第82話 秋の缶コーヒー
「パパ、今日ヒマ?」
味噌汁の湯気の向こうから、湊が尋ねた。
十一月中旬の日曜日。
窓から差し込む朝日は、夏よりもずっと低い位置から食卓を照らしていた。湯気の影が白い壁をゆっくり揺れ、開けたばかりの窓から冷たい空気が細く入り込んでいる。
誠司は焼き鮭を箸でほぐしながら、顔を上げた。
「ああ。今日は一日いるよ」
「じゃあ公園!」
「寒いよ」
陽菜が即座に口を挟む。
「もう秋なんだから。風邪ひいたら、また鼻水すごくなるよ」
「へーきだもん!」
「この前もそう言って、ティッシュ一箱使ったでしょ」
「あれは風邪じゃないもん。鼻がいっぱい出ただけ」
「それを風邪っていうの」
姉弟の言い争いを聞きながら、美咲が味噌汁をすすった。
「公園に行くなら、お昼を食べてからね」
「やった!」
湊が両手を上げる。その拍子に箸が転がり、食卓の右端へ向かった。
誠司の視線から、箸が消える。
一瞬遅れて首を動かすと、床へ落ちる寸前の箸を美咲が受け止めていた。
「危ないよ」
「ごめんなさい」
湊が肩をすくめる。
美咲は箸を洗い、新しい箸を渡した。誠司の方を見ることはなかった。
食卓の上では、湯呑みも、醤油差しも、漬物の小皿も、誠司の左側に置かれている。
少し前まで、醤油差しは中央にあった。
新聞は右側の椅子に置かれていた。
けれど今は、誠司が左手を伸ばせば、必要なものに迷わず届く。
誠司はその変化に気づかないまま、醤油差しを取った。
「パパ、箸、変じゃない?」
陽菜に言われ、手元を見る。
焼き鮭の身がうまくつかめず、箸先から二度滑り落ちていた。
「まだちょっと、距離がつかみにくいんだ」
「右の目?」
「ああ。でも、少しずつ慣れてるよ」
「ほんと?」
「ほんとだ」
笑ってみせると、陽菜は納得しきれない顔で誠司の右目を見つめた。
美咲がその視線を遮るように、陽菜の前へ卵焼きの皿を置く。
「冷める前に食べなさい」
「はーい」
陽菜は返事をしたものの、何度か誠司の顔を盗み見ていた。
◇
朝食のあと、美咲はリビングで洗濯物を畳み始めた。
湊は床いっぱいに積み木を広げ、何かの基地を造っている。誠司はソファに座り、久しぶりに何もすることのない日曜の午前を眺めていた。
地下施設へ行く必要はない。
会社からの連絡もない。
家族全員が、同じ部屋にいる。
それだけのことが、少し前までは贅沢だった。
机に向かっていた陽菜が、鉛筆を止めた。
消しゴムで何かを消し、また書く。しばらく考え、もう一度消す。
紙の端には、消し屑が雪のようにたまっていた。
「何を書いてるんだ?」
誠司が声をかけると、陽菜はびくりと肩を揺らした。
「見ないで」
両腕で紙を隠す。
「見てないよ。宿題か?」
「作文」
「どんな題?」
陽菜は少しためらい、紙を胸へ引き寄せた。
「『わたしの家族』」
「家族か」
誠司は思わず笑った。
「見せてもらっていいか?」
「まだダメ」
「少しくらい」
「ダメ。できてないから」
陽菜は紙を裏返し、机の引き出しへしまった。
その動きがあまりに素早く、誠司は苦笑する。
「そんなに隠さなくてもいいだろ」
「完成したら見せる」
「約束だぞ」
「約束するかは、まだ決めてない」
「そこも決まってないのか」
美咲が洗濯物を畳みながら、声を抑えて笑った。
「陽菜、最近ずっとその作文を書いてるのよ」
「そうなのか?」
「何日もかけてる。書いては消して、また書いて」
「だって、うまく書けないんだもん」
陽菜が唇を尖らせる。
「家族の作文って、そんなに難しいか?」
「難しいよ」
即答だった。
「パパのこと、どこまで書けばいいかわかんないし」
「俺のこと?」
「会社のこともあるし、夜の仕事のこともあるし」
陽菜はそこで言葉を切った。
家族は、誠司が国家級ダンジョンの管理者であることを知っている。けれど、その仕事のすべてを知っているわけではない。
誠司自身も、家で詳しく語ろうとはしなかった。
怖がらせたくない。
心配させたくない。
そう考えて話さなかったことが、陽菜の中では、まだ形の定まらない空白になっているのかもしれない。
「思ったことを書けばいいんじゃないか?」
「思ったことが、いっぱいあるから困ってるの」
「悪口は少なめにしてくれよ」
「悪口なんか書かないよ」
陽菜は呆れたように言ったあと、小さな声を付け足した。
「たぶん」
「たぶん?」
「完成するまで秘密」
陽菜は再び紙を取り出し、誠司に見えないよう身体を斜めにして鉛筆を走らせ始めた。
誠司はそれ以上聞かなかった。
紙の上で鉛筆が擦れる音を聞きながら、少しだけ胸が温かくなる。
以前、陽菜が描いた家族の絵では、誠司だけが端に小さく描かれていた。
仕事で帰りが遅く、食卓にいない日が多かった。
ため息をつき、家族に心配をかけていることにも気づかなかった。
今、陽菜は何日もかけて自分たちのことを書いている。
そこに自分がどんな大きさで書かれているのか、誠司にはまだわからなかった。
◇
午後になると、四人は近所の公園へ向かった。
美咲は買い物があると言い、途中の商店街で別れた。
「夕方になる前に帰ってきてね」
「わかってる」
「パパのわかってるは、あんまり信用できないから」
朝の陽菜と同じことを言われ、誠司は肩を落とした。
「家族からの信用が低すぎないか?」
「実績があるからね」
美咲は笑い、買い物袋を片手に歩いていった。
公園では、落葉した銀杏が地面を黄色く埋めていた。
風が吹くたびに乾いた葉が擦れ、足元を小さな波のように流れていく。遊具の金属は冷たく光り、夏には順番待ちができた水飲み場も、今は誰も使っていない。
「パパ! 見て!」
湊が落ち葉の山へ飛び込んだ。
色の褪せた青いスニーカーが葉を蹴り上げ、黄色と茶色が一斉に舞う。
「落ち葉のプール!」
「あんまり派手にやるなよ」
「パパも入ろう!」
「俺はいい」
「じゃあ埋めてあげる!」
「なんでそうなるんだ」
湊が両腕いっぱいに落ち葉を抱え、誠司へ走ってくる。
右側から近づく姿を見失いかけ、誠司は慌てて首を向けた。
落ち葉の塊が胸へぶつかる。
「うわっ」
「やった!」
「こら、湊!」
誠司が追いかけると、湊は笑い声を上げて逃げた。
二人で公園を半周したところで、誠司は息を切らしてベンチへ戻った。
「昔は、もう少し走れたんだけどな」
「パパ、走るの遅い」
陽菜が隣に座る。
「四十代に速さを求めるな」
「管理者なのに?」
「管理者は走る仕事じゃないんだよ」
「じゃあ、何する仕事?」
答えに困り、誠司は落ち葉の上を走り回る湊を見た。
「迷ってる人がいたら、出口を探す仕事かな」
「ふうん」
陽菜も湊へ視線を向けた。
しばらく、葉を踏む音だけが二人の間に届いた。
「パパ」
「ん?」
「目、痛くない?」
陽菜は前を向いたまま尋ねた。
「痛くはないよ。少し見えにくいだけだ」
「右側が?」
「ああ」
「どのくらい?」
「どのくらいって言われると難しいな」
誠司は右目を閉じ、開いた。
「右の端の方が、途中で切れてる感じだ」
陽菜が身体をずらした。
誠司の右側へ座る。
「ここは?」
誠司は首を動かさず、目だけを右へ向けた。
陽菜の輪郭が、視界の欠けた部分へ入り込む。
顔の半分が見えない。
首を右へ回すと、ようやく両目と鼻と、少し不安そうに結ばれた唇が見えた。
「見えるよ」
「首、動かした」
「動かせば、ちゃんと見える」
陽菜は黙った。
小さな手が、ベンチの上で誠司の袖に触れる。
「……わたしのこと、見える?」
誠司は陽菜へ身体ごと向き直った。
「見えるよ」
右目だけではない。
左目だけでもない。
逃げずに顔を向ければ、ちゃんと見える。
「陽菜のことは、ちゃんと見える」
陽菜は数秒、誠司の顔を確かめるように見つめた。
それから、少し安心したように肩の力を抜き、誠司の腕へ頭をもたれさせた。
「よかった」
風が吹き、二人の足元を落ち葉が流れていった。
その言葉が、数日後、誠司にどれほど重く返ってくるのか。
このときの二人は、まだ知らなかった。
夕方、三人が公園を出るころには、空の色が薄い灰色へ変わっていた。
湊の髪には細かな落ち葉が絡みつき、青いスニーカーは土と枯れ葉の汁で茶色く汚れている。
「ママに怒られるかな」
「靴を洗うのはパパだから、たぶん怒られるのは俺だ」
「じゃあ大丈夫だね」
「何が大丈夫なんだ」
湊は誠司の左手を握った。
右側ではなく、左側。
陽菜も何も言わず、誠司の右側から左側へ回った。湊とは反対の手を握ることはせず、半歩ほど後ろを歩く。
誠司が首を動かせば、すぐ見える位置だった。
それが偶然なのか、陽菜なりに考えたことなのか、誠司にはわからなかった。
帰宅すると、美咲が玄関で湊の靴を見て眉を上げた。
「ずいぶん遊んだね」
「落ち葉のプール!」
「そのまま入らないで。靴下も脱いで」
「はーい」
湊が廊下に座り込み、靴下を引っ張る。
美咲は誠司のコートに付いた落ち葉を一枚ずつ払いながら、陽菜を見た。
「楽しかった?」
「うん」
陽菜は短く答え、自分の部屋へ向かった。
途中で一度だけ振り返り、誠司の顔を確かめる。
目が合うと、すぐ前を向いた。
夕食後、陽菜は再び机に向かった。
リビングにはテレビの音が流れ、湊は風呂上がりの髪を乾かさないまま床に寝転んでいる。美咲はその頭へタオルをかぶせ、乱暴にならない程度に拭いた。
誠司はソファから陽菜の背中を眺めた。
紙へ鉛筆を走らせる。
止まる。
消す。
また書く。
何日も繰り返しているという作業を、陽菜は今夜も続けていた。
「まだ終わらないのか」
「話しかけないで。今、いいところだから」
「作文に、いいところとかあるのか?」
「あるよ」
陽菜は振り返らない。
「パパにはわかんないと思うけど」
「ひどいな」
「あとでわかるかもしれない」
その言葉の意味を尋ねる前に、陽菜は再び紙へ顔を近づけた。
誠司は時計を見た。
午後十時を少し過ぎている。
地下施設へ向かう時間だった。
「そろそろ行ってくる」
立ち上がると、美咲が湊の髪からタオルを外した。
「今日は休みじゃなかったの?」
「昼の仕事はな」
「深夜バイトは休みにならないんだ」
「一応、交代で見ることにはなってる。でも、今日は俺の担当だから」
以前なら、それ以上の説明をせずに玄関へ向かっていた。
今は少し立ち止まり、美咲の顔を見る。
「四分以上は、使わないよ」
美咲の手が止まった。
「聞いてないけど」
「ああ」
「でも、聞けてよかった」
美咲は湊の湿った髪を指で整える。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
玄関を出る直前、陽菜がリビングから顔を出した。
「パパ」
「ん?」
「帰ってきたら、ちゃんと寝てね」
「ああ」
「ほんとに?」
「ほんとだ」
陽菜は疑うように目を細めたあと、小さく手を振った。
◇
地下施設の入口には、柴田源蔵がいた。
古びた椅子へ腰かけ、両手をコートのポケットへ入れている。足元には小さな電気ストーブが置かれていたが、赤く光る発熱部から少し離れるだけで、地下の冷気が靴底を通して伝わってきた。
「よう」
「こんばんは、柴田さん」
「日曜なのに、ご苦労さん」
「柴田さんもでしょう」
「俺はここにいるのが仕事だからな」
柴田は足元の紙袋へ手を伸ばした。
取り出した缶を、誠司へ放る。
誠司は右側から飛んできた缶に反応できなかった。
「あ」
缶が胸元をかすめる。
落ちる寸前で、左手がどうにかつかんだ。
柴田の顔から笑みが消えた。
「悪い」
「大丈夫です」
「右から投げちまった」
「まだ慣れてないだけですから」
誠司が缶を持ち直した瞬間、手のひらに熱が広がった。
「……あ」
温かい。
缶の表面から伝わる熱が、冷えた指をゆっくり解いていく。
半年ほど前、初めて柴田から受け取った缶コーヒーは冷たかった。
あのときの誠司は、飲み物の味を確かめる余裕もなく、ただ喉へ流し込んだ。
今、手の中にある缶は、地下の冷気へ小さな湯気を吐いている。
「温かいのにしといた」
柴田は前を向いたまま言った。
「もう、冷たいのは寒いだろ」
「……ありがとうございます」
誠司は缶を両手で包んだ。
プルタブを起こすと、甘い香りがかすかに立つ。
一口飲む。
舌を焼くほどではない。けれど、喉を落ちていく熱が胸の奥まで残った。
「佐藤さん」
「はい」
「あんた、変わったな」
誠司は缶から口を離した。
「そうですか?」
「ああ」
柴田がストーブへ靴先を向ける。
「前は、何でも一人でやろうとしてた」
「今も、そんなに変わってませんよ」
「変わったさ。昨日、天城の若いのが来ただろ」
「蓮ですか」
「あいつ、上の区画は自分が見るって言ってた」
「ええ」
「任せたんだろ」
誠司は答えに詰まった。
柴田は管理室へ入らない。
端末の細かな運用も知らないはずだ。それでも、誠司の変化を見抜いている。
「任せないと、もう全部は見られませんから」
「それだけか?」
「……」
「身体が元に戻ったら、また一人で全部やるか?」
缶の熱が、指先に集まっていた。
誠司は昨日の端末を思い出す。
六本の監視線。
重なった声。
百パーセントまで埋まった管理領域。
「やらないと思います」
「思います、か」
「たぶん、やりません」
「そりゃ成長だな」
「年を取っただけじゃないですか」
「ばか」
柴田が鼻で笑った。
「年を取っただけの人間は、もっと頑固になる」
「耳が痛いですね」
「痛いなら、まだ効くってことだ」
柴田はストーブの向こうを見つめた。
「俺は十二年、一人で待ってた」
地下施設の入口に、機械の振動が低く響く。
「毎日ここに座って、誰かが来るのを待った。来ないかもしれないと思いながらな」
誠司は黙って聞いた。
「十二年も待ってると、一人でいるのが当たり前になる」
柴田の声には、悲しみよりも乾いた疲労が混じっていた。
「誰かが来ても、どう頼ればいいかわからなくなる。何を話せばいいかもな」
「柴田さん」
「あんたは半年で仲間を作った」
柴田が誠司を見る。
「あんたの方が、賢いよ」
「俺が作ったわけじゃありません」
「じゃあ、誰が作った?」
「みんなが残ってくれたんです」
「残ってくれる場所を作ったのは、あんただろ」
誠司は缶を見下ろした。
褒められているとは思えなかった。
柴田は、ただ見たものを口にしている。
だからこそ、その言葉は誠司の胸へ静かに沈んだ。
「俺も」
誠司は言った。
「柴田さんがいてくれたから、続けられました」
「そういうのはいい」
「本当です」
「缶コーヒー一本で恩を売ったみたいになるだろ」
「半年で何本ももらってます」
「じゃあ、そろそろ金を取るか」
「給料から引かないでくださいよ」
柴田が笑った。
入口へ冷たい風が流れ込み、ストーブの熱を揺らす。
それでも誠司の手の中には、缶の温かさが残っていた。
◇
作業室へ入ると、今夜は赤い警告表示が少なかった。
蓮が上層を監視し、大輝と鷹也がそれぞれの担当区画を巡回している。恭一は誠司の負荷を常時記録し、深層対話の残り時間を秒単位で表示していた。
千紗だけが、作業開始から妙に静かだった。
「千紗」
『なに、管理者さん』
「前に頼まれていた猫のこと、調べたよ」
数秒、返事がなかった。
『……ほんと?』
「ああ」
誠司は端末の脇に置いた一枚の資料を見る。
十年以上前の記録を、人づてにたどったものだった。
「残念だけど、その猫は十年前に死んでる」
通信の向こうで、息を吸う音がした。
『そっか』
千紗の声は思ったより明るかった。
『まあ、そうだよね。猫の寿命なんて、そのくらいだもん』
「ああ」
『十二年だもんね』
「うん」
『あたしが帰るまで待てるわけ、ないよね』
無理に笑おうとする声が、途中で少しだけ掠れた。
誠司は資料の続きを見る。
「でも」
『え?』
「その猫、最後まで千紗の実家で飼われてた」
『……実家で?』
「お母さんが世話をしてたそうだ」
千紗の通信灯が揺れる。
「もともとは千紗が拾ってきた猫だったんだろ」
『うん。雨の日に、段ボールに入ってて』
「お母さんは、猫が苦手だったそうだな」
『すごく苦手だった。触るのも嫌がってた』
「それでも、最後まで飼った」
『なんで……』
誠司は資料に記された言葉を、そのまま伝えた。
「千紗が帰ってきたとき、猫がいないと寂しがるからって」
作業室から音が消えた。
冷却装置の振動だけが、床から足へ伝わる。
『……お母さん』
千紗がつぶやく。
「猫が死んだあとも、首輪を取ってあるそうだ」
『まだ?』
「ああ」
返事はなかった。
誠司は急かさず待った。
泣いているのかもしれない。
けれど、泣き声は聞こえなかった。
やがて千紗が、小さく笑った。
『ばかだなあ、お母さん』
その声は、最後の一文字だけ震えた。
『あたし、帰らなかったのに』
「帰らなかったんじゃない」
誠司は言った。
「帰れなかったんだ」
千紗は何も答えない。
「お母さんは、まだ生きてる」
『……うん』
「いつか、方法を探そう」
保全人格となった千紗が、母親に会えるのか。
声を届けられるのか。
その方法は、まだ誰にもわからない。
誠司は、できるとは言わなかった。
約束もしなかった。
ただ、探すとだけ言った。
『管理者さん』
「はい」
『……ありがと』
通信灯が、淡く点った。
手元の缶コーヒーは、もう冷め始めていた。
それでも誠司が両手で包むと、中心にはまだ、わずかな温度が残っていた。




