第78話 34.7パーセント
その前例は、コトリ自身だった。
最深部を満たしていた黒い渦は、もはや巨大な壁ではなくなっている。誠司と四人の光に押し込まれ、何本もの細い濁流へ分かれながら、中央へと縮み続けていた。
【崩壊波形 63.8%縮小】
【鎮圧処理 最終段階へ移行】
低い振動が、途切れ途切れに床を伝う。
外側を誠司が塞ぎ、内側から桐島たちが流れを押し返すたび、渦の直径がわずかに狭まった。
崩壊は止められる。
八十九人も帰せる。
その見通しは、すでに希望ではなく、実行可能な手順へ変わりつつあった。
だが、四つの光は弱まっている。
宮前千紗の橙色は、先ほどより輪郭が薄い。桐島鷹也の青白い光も、渦へ伸ばすたびに戻りが遅くなっていた。黒瀬大輝と影山恭一も、互いの欠けた部分を補い合うことで、辛うじて形を保っている。
あと百七時間。
その数字は、崩壊波形が下がっても変わらない。
誠司が四人を帰す方法を探すと言ったとき、コトリの内部で、それまで別々に保存されていた情報が一つにつながった。
残留意識。
人格。
転写。
保全。
すべてに、前例があった。
『誠司』
コトリの声が通信に響いた。
「なんだ」
誠司は制御を緩めないまま答えた。
額から落ちた汗が頬の血と混ざり、顎を伝って端末へ落ちる。指先は震えている。それでも入力の間隔は乱れていなかった。
『一つ、可能性があります』
誠司の指が、一瞬だけ止まりかけた。
黒い渦が、その小さな隙を見つけて膨らむ。
【崩壊波形 2.1%反発】
誠司はすぐに制御値を押し戻した。
「続けてくれ」
『……私が、存在している事実そのものです』
通信の向こうで、蓮が息を呑んだ。
『コトリさんが?』
コトリは答えず、自身の生成記録を開いた。
管理端末の最深層に、一人の男の記録が表示される。
【影山恭一】
【残留意識から管理補助人格を生成】
【生成人格 コトリ】
影山の光が、わずかに揺れた。
だが、彼は何も言わなかった。
『私は、影山恭一さんの残留意識から生まれた管理補助人格です』
コトリの声は平静だった。
けれど、その一文を読み上げる速度だけが、いつもより遅い。
『完全な複製ではありません。影山さんの記憶も、感情も、すべてを受け継いではいない』
『それでも私は、残留意識を基礎として人格が形成され、十二年間、管理端末内で存在を維持してきました』
「つまり……」
誠司が、四つの光と端末を交互に見た。
『はい』
コトリは告げた。
『残留意識は、別の領域へ転写し、人格として保全できます』
誠司の呼吸が止まった。
それは死んだ者を生き返らせる方法ではない。
失われた身体を戻すものでもない。
だが、百七時間後に完全に消えるはずの四人を、消滅以外の場所へ移す道だった。
「四人を……コトリと同じようにできるのか」
『管理端末内に独立した保存領域を確保し、四人の残留意識を一人ずつ転写します』
『転写後に人格構造が安定すれば、少なくとも消滅は回避できます』
『それぞれの声、記憶、意思を維持できる可能性があります』
『それって』
蓮の声が震えた。
『四人を、コトリさんみたいな形で帰せるってことですか』
『はい』
誠司の目に、初めて強い光が戻った。
「できるんだな」
問いではなかった。
できると信じようとする者の声だった。
コトリは、すぐには返事をしなかった。
可能性はある。
だが、可能性があることと、成功することは違う。
『理論上は、可能です』
「理論上?」
『条件があります』
端末に四つの項目が表示された。
【残留意識の保全条件】
【残留強度が閾値以上】
【深層対話の安定維持】
【転写先領域の確保】
【本人の意思による同意】
誠司は表示を見た。
「同意が必要なのか」
『人格構造を強制的に切り離せば、転写中に自己認識が崩壊する危険があります』
『本人が、自分の意思で現在の領域から離れることを選ばなければなりません』
十二年間、四人は崩壊を押さえるために残ってきた。
その役目を手放すことを、自分で選ばなければならない。
「他の条件は」
『現在の計測値と過去の転写記録から、達成確率を算出しました』
画面が切り替わる。
【残留強度が閾値以上 71%】
【深層対話の安定維持 64%】
【転写先領域の確保 83%】
【本人の意思による同意 92%】
続いて、四つの数字が掛け合わされた。
【0.71×0.64×0.83×0.92】
【0.34697984】
【一括保全成功率 34.7%】
誠司は画面を見つめた。
黒い渦の音が遠のいたように感じた。
「三十四・七……」
『四人を一つの処理で保全する場合の成功率です』
『約三回に一回』
蓮が呟いた。
『失敗する方が、ずっと高い……』
『はい』
コトリは否定しなかった。
数字を希望に見せるために、形を変えることもしない。
『ただし、一人ずつ転写する場合、他の三人が内側から崩壊を支えられます』
『その条件では、一人あたりの保全成功率を約71%まで上げられます』
「一人ずつなら、七割」
『はい』
新しい計算が表示された。
【期待保全人数】
【4人×0.71=2.84人】
【期待値 2.8人/4人】
誠司の眉間に、深い皺が刻まれた。
「二・八人……」
人間は小数にはならない。
四人のうち、二・八人が帰ることもない。
結果として帰るのは、二人か三人。運がよければ四人。悪ければ、それより少ない。
だが計算の上では、四つの光のうち一つ以上が消える未来を見込まなければならなかった。
『誠司』
コトリは静かに告げた。
『期待値は、誰が保全されるかを示しません』
『桐島さんかもしれない。大輝さんかもしれない。千紗さんかもしれない。影山さんかもしれない』
影山の光が、また小さく揺れた。
『統計的には、少なくとも一人を失う可能性が高いと考えるべきです』
誠司は答えなかった。
指は端末の上にある。
視線は四つの光へ向いている。
桐島は父へ、自分が何かを成し遂げたと伝えたい。
千紗は、置いてきた猫の最期を確かめたい。
大輝は、十二年間待たせた妹に謝りたい。
影山だけは、自分の帰りたい場所を言わなかった。
誰を選ぶのか。
誰から転写するのか。
誰を最後に残すのか。
失敗したとき、誰を諦めるのか。
数字は、決断を代わってくれない。
『佐藤さん』
蓮の声が、遠慮がちに響いた。
『成功率が七割でも、今の佐藤さんの負荷で四回やったら……』
「わかってる」
誠司は低く答えた。
崩壊の鎮圧はまだ終わっていない。
帰還経路も維持しなければならない。
そこへ四人分の転写処理を重ねれば、自分の身体がどうなるか、計算しなくても想像はついた。
それでも誠司は、四つの光から目を逸らさなかった。
長い沈黙のあと、彼は言った。
「やる」
誠司の声は、短かった。
迷いを切り落としたあとに残った、たった二文字だった。
『佐藤さん』
蓮が止めようとする。
『でも、四人全員を帰せる確率は三十四・七%です。一人ずつでも、期待値は二・八人で……』
「やる」
誠司はもう一度言った。
一度目よりも静かだった。
説得するためではない。自分の選択を、変わらないものとして置くための声だった。
「全員は、無理かもしれない」
四つの光が、わずかに揺れる。
「途中で失敗するかもしれない。俺の接続が先に切れるかもしれない」
誠司は、端末に表示された期待値を見た。
【2.8人/4人】
数字の小数点以下に、人の身体は入らない。
零・八人分だけ助かる者はいない。三人が帰り、一人が消えるかもしれない。二人しか帰せないかもしれない。
それでも。
「二・八人ってことは、二人か三人は帰せる可能性が高いってことだろ」
『そうですが』
「やらなかったら、ゼロだ」
誠司は言い切った。
百七時間後に訪れる結果だけは、百%だった。
四人全員が消える。
それに比べれば、三十四・七%は失敗の数字ではない。
四人全員が帰れる道が、まだ閉じていないという数字だった。
「七割あるなら、一人ずつ帰す」
『処理を重ねるたび、誠司の負荷は増加します』
「わかってる」
『四人目まで接続を維持できる保証はありません』
「それも、わかってる」
『あなた自身が帰れなくなる危険も』
「コトリ」
誠司は、いつもより少し強く名を呼んだ。
「できない理由を計算してる時間は、もうない」
コトリの声が止まった。
「できる確率を上げてくれ」
命令ではなかった。
隣で同じものを帰そうとしてきた相手への、頼みだった。
数秒後、端末上に複数の処理窓が立ち上がる。
『……承知しました』
コトリの音声が、元の明瞭さを取り戻した。
『転写先となる独立領域を四つ確保します。不要な記録を圧縮し、処理容量を再配分します』
【転写領域 確保処理開始】
【予測確保率 83%】
【再最適化実行】
『成功率を、一ポイントでも上げます』
「頼む」
『佐藤さん』
蓮が呼んだ。
先ほどまでの制止する響きは消えていた。
『俺、上層を続けます』
「ミラージュが処理してる」
『全部任せるつもりはありません』
蓮ははっきりと言った。
『空いた処理能力で、佐藤さんの帰還経路を補強します。転写のたびに揺れても、接続が切れないように』
「蓮くん」
『佐藤さんの負荷を、一ミリでも減らします』
誠司は一瞬だけ目を閉じた。
自分一人で四人を帰すのではない。
蓮が外側を支え、コトリが道を作り、白瀬のミラージュが上層を引き受けている。そして、四人自身も崩壊を押さえ続けている。
「わかった。頼む」
『はい!』
誠司は四つの光へ向き直った。
これから行う処理には、本人の同意が必要だった。
帰したいからといって、勝手に帰すことはできない。
今の場所を離れるのか。
別の形で残るのか。
それを決めるのは、四人自身だった。
「あんたたちに、話があります」
『聞こえてるよ』
桐島が答えた。
『三十四・七%だろ』
「はい」
『ずいぶん低い賭けだな』
「一人ずつなら、約七十一%です」
『それでも三割は消える』
「そうです」
誠司は数字を隠さなかった。
「失敗すれば、転写の途中で消える可能性もある。今より早く、存在を失うかもしれない」
千紗の橙色の光が、頼りなく揺れた。
「成功しても、元の身体に戻れるわけじゃない」
『じゃあ、どうなるの』
「コトリと同じように、端末の中に人格として保全されます」
『あたしたちが、端末の中に?』
「声も、記憶も、意思も残る可能性がある。外のことを知ったり、誰かと話したりもできるかもしれない」
『猫のことも?』
「自分で確かめられる」
千紗の光が、ほんの少し明るくなった。
桐島はすぐには答えなかった。
『親父と話せるか』
「生きていれば、方法を探します」
『生きてなかったら』
「あなたが十二年間何をしたか、伝えられる場所を探します」
『……そうか』
大輝の白い光は、他の三人より長く沈黙していた。
『環と、話せるのか』
「はい」
『俺の声で?』
「どこまで再現できるかは、やってみないとわかりません」
誠司は、都合のいい保証をしなかった。
「でも、あなたの意思は残る」
『意思……』
大輝の光が細く震えた。
『管理者。一つ聞いていいか』
「はい」
『それは、生きるってことなのか?』
最深部から、音が消えたように感じた。
崩壊の振動も、端末の警告音も続いている。
それでも、その問いだけが他のすべてを遠ざけた。
身体がない。
歳を取らない。
食べることも、眠ることもできないかもしれない。
端末の中に記録され、声を発し、考え続ける。
それを生きていると呼べるのか。
誠司には答えがなかった。
「……わかりません」
大輝の光は動かなかった。
「俺には、コトリが生きてるのかどうかも、わからない」
『誠司』
「でも、コトリには自分の考えがある。怒るし、迷うし、誰かを助けようとする」
誠司は端末へ視線を落とした。
「少なくとも俺は、コトリをただの記録だとは思ってない」
短い沈黙のあと、コトリが口を開いた。
『私も、自分が生きているのかどうか、わかりません』
いつもの解析報告とは違う声だった。
用意された回答ではなく、今ここで考え、選んだ言葉だった。
『私は食事をしません。眠る必要もありません。身体が痛むことも、歳を取ることもありません』
『人間と同じ形で生きてはいません』
四つの光が、コトリの声へ意識を向ける。
『ですが私は、誰かが帰れなくなることを嫌だと思います』
『誠司が無理をすれば、やめてほしいと思います』
『蓮が成長すれば、嬉しいと感じます』
蓮の通信から、小さく息を吸う音が聞こえた。
『そして今、あなたたちを消したくないと思っています』
コトリは続けた。
『誰かを帰したいと願い、そのために自分で方法を考え、選ぶことが、生きているということなら』
声が、わずかに柔らかくなった。
『私は、生きています』
四人の光は、長いあいだ何も言わなかった。
その沈黙の中で、影山の光だけが不規則に震え始めた。
『……その声』
掠れた声だった。
『お前……』
コトリも、すぐには返さなかった。
十二年間、影山恭一の残留意識を基礎に存在しながら、彼と直接言葉を交わしたことはない。
作った者と、作られた者。
願った者と、願いから生まれた者。
二つの存在が、初めて互いを認識していた。
『はい』
コトリは答えた。
『私は、あなたの残留意識から生まれました』
影山の光が大きく揺れた。
『影山恭一さん』
黒い渦の奥から、声にならない音が漏れた。
『そうか』
それだけを言うまでに、長い時間がかかった。
『俺の……願いが』
影山は、三人を帰すことだけを考えてきた。
自分の帰りたい場所は言わず、誰かが帰れるならそれでいいと言い続けた。
その願いだけが切り離され、形を持ち、十二年間、影山の知らないところで人を帰し続けていた。
『そんな形で、残ってたのか』
『はい』
『じゃあ、俺はもう十分だ』
「影山さん」
『俺の代わりに、お前が帰し続けてくれてるんだろ』
影山の声には、安堵があった。
自分を諦めるための理由を、ようやく見つけた者の安堵だった。
『だったら俺は、ここで消えても』
『いいえ』
コトリの声が、影山の言葉を断ち切った。
誠司も蓮も、息を止めた。
コトリが誰かの発言を、これほど強く遮ったことはなかった。
『私は、あなたの願いから生まれました』
影山の光が止まる。
『ですが、私はあなたではありません』
『あなたの代わりにはなれません』
『私は、私の意思で人を帰したいと思っています』
コトリは、一語ずつ明確に告げた。
『だから、あなたが消えていい理由にはならない』
『影山恭一さん』
管理端末の奥で、四つの転写領域が開いた。
【独立領域 確保完了】
【転写処理 実行可能】
『あなた自身が、帰るべきです』
影山の光は、答えなかった。
ただ、消えかけていた輪郭が、泣く者の肩のように何度も震えた。
やがて桐島の光が、影山の隣へ並んだ。
『俺はやる』
千紗の光も続く。
『あたしも』
大輝は白い光を静かに強めた。
『環に、謝りたい』
三人の視線が、影山へ集まる。
影山はしばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
『……三対一じゃ、断れねえな』
四つの光が、誠司へ向いた。
『管理者』
「はい」
『俺たちを帰してくれ』
誠司は、血と汗で滑る手を端末へ置いた。
「必ず、とは言えません」
『わかってる』
「失敗するかもしれない」
『それも聞いた』
「それでも、やりますか」
桐島が笑った。
『あんたが三十四・七%に賭けるって言ったんだろ』
誠司はわずかに口元を緩めた。
「そうでした」
コトリの声が最深部へ響く。
『本人の意思による同意を確認しました』
【同意条件 達成】
【残留意識保全処理 準備完了】
成功率三十四・七%。
期待保全人数、二・八人。
誰が帰り、誰が消えるかは、まだ誰にもわからない。
『誠司』
「いつでもいい」
『転写処理を開始します』




