画面へ近づいた。


「何度調べても、何も残ってなくて。みんな、もう諦めろって言って」


『知ってる』


「何で知ってるの」


『管理者から聞いた』


 黒瀬は誠司を見た。


 誠司は何も言わず、視線を下げた。


『お前、俺のためにそんなところまで来たのか』


「だって」


 黒瀬の声が裏返った。


「兄さん、いなくなったんだもん」


『……ああ』


「何も言わないで、いなくなったんだもん!」


『ごめんな』


 同じ謝罪だった。


 だが、十二年前には届かなかった声だった。


 黒瀬は顔を覆った。


 指の間から涙が落ちる。


『環』


 大輝は、泣き止ませようとはしなかった。


 十二年分の涙に、早く終われとは言わなかった。


『俺たち、何もせずに消えてたわけじゃない』


 黒瀬が顔を上げる。


『四人で崩壊を押さえてた』


「知ってる」


『誰も、俺たちみたいに帰れなくならないように』


「佐藤さんから聞いた」


『十二年かかったけど』


 大輝は、少し笑った。


『ちゃんと、何かはできた』


 黒瀬は袖で涙を拭った。


 何度拭っても、次が溢れてくる。


「兄さん」


『何だ』


「わたし、あなたを誇りに思う」


 端末の向こうで、大輝が黙った。


 やがて、鼻を啜るような小さなノイズが混じった。


『……ばか』


「何よ」


『泣くなよ』


「兄さんが言わないで」


『そうだな』


 大輝は笑った。


『俺も、泣いてるみたいだから』


 黒瀬は泣きながら笑った。


 十二年間の空白は消えない。


 兄の身体が戻ったわけでもない。


 失われた時間を、やり直すこともできない。


 それでも、二人はもう、届かない場所にいるわけではなかった。


 黒瀬は床に座ったまま、誠司へ顔を向けた。


「佐藤さん」


「はい」


「……ありがとうございます」


 震える声だった。


「兄を、帰してくれて」


 誠司は右目の見えにくい視界で、黒瀬を見た。


「いえ」


 頭痛が小さく脈打った。


 それでも、口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。


「俺は、帰りたい場所がある人を、帰しただけです」


     *


 数週間後。


 誠司は管理者の仕事へ戻った。


 第三段階権限の連続使用は、四分以内。


 以前の十分に比べれば、使える時間は四十%しかない。


 右目の外側には、今も見えない部分が残っている。


 頭痛が始まれば、処理を切り上げなければならない。


 以前と同じではない。


 だが、以前と違うのは誠司の身体だけではなかった。


 天城蓮が上層を捌く。


 ミラージュが、白瀬の指示で処理を支援する。


 四人の保全人格が最深部を監視する。


 そして、少し薄くなったコトリが、全体の負荷を最適化している。


 作業室で、誠司は端末を起動した。


『おかえりなさい、誠司』


 以前より少し遠く感じる声だった。


 それでも、間違いなくコトリだった。


「ただいま、コトリ」


『管理者さん!』


 千紗の声が割り込んだ。


『マルのこと、調べてもらったんだけど』


『おい、千紗』


 桐島が遮る。


『管理者が来たばかりだろ。少し静かにしろ』


『十二年待ったんだから、ちょっとくらいいいじゃん!』


『十二年待ったのは俺たち全員だ』


『まあまあ』


 大輝が笑った。


『賑やかでいいじゃないか』


『……ふふ』


 影山の小さな笑い声が続いた。


 以前はコトリと誠司の声しかなかった作業室に、四人分の声が増えている。


 誠司は椅子へ深く腰を下ろした。


「賑やかになったな」


『はい』


 コトリが答えた。


 声は薄くても、その言葉には確かな感情があった。


『少し、嬉しいです』


 そのとき、上層から蓮の通信が入った。


『佐藤さん』


「どうした」


『B‐9区画、赤いランプが点きました』


 端末の右端で、警告表示が点滅している。


 誠司は顔を動かし、暗くなった視界の外から表示を捉えた。


 残された時間は四分。


 以前なら一人で背負った。


 今は違う。


「蓮くん、上層を頼む」


『はい!』


「コトリ、負荷管理を」


『承知しました』


「最深部は」


『俺たちに任せろ』


 桐島が答えた。


 誠司は荒れた指を、キーボードへ置いた。


「よし」


 赤いランプの先には、帰れなくなった誰かがいる。


 誠司は、いつもと同じ静かな声で言った。


「帰そうか」


 佐藤誠司、四十二歳。


 会社では、いまだに事務職。


 家では、右目の見えにくい父親。


 深夜は、世界を支える管理者。


 彼は十九%を引いた。


 九十六・一%の確率どおり、危険閾値を越えた。


 代償は残った。


 それでも、〇・一%の重篤域には届かず、約束を守って帰ってきた。


 彼の願いは、十二年前に消えかけた四人を帰した。


 兄を探し続けた妹へ、十二年ぶりの声を返した。


 効率に逃げた少年へ、もう一度選ぶ機会を与えた。


 そして、敵だった男に、誰も失わせたくないという最初の願いを思い出させた。


 まだ、終わりではない。


 白瀬の罪は、裁かれていない。


 コトリは、少し薄くなったままだ。


 誠司の身体には、四分という限界が刻まれた。


 それでも。


 今夜も、赤いランプが点く。


 そして今夜も、彼は誰かを帰す。


【第2部「管理者覚醒編」完】

【第3部へ続く】


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ