第74話 19パーセント
「十九パーセントです」
黒瀬環が告げた数字は、会議室の中央へ落ちたまま、誰にも拾われなかった。
翌日、午後二時六分。
最深部の崩壊予測まで、残り二十九時間。
窓のない会議室には、誠司、蓮、榊原、玲奈が集められていた。
壁際の端末からコトリも接続している。
空調は動いているはずなのに、誠司の背中には薄い汗が滲んでいた。向かいに座る蓮は両手を机の下へ隠し、玲奈は膝の上で指を組んでいる。
榊原だけが椅子へ深く腰掛けていた。
だが、その右足は数秒ごとに小さく揺れていた。
「もう一度、お願いします」
誠司が言った。
聞こえなかったわけではない。
聞こえたからこそ、もう一度聞く必要があった。
黒瀬は手元の端末へ触れた。
照明が落ち、正面の壁へ三本の棒グラフが映し出される。
赤。
橙。
黄色。
どれも、誠司の身体がどこまで耐えられるかを示していた。
「最深部作戦時の身体負荷について、十万回のシミュレーションを行いました」
黒瀬の声は一定だった。
感情を消しているのではない。
感情を混ぜれば、最後まで説明できなくなるのだと誠司にはわかった。
「使用した基準負荷指数は十四・〇九。三十二回目の勤務終了時に確定した実測値です」
画面へ数値が表示される。
【管理者負荷】
確定負荷指数 十四・〇九
危険閾値 二十五・〇
確定値上の残存猶予 十・九一
「三十三回目と三十四回目の勤務については、検査値の確定が間に合っていません」
「じゃあ、今はもっと高い可能性があるんですか」
蓮が問いかけた。
「あります」
黒瀬は即答した。
「したがって、これから提示する確率は、低く見積もった場合の数値です」
蓮の顔が強張った。
壁の表示が切り替わる。
【誠司単独】
予測作戦負荷 十三・五
標準偏差 三・二
危険閾値超過確率 七十八・八パーセント
重篤域到達確率 八・三パーセント
「佐藤さんが単独で最深部の制御を行った場合、危険閾値を超える確率は七十八・八パーセントです」
「ほぼ八割……」
玲奈の呟きが、暗い会議室へ溶けた。
「危険閾値を超えた場合、視覚障害、認知機能障害、心血管障害など、回復しない損傷が残る可能性があります」
プロジェクターの冷却ファンが回っている。
誰も言葉を発しないため、その小さな回転音だけが耳についた。
「重篤域っていうのは」
誠司が尋ねる。
「生命維持に直接影響する領域です」
「八・三パーセント」
「はい」
十二回に一回より、少し高い。
誠司は頭の中でそう置き換えた。
数字が小さく見えないように。
「単独ではやらせません」
蓮が言った。
机の上へ出した拳が、硬く握られている。
「そのための共闘方式です」
黒瀬が次の結果を表示する。
【天城蓮と分担】
予測作戦負荷 八・六
標準偏差 二・六
危険閾値超過確率 十八・五パーセント
重篤域到達確率 〇・〇パーセント
「天城くんが上層から中層の処理を引き受け、佐藤さんが最深部へ集中した場合、危険閾値を超える確率は十八・五パーセントまで低下します」
小数点以下を四捨五入すれば、十九パーセント。
約五回に一回。
「さっきの十九パーセントは、これか」
榊原が低く言った。
「はい」
「重篤域はゼロなんだろ」
「シミュレーション十万回の範囲では、到達例はありませんでした」
「なら、やれるんじゃないか」
「危険閾値を超えないという意味ではありません」
黒瀬の声が鋭くなる。
「五回に一回です」
榊原の足が止まった。
「五回同じ作戦を行えば、そのうち一回は、佐藤さんの目、脳、あるいは循環器に回復不能な損傷が残る可能性がある」
「五回に一回……」
誠司は、自分の右手を見た。
子どもたちとじゃんけんをしたなら、五回などすぐに終わる。
湊が負けたと騒ぎ、陽菜がもう一回と言えば、それだけで五回になる。
「でも、三人ならもっと下げられる」
蓮が画面を指差した。
「コトリの負荷最適化を入れた結果があるはずです」
黒瀬が最後のグラフを開く。
【蓮との分担+コトリによる最適化】
予測作戦負荷 七・四
標準偏差 二・三
危険閾値超過確率 六・二パーセント
重篤域到達確率 〇・〇パーセント
「六・二パーセント」
蓮が息を吐いた。
「十六回に一回まで下がる」
「理論上は」
黒瀬が言った。
「理論上?」
「コトリによるリアルタイム最適化は、通常区画での共同処理データをもとにしています」
『最深部と通常区画では、情報密度が異なります』
端末からコトリの声が響いた。
『最深部において、同じ精度で負荷配分を行える保証はありません』
「成功する確率は」
誠司が尋ねる。
『算出不能です』
「いつもは何でも数字にするのに」
『必要な標本が存在しません』
十二年前、最深部へ入った四人は戻らなかった。
つまり、成功例も失敗例も、比較できる形では残っていない。
「六・二パーセントは、最適化が予定どおり機能した場合の理論値です」
黒瀬が画面を消した。
最後まで残ったのは、橙色の十八・五という数字だった。
「作戦判断に用いるべき現実的な値は、十九パーセントです」
蓮が椅子を引いた。
脚が床を擦る音が、会議室へ鋭く響く。
「俺が、もっと引き受けます」
「天城くん」
「上層だけじゃない。中層の最終判定も俺がやる。佐藤さんは最深部だけ見ればいい」
「あなたの適性値では不可能です」
「やってみなければわからない」
「わかります」
黒瀬は蓮を正面から見た。
「あなたの管理適性は、佐藤さんのおよそ六十パーセントです。分担量を増やせば、佐藤さんの代わりにあなたが危険閾値へ達します」
「それでも十九より下がるなら」
「天城くん」
誠司が呼んだ。
声を荒らげたわけではない。
それでも蓮の言葉は止まった。
「君は十九だ」
「年齢は関係ありません」
「俺は四十二だ」
「だから何ですか」
「順番は守ろう」
蓮の瞳が揺れた。
「そんな順番、誰が決めたんですか」
「俺が決めた」
「勝手に決めないでください」
「君も勝手に壊れようとするな」
蓮の唇が開き、閉じる。
「もう一人で背負わなくていいと言っただろ」
誠司は、握られた蓮の拳を見る。
「だから、君一人に押しつける気もない」
「でも」
「二人でやる」
蓮は座らなかった。
誠司から視線を逸らし、壁に残った十九という数字を睨んでいる。
黒瀬が、別の資料を開いた。
「もう一つ、見ていただく数字があります」
表示されたのは負荷ではなかった。
十二年前の第一次災害記録。
現在の登録活動者数。
時間帯別の活動密度。
避難に要する平均時間。
赤い線が、複数の区画へ広がっていく。
「最深部作戦を行わなかった場合の、被害予測です」
誠司の視線が画面へ戻る。
「第一次災害時の被害記録に、現在の探索者密度、一・九倍を適用しました」
【作戦不実施時の予測】
予測犠牲者数 約八十九名
九十五パーセント予測区間 六十四名から百二十名
十九という数字の隣へ、八十九が並んだ。
「……八十九人」
「中央値に近い推定です」
黒瀬が答える。
「少なく見積もって六十四名。状況が悪ければ、百二十名に達します」
会議室の温度が、さらに下がったように感じた。
「避難させればいい」
玲奈が言った。
「今から全探索者へ退去命令を出せば」
「最深部の異常を公表した時点で、地上でも混乱が起こります」
黒瀬は首を横へ振った。
「全員が即座に命令へ従う保証はありません。深層から地上までの平均帰還時間も、残り時間を超えています」
「入口を閉鎖して、今いる人だけでも」
「新規進入はすでに制限しています。それでも、現在内部にいる登録活動者全員を帰還させることはできません」
「別の管理者は」
榊原が問う。
「いません」
「政府の装置で制御する方法は」
「ありません」
黒瀬は一つずつ、逃げ道を閉じていった。
残酷だからではない。
存在しない希望を残せば、判断を誤るからだ。
「管理者以外に、最深部の制御はできません」
その言葉で、すべての視線が誠司へ集まった。
作戦を行う。
十九パーセントの確率で、自分の何かが元へ戻らなくなる。
作戦を行わない。
約八十九人が、帰れない。
誠司は画面を見つめた。
十九。
八十九。
二つとも、ただの数字に見えた。
「黒瀬さん」
「はい」
「その八十九人には」
誠司は一度、唇を湿らせた。
「名前がありますよね」
黒瀬の呼吸が、わずかに止まった。
「……はい」
「全員、登録活動者ですか」
「はい。現在地と帰還予測から、危険対象者の名簿を作成しています」
「その名簿を、見せてもらえますか」
「……わかりました」
黒瀬は、机の端に置かれた紙の束へ手を伸ばした。
厚さは一センチにも満たない。
それなのに、持ち上げる動作がひどく重そうに見えた。
「現在地と予測退避時間から抽出した、危険対象者の名簿です」
誠司の前へ置かれる。
最初のページには、氏名、年齢、所属チーム、現在地が縦に並んでいた。
誠司は、一番上の名前を読む。
知らない名前だった。
二十五歳。
深層第三区画。
その下も知らない名前。
三十一歳。
中層第九区画。
五十六歳。
二十四歳。
三十八歳。
氏名の横には数字しか書かれていない。
それでも、誠司には見えた。
誰かが帰りを待っている。
玄関に靴が残っている。
冷蔵庫に好物が入っている。
明日の予定がある。
言えなかった言葉がある。
誠司の指は、一枚ずつ、ゆっくり紙をめくった。
会議室に、紙の擦れる音だけが続く。
「犬飼陸斗」
指が止まる。
名前の横に、二十二歳と記されている。
「犬飼くんがいる」
「現在、深層で待機任務中です」
黒瀬が答える。
「退去命令は?」
「出しています。ただし、地上到達予測は臨界到達後です」
誠司は次のページをめくった。
「藤原響子」
その少し下。
「星野ミナ」
昨日、床に座り込み、もう無理をしなくていいのだと泣いていた女の子。
危険な探索をやめられる道が、ようやく見えたばかりだった。
「昨日、助かったばかりなのに……」
小さく漏れた声に、誰も答えなかった。
さらに名前が続く。
玲奈の知る人物。
榊原と現場を共にした者。
誠司が直接会ったことのない者。
けれど、端末の光点としてなら、何度も見てきた者たち。
誠司は最後のページまで読んだ。
八十九名。
先ほどまで壁に映っていた数字は、もう数字ではなかった。
「八十九人って」
誠司は、名簿から顔を上げた。
「八十九人って、数字じゃないんですね」
黒瀬の目が、わずかに揺れた。
「八十九人分の名前だ」
誠司は名簿を閉じなかった。
閉じれば、また一つの数字へ戻ってしまう気がした。
「佐藤さん」
榊原が低い声で呼ぶ。
「あんたには家族がいる」
「はい」
「十九パーセントを軽く考えるな」
「軽くは考えてません」
「だったら」
「だから、名前を見ました」
榊原の眉間に深い皺が寄る。
「家族がいるのは、俺だけじゃない」
「それでも、あんた一人で背負う話じゃない」
「一人じゃありません」
誠司は蓮を見る。
「天城くんがいる」
端末を見る。
「コトリもいる」
玲奈、榊原、黒瀬へ視線を移す。
「ここにいる全員が、止める方法を探してくれた」
「それでも、最後に壊れるかもしれないのは、あなたです」
玲奈の声が震えていた。
「十九パーセントを引いたとき、代わることはできません」
「わかっています」
「わかっていません」
玲奈が椅子から立ち上がった。
「目が見えなくなるかもしれない。記憶を失うかもしれない。ご家族の顔が、わからなくなるかもしれないんです」
誠司は答えられなかった。
数字で示されたときよりも、その言葉の方が深く刺さった。
陽菜の顔。
湊の声。
美咲の手。
それらがわからなくなる自分を、想像することはできなかった。
想像したくなかった。
「ほかの方法を探してください」
玲奈は黒瀬を見る。
「時間がないと言われても、まだ二十九時間あります」
「検討可能な手段は、すべて試算しました」
「試算にない方法だって」
「十二年前も、そう言って時間を使いました」
黒瀬の言葉で、玲奈の声が止まった。
黒瀬は目を伏せる。
「別の方法があるはずだと、全員が考えた」
兄を失った十二年前。
何を選び、何を選ばなかったのか。
誠司には、そのすべてはわからない。
「結果、誰も帰りませんでした」
会議室が静まり返った。
プロジェクターはもう消えている。
机の上には、名簿だけが残っている。
「すぐに答えを出す必要はありません」
黒瀬が言った。
「作戦開始の最終決定は、明朝まで待てます」
「待っても、数字は変わりますか」
「最深部の状態は悪化します」
「十九パーセントは」
「上がる可能性があります」
誠司は、名簿の端を揃えた。
「なら、待つ理由はない」
「佐藤さん」
「ただ」
誠司は立ち上がる。
「家族に話させてください」
◇
その夜。
誠司が家へ戻ると、リビングの灯りが点いていた。
時計は午後九時を過ぎている。
陽菜と湊は、普段なら寝室にいる時間だった。
二人ともソファに座り、美咲の両脇へぴたりとくっついている。
「ただいま」
「おかえり」
美咲は立ち上がらなかった。
誠司の顔を見ただけで、何かがあったと気づいたのだろう。
「話がある」
「うん」
「子どもたちは」
「聞くって」
陽菜がソファの上で背筋を伸ばした。
「パパの話でしょ」
「怖い話かもしれないぞ」
「パパのことなのに、知らない方が怖い」
十歳の娘の言葉に、誠司は何も返せなかった。
湊は意味を全部理解していないらしく、姉の顔と父親の顔を交互に見ている。
誠司は、三人の正面へ座った。
十九パーセントのことを話した。
作戦を行えば、身体に治らない傷が残る可能性があること。
目が見えなくなるかもしれないこと。
頭の働きが元へ戻らなくなるかもしれないこと。
心臓や血管に障害が出るかもしれないこと。
そして、作戦を行わなかった場合、約八十九人が帰れなくなること。
一つずつ、隠さず話した。
話し終えるころには、壁の時計の秒針がやけに大きく聞こえていた。
美咲は何も言わなかった。
陽菜も。
湊も。
冷蔵庫の機械音が止まり、家の中から音が消えた。
誠司は膝の上で手を握る。
「俺は、行こうと思ってる」
美咲の睫毛が震えた。
「でも、勝手に決めたくない」
声が掠れた。
「今までは、黙って行ってた。危ないことも、身体のことも、ちゃんと話さなかった」
深夜のバイトだから。
心配させたくないから。
家族のためだから。
そう言いながら、家族を自分の選択から遠ざけていた。
「今回は、みんなに聞いてほしかった」
美咲は俯いたまま、両手を組んでいる。
その手が細かく震えていた。
長い沈黙のあと。
「行ってきて」
誠司は息を止めた。
美咲が顔を上げる。
目には、涙が溜まっていた。
「わたし、止めない」
「美咲」
「止めたら、あなたじゃなくなるから」
最初の涙が頬へ落ちる。
「怖いよ」
声が震えた。
「すごく、怖い」
美咲は誠司を見たまま、涙を拭わなかった。
「十九パーセントって、五回に一回でしょ」
「ああ」
「あなたの目が見えなくなるかもしれない。わたしや、陽菜や、湊の顔がわからなくなるかもしれない」
「ああ」
「頭が、今までみたいに働かなくなるかもしれない」
「ああ」
返事をするたび、胸の奥が狭くなる。
「本当は、行かないでって言いたい」
美咲の手が、誠司の手を握った。
「八十九人なんて知らない。あなた一人が帰ってくればいいって、言いたい」
指先が冷たい。
それでも握る力は強かった。
「でも、八十九人が帰れなかったら、あなた、一生その人たちを背負うでしょ」
誠司は目を伏せた。
「助けられたかもしれないって、毎日考える」
美咲の声が、涙で崩れる。
「そっちの方が、あなたを壊す」
何も言えなかった。
否定できなかった。
「だから、行ってきて」
美咲は、誠司の手を両手で包んだ。
「そして、帰ってきて」
「……ああ」
「何かを失ってもいいって意味じゃないからね」
「わかってる」
「目も、記憶も、心臓も、全部持って帰ってきて」
「ああ」
「約束して」
誠司は、美咲の手を握り返した。
「約束する」
「パパ」
湊がソファから下りた。
誠司の前へ歩いてきて、膝へ手を置く。
「また怪獣、倒しに行くの?」
誠司は湊を抱き上げた。
七歳の身体は、以前より少し重くなっている。
「ああ」
「大きいやつ?」
「今までで、一番大きいやつだ」
「勝てる?」
誠司は一瞬、言葉を失った。
十九パーセント。
約八十九人。
十万回のシミュレーション。
どの数字にも、絶対という答えはない。
「勝つよ」
「ぜったい?」
湊の目が、まっすぐ誠司を見ている。
嘘をつくなと教えてきた。
できない約束はするなとも教えてきた。
それでも。
「絶対、帰ってくる」
陽菜が立ち上がった。
誠司の服の裾を掴む。
「パパ」
「ん?」
「指切り」
陽菜が小指を出す。
細い指だった。
けれど、逃がさないと言うように真っ直ぐ伸びている。
「……ああ」
誠司も小指を出した。
陽菜の指が絡む。
湊も真似をして、小さな指を押し込んでくる。
美咲も、涙を拭って手を伸ばした。
四人の小指が、不格好に重なった。
「絶対だからね」
陽菜が言う。
「絶対だ」
「怪獣倒して、帰ってくる?」
湊が聞く。
「ああ」
「みんな一緒に?」
誠司は三人の顔を見た。
美咲。
陽菜。
湊。
失いたくないものが、すべてここにある。
「みんな一緒だ」
四本の小指が、強く絡まった。
その輪の中で、誠司は初めて、自分一人で戦いに行くのではないと知った。




