表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第2部:管理者覚醒編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
77/82

第77話 あと107時間



 四つの反応のうち、一つが、また消えた。


 ほんの一瞬だった。


 最深部を満たす黒い渦の中で、橙色の光が息を止めるように暗くなり、遅れて弱々しく戻る。十二年間、崩壊の内側を押さえ続けてきた四人。そのうち、宮前千紗の反応だった。


 佐藤誠司は端末へ伸ばしていた指を止めた。


「今のは……」


『佐藤さん!』


 天城蓮の声が通信へ割り込んだ。息を切らしているのに、声だけは隠しきれないほど弾んでいた。


『上層の異常処理、ミラージュが全部持っていきました! 俺の担当領域、ほぼ空です!』


「ミラージュが?」


 誠司は黒い渦から目を離さずに聞き返した。


 つい数分前まで、上層からは大小の異常信号が絶え間なく落ちてきていた。蓮が食い止めきれなかった分だけが最深部へ流れ込み、誠司の接続を削っていた。


 それが今はない。


 頭の内側を何本もの針で引っかかれていたような雑音が、急に遠ざかっている。視界の縁にまとわりついていた白いちらつきも、わずかに薄れた。


 端末には新しい表示が開いていた。


【上層異常 外部支援により処理中】

【天城蓮 担当負荷 91%減少】

【最深部への流入負荷 最小化】


「なんで、ミラージュが俺たちを……」


『原因は確認できていません』


 コトリの声が答えた。


『ただし、誤作動ではありません。処理の選別、資源配分、最深部経路への非干渉。すべて明確な支援動作です』


 誠司には、その理由を考えている余裕がなかった。


 助けられている。


 今は、それだけで十分だった。


「……そうか」


 誠司は短く息を吐き、両手を端末へ戻した。


「蓮くん。空いた分で帰還経路を維持してくれ。こっちは崩壊の中心を閉じる」


『はい! 佐藤さんのところには、一つも落としません!』


「頼む」


 誠司が制御値を引き上げると、黒い渦の回転が目に見えて鈍った。


 渦の外側を誠司が押さえる。


 内側から、四つの光が押し返す。


 桐島鷹也の光は、進む方向を示すように鋭く伸びた。黒瀬大輝の光は、崩れかけた部分へ先回りして回り込む。影山恭一の光は三人をつなぎ、宮前千紗の光は何度押し戻されても同じ場所へ食らいついた。


 別々だった五つの動きが、少しずつ一つの拍子にそろっていく。


【崩壊波形 18.7%縮小】

【25.1%】

【31.8%】


 渦の中心から響いていた低い唸りが弱まった。


 床を伝っていた震動も、長い間隔を空けるようになる。冷え切った空気の中で、誠司の額から落ちた汗だけが熱かった。


「いける」


 誰に言うでもなく、誠司は呟いた。


「このままなら、止められる」


『ああ』


 桐島の声が、渦の中から返った。


『外は任せた。内側は俺たちが持たせる』


「無理はするな」


『今さら言うなよ、管理者』


 かすかな笑いが混じった。


 その直後だった。


 宮前千紗の光が、もう一度明滅した。


 一度目より長い。


 橙色の輪郭が崩れ、黒い渦へ溶けかける。すぐ隣から影山の光が伸び、千紗を囲むように支えた。光は戻ったが、最初より明らかに小さくなっていた。


『……っ』


 短い声が漏れた。


「宮前さん!」


『平気、平気。ちょっと、力抜けただけ』


 声は明るく作られていた。


 だが最後の一音が、細いノイズに削られて消えた。


「コトリ、今のを調べてくれ」


『解析しています』


 返答と同時に、誠司の端末へ無数の波形が展開された。四人それぞれの光が時系列に並び、十二年前から現在までの推定変化が補完されていく。


 右肩下がりの線だった。


 揺れながら、途切れながら、それでも一度も上向くことなく落ち続けている。


 誠司は操作を続けながら、その線を横目で見た。


「崩壊に押されてるのか」


『違います』


 コトリの返事が、わずかに遅れた。


 いつもなら分析結果だけを告げる声に、言葉を選ぶ間があった。


『誠司。重大な報告があります』


 端末中央に、新しい解析結果が表示された。


【残留意識の減衰解析】


【減衰モデル】

 I(t)=I₀×exp(−0.0198t)


【現在の残留強度】

 8.4%


【消滅判定閾値】

 1.0%


 誠司の目が、最後の二つの数字を往復した。


「八・四……」


『現在の強度を8.4、消滅判定閾値を1.0として、減衰係数0.0198を適用します』


 数式の下に、残された時間が算出された。


【t=ln(8.4÷1.0)÷0.0198】

【t=107.5時間】


『完全消滅まで、残り107.5時間。日数に換算して、約4.5日です』


 誠司の指が、一つのキーの上で固まった。


 百七時間。


 数字だけなら長く見えた。


 だが十二年と並べた瞬間、あまりにも短かった。


「完全消滅って……何が消える」


『四人の残留意識です』


「接続が切れるってことか」


『いいえ』


 コトリは否定した。


『記録が読めなくなるのでも、会話ができなくなるのでもありません』


 端末に、もう一つの数値が加わった。


【半減期 35.0時間】


『半減期は35時間です。35時間後には、四人の残留強度は現在の半分になります。その後も同じ割合で減衰を続け、107.5時間後に、存在を維持できる閾値を下回ります』


「存在を維持できない……」


『はい』


 コトリの声は静かだった。


『四人は、完全に失われます』


 誠司は黒い渦の中を見た。


 桐島。


 大輝。


 影山。


 千紗。


 そこには確かに四つの光がある。声があり、考えがあり、互いを支える動きがある。


 それが四日と少しで、何も残らなくなる。


「待ってくれ」


 誠司は乾いた唇を舐めた。


「崩壊を止めればいいんだろ。こいつを止めれば、四人が力を使う必要はなくなる」


『崩壊を抑える負荷が、消耗を早めていたことは事実です』


「だったら」


『ですが、減衰そのものは止まりません』


 コトリの言葉が、逃げ道を塞いだ。


『崩壊を鎮圧すれば、消耗速度は緩やかになります。しかし、十二年間に蓄積した摩耗は回復しません。現在の残留強度からの消滅は、避けられません』


 誠司の手から、力が抜けかけた。


 その瞬間、崩壊波形が跳ね上がる。


【崩壊波形 34.2%】

【制御低下】


『佐藤さん!』


 蓮の声で、誠司は我に返った。


 奥歯を噛み、再び制御値を押し戻す。


「……悪い。大丈夫だ」


 大丈夫ではなかった。


 崩壊を止めれば終わると思っていた。


 八十九人を帰し、四人を十二年の苦役から解放できると思っていた。


 だが四人にとって、崩壊の終わりは自由ではない。


 消滅までの静かな待ち時間に変わるだけだった。


 誠司は四つの光を見上げた。


「あんたたち」


 返事はない。


「知ってたのか」


 渦の音が、低く残った。


「崩壊を止めても、自分たちは消えるって。最初から知ってたのか」


 四つの光は動かなかった。


 その沈黙が、答えだった。


「答えてくれ」


 誠司の声が、最深部の壁にぶつかって返る。


「知ってたのか!」


 やがて、先頭に立つ青白い光がわずかに揺れた。


 桐島鷹也の声は、驚くほどあっさりしていた。


『ああ。知ってた』


 桐島の光は、崩壊の流れを押し返しながら、わずかに傾いた。


 まるで、そんなことを今さら聞くのかと肩をすくめたようだった。


「知ってて、黙ってたのか」


『言って、どうなる』


「どうなるって……」


『あんたは崩壊を止めるのをやめたか?』


 誠司は答えられなかった。


 やめるはずがない。


 八十九人が取り残されている。四人が消えると知っていたとしても、崩壊を放置する選択はなかった。


 桐島も、それを知っている。


『俺たちは、もう十二年前に終わってる』


「終わってない」


『身体はない。外の時間にも戻れない。残ったものを繋いで、崩壊を押さえてきただけだ』


「それでも、今ここにいるだろ」


『いるように見えるだけかもしれない』


「俺と話してる」


『話せることと、生きてることが同じかは、俺にはわからねえよ』


 桐島の言葉は突き放すようでいて、声は静かだった。


 諦めた者の声ではない。


 諦めなければ十二年間を耐えられなかった者の声だった。


『今さら、生きたいとは言わねえ』


「なんでだ」


『言ったところで、誰かが困るだけだからだ』


 誠司の指が、操作盤の上で止まりかけた。


 すぐに力を込め直す。


 崩壊は待たない。悲しむ時間も、怒鳴る時間も与えない。感情が乱れるたび、黒い渦は隙間を見つけて広がろうとする。


 隣で、白い光がゆっくり前へ出た。


 黒瀬大輝だった。


『管理者』


「……はい」


『俺たちの目的は、最初から一つだ』


 大輝の光が、渦の亀裂へ細く伸びていく。


『崩壊を止めること。これ以上、誰も帰れなくならないようにすること』


『それができるなら、俺たちはそれでいい』


「よくない」


『管理者』


「よくないだろ、そんなの!」


 誠司の声が、最深部に叩きつけられた。


 黒い渦が震え、その声を飲み込もうとする。


「十二年だぞ!」


 喉が裂けるように痛んだ。


「あんたたちは十二年もここにいて、誰にも知られずに崩壊を押さえて、助けも来なくて、それでも今まで残ってた!」


 視界の奥が熱くなった。


 目尻から流れたものが、頬の傷に触れる。塩辛い痛みのあと、唇へ鉄の味が落ちてきた。


 涙に血が混じっていた。


「それで最後は、誰にも会えずに消えるのか」


 返事はない。


「そんなの、帰ったことにならない」


 誠司は四つの光を見た。


 四人の顔は見えない。


 それでも、それぞれが黙った理由だけは伝わった。


 桐島は自分たちの役目を終わらせようとしている。


 大輝は妹へ残す痛みを減らそうとしている。


 千紗は弱ったことを隠している。


 影山は、三人の後ろへ下がっている。


「あんたたちも、帰りたい場所があるはずだ」


 影山の光が、小さく揺れた。


「ないなんて言わせない」


『……相変わらずだな、あんた』


 影山の声には、困ったような笑いが混じっていた。


『俺たちみたいなのにまで、そんなこと言うのか』


「当たり前だろ」


『あんた、自分がどうなってるかわかってるか』


「今は関係ない」


『関係ある。家族が待ってるんだろ』


「待ってるから、帰すんだ」


 誠司は即座に言った。


「帰る場所がある人間が、帰れない奴を見捨てていい理由にはならない」


 影山の光から、笑いが消えた。


 長い沈黙が落ちる。


 崩壊の唸りと、誠司の荒い呼吸だけが最深部に残った。


 やがて影山が、観念したように答えた。


『……あるよ』


 光が細くなった。


『帰りたい場所くらい、あるさ』


 その言葉をきっかけに、橙色の光が前へ出た。


 宮前千紗だった。


『あたし、猫飼ってたんだ』


 唐突な言葉だった。


 誠司は一瞬、聞き返すことができなかった。


『茶色と白の、でっかい雄猫。名前はマル』


「……マル」


『丸くなって寝るから。安直でしょ』


 千紗は笑った。


 だが笑い声の終わりが、またノイズに削られた。


『十二年前、朝早く出たんだ。すぐ帰るつもりだったから、餌だけ多めに置いて』


 橙色の光が、ゆっくり明滅する。


『帰れなかった』


 誠司は何も言えなかった。


『最初の何日か、あの子が腹空かせてることばっかり考えてた。次は、水がなくなってないか。それから、誰かが見つけてくれたかなって』


「家族は」


『いなかった。一人暮らしだったから』


 千紗の声が少しだけ幼くなった。


『もう生きてないよね。十二年だもん。猫の寿命なんて』


 自分で言って、自分で納得しようとしている。


 そのことが、余計に痛かった。


『でも、一回でいいから帰って、確かめたかった』


 橙色の光が下を向くように沈んだ。


『ちゃんと誰かに拾われたのか。それとも、最後まで待たせたのか』


「調べます」


 誠司は言った。


『え』


「マルがどうなったか、俺が調べる」


『管理者さん、今はそんな』


「今じゃない。崩壊を止めて、俺が帰ってからだ」


 誠司は歯を食いしばり、崩壊波形をさらに押し下げた。


【崩壊波形 42.6%縮小】

【鎮圧処理 継続可能】


「だから消えるなんて言うな。自分で確かめろ」


 千紗の光が震えた。


 返事の代わりに、短い呼吸の音が聞こえた。


 次に、桐島の青白い光が少し前へ出る。


『俺は親父だ』


「お父さん?」


『喧嘩したまま出てきた』


 桐島の声から、先ほどまでの強さが少し抜けた。


『俺がこの仕事を始めるって言ったら、「お前なんかに何ができる」って言われた』


「それで」


『見てろよって言って、家を出た』


 桐島の光が黒い渦を押し返す。


『何かしてから帰るつもりだった。誰かを助けたとか、危ない場所を止めたとか、そういう話を持って帰って』


 小さく笑った。


『見せてやりたかったな。ちゃんと、何かできたって』


「できます」


『何をだよ』


「見せられます。十二年間、ここを守った記録を」


『記録なんか残ってねえだろ』


「俺が見た」


 誠司は言い切った。


「蓮くんも、コトリも見てる。俺たちが証明する」


『……そうかよ』


 桐島の声が掠れた。


『じゃあ、親父がまだ生きてたら、伝えてくれ』


「自分で伝えてください」


『管理者、俺たちは』


「自分でだ」


 桐島はしばらく黙り、やがて笑った。


『本当に、諦めが悪いな』


「よく言われます」


 三つ目の光、大輝が静かに揺れた。


 誠司は、彼だけには聞くべきことがわかっていた。


「妹さんですか」


『……ああ』


「黒瀬環さん」


『知ってるのか』


「地上で、ずっとあなたを探してます」


 白い光が大きく乱れた。


『環が?』


「あなたが何をしていたのか知るために、この仕事に就いたそうです」


『……そうか』


 大輝の声が遠くなった。


『あいつ、昔から一度決めると止まらないんだ』


「似てますね」


『誰にだよ』


「あなたに」


 大輝は何も返さなかった。


 しばらくして、絞り出すような声が聞こえた。


『俺は、あいつに「すぐ帰る」って言った』


 白い光が細く震えた。


『それだけだ』


「それだけじゃないでしょう」


『十二年、ずっと引っかかってる』


 大輝の声に、初めて苦しさが滲んだ。


『待たせるつもりはなかった。こんなに長くなるなんて思ってなかった』


「伝えてください」


『何を』


「帰ってから、自分で謝ってください」


『管理者』


「俺は伝言を預かりません」


 誠司は血の混じった涙を手の甲で拭った。


「あなたを帰します」


 大輝の光は、答えなかった。


 だが先ほどより強く、崩壊の内側へ食い込んだ。


 最後に残ったのは、影山だった。


「影山さんは」


『俺はいいや』


 質問が終わる前に、影山が遮った。


 逃げるような早さだった。


「よくありません」


『三人を帰せたら、それでいい』


「自分だけ残るつもりですか」


『そういうの、慣れてるから』


 その言葉に、コトリの音声が一瞬だけ乱れた。


 誠司は気づいたが、今は問い返さなかった。


『俺は、みんなを帰せたら、それでいい』


「影山さん」


『管理者。崩壊を止めろ』


 影山の光が三人を包むように広がった。


『話はそれからだ』


 四人の光が、再び黒い渦を押し返す。


【崩壊波形 51.3%縮小】

【鎮圧完了予測 算出可能】


 半分を越えた。


 作戦は進んでいる。


 八十九人を帰す道は、確実に開き始めている。


 それでも誠司の胸にあったのは、安堵ではなかった。


 残り百七時間。


 崩壊が止まっても、その数字は消えない。


 誠司は拳を握った。爪が掌へ食い込み、汗に薄い血が混じる。


「……わかりました」


 四人の光が、誠司を向いた。


「崩壊は止めます」


 誠司は一つずつ、確かめるように言った。


「八十九人も帰す」


 呼吸を整え、端末へ両手を置く。


「でも、それだけでは終わらせない」


『管理者?』


「あんたたちを帰す方法を探します」


 桐島の光が揺れた。


『聞いてなかったのか。俺たちは』


「聞きました」


「百七時間ある」


『しか、だろ』


「百七時間もある」


 誠司は黒い渦を睨んだ。


「ゼロじゃない」


 四人は答えなかった。


 その代わり、通信の奥でコトリが小さく息を呑むような音を立てた。


 誠司にはまだ見えていなかった。


 残留意識を消さずに残す方法。


 十二年間ここにいた四人を、別の形で帰す方法。


 その前例は、すでに彼のすぐそばにいた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ