第73話 治療費と、57ポイント
「この数字は、まだ佐藤さんには見せないでください」
作業室へ入ってきた黒瀬環は、赤く点滅する予測範囲を一瞥すると、最初にそう言った。
午前一時四十六分。
三十四回目の勤務を終えたばかりの誠司と蓮は、並んで椅子に座ったまま、彼女を見上げた。
「もう見えてますけど」
蓮が言う。
「確率の算出結果は表示されていません」
黒瀬は端末へ認証カードを触れさせた。危険域を示す赤い帯が消え、代わりに再解析中の文字が浮かぶ。
「共闘の実測値が一回分追加されました。負荷配分を含めて計算し直します」
「悪い数字なんですか」
誠司が尋ねると、黒瀬はすぐには答えなかった。
消えた画面に映る自分の顔を見つめ、唇を薄く結ぶ。
「良い数字ではありません」
「どのくらい――」
「今は言えません」
黒瀬の声が、いつもより強かった。
「一度見た確率は、たとえ再計算で変わっても頭から消えません。判断に影響します。誤差を詰めてから、作戦関係者全員に同じ条件で説明します」
理屈は正しい。
だが、その正しさの奥で、彼女の指が認証カードを強く握っているのを、誠司は見逃さなかった。
「いつ出ますか」
「明日の午後までには」
「そんなにかかるんですか」
「十万回、回します」
蓮が眉を上げた。
「十万回」
「あなたの一万回に負けたくないので」
「張り合うところですか」
黒瀬は答えず、解析データを自分の端末へ移した。
出口へ向かいかけ、思い出したように足を止める。
「佐藤さん。もう一件あります」
「何でしょう」
「面会の申し込みです」
誠司は、扉のそばに立つ黒瀬を見た。
「今、俺に会いたい人なら、何十人もいるんじゃないですか」
「百四十三件です」
「そんなに」
「政治家、報道機関、企業、出版社、自称親族、あなたと幼少期に遊んだと主張する人物まで」
「最後のは覚えがないな……」
「私も断ってよいと思います」
黒瀬の表情は変わらない。
ただ、一件だけ別だと示すように、わずかな間を置いた。
「星野ミナさんが、どうしても会いたいと」
誠司の背中が、椅子から離れた。
「……あの子が」
「明日、対策室へ来ます」
「俺に、何の用で」
「本人の言葉で聞いてください」
黒瀬はそれ以上言わなかった。
扉が閉じる。
狭い作業室に、換気設備の音が戻ってきた。
「星野ミナって、配信者の?」
蓮が尋ねる。
「ああ」
「正体が出た日に、佐藤さんを擁護した人ですよね」
「そうだ」
「会ったことは?」
「ない」
誠司は、消えた端末を見る。
自分は画面越しに何度も彼女を見た。
明るく笑い、危険な場所ほど視聴者を煽り、命を削るように深く潜っていく姿を。
だが彼女は、自分の顔も名前も知らなかった。
知らない相手に助けられ。
知らない相手を、何万人もの前で守った。
「何を話せばいいんだろうな」
「お礼を言われるんじゃないですか」
「そういうのは、慣れてない」
「俺を泣かせた人が何言ってるんですか」
「泣かせようとはしてない」
「まだ言うんですか」
蓮は顔を背けた。
目元には、拭ったあとの薄い赤みが残っていた。
◇
翌日の午後。
星野ミナは、面会室の前で三分十二秒立ち尽くしていた。
白い扉には、部屋番号しか書かれていない。
警備担当者からは、準備ができたらノックするよう言われていた。
準備。
何をもって準備というのか、ミナにはわからなかった。
普段なら、配信開始の三秒前でも笑顔を作れる。
視聴者が何万人いようと、カメラの向こう側にいると思えば怖くない。
危険な区画へ入るときでさえ、声を弾ませることができた。
今日も服は配信でよく着る明るい色を選んだ。
髪も整えた。
けれど、カメラはない。
目の前にいるのは、一人の人間だ。
自分が死ぬはずだった日に、道を開いた人。
弟を一人にしないでくれた人。
そして一昨日、自分が画面越しに名前を呼んだ人。
佐藤誠司。
四十二歳。
ミナは、スマートフォンの暗い画面で自分の顔を確認した。
笑おうとすると、口元が引きつる。
「無理でしょ、これ……」
小声で呟く。
配信中なら拾われないほどの音だった。
扉の向こうから、椅子を引く音が聞こえた。
ミナの心臓が一度、大きく跳ねる。
手のひらを服の脇で拭いた。
一度、拳を上げる。
下ろす。
もう一度上げる。
指の関節で扉を叩いた。
こん。
こん。
三度目だけ、少し間が空いた。
こん。
「どうぞ」
男の声がした。
想像していたより、普通の声だった。
ミナは息を吸い、扉を開けた。
白い壁。
小さな机。
向かい合わせに置かれた二脚の椅子。
窓はなく、天井の照明が机の表面を均等に照らしている。
その奥に、佐藤誠司が立っていた。
ニュースで何度も見た顔。
だが切り取られた写真よりも疲れて見えた。目の下には濃い影があり、左目の白い部分には小さな赤い筋が残っている。
どこにでもいそうな、四十二歳の会社員。
この人が。
あの日、閉ざされた深層に道を作った。
ミナの足が、敷居を越えたところで止まった。
「……あの」
声が裏返る。
普段の配信なら、絶対に使わない声だった。
「星野ミナ、です」
わかりきった自己紹介だった。
動画を見たことがあるなら、知らないはずがない。
それでも、ほかに何も出てこなかった。
誠司は困ったように少し笑った。
「佐藤です。……佐藤誠司」
自分の名前を、確かめるように言った。
その言い方があまりにも普通で、ミナの胸に詰まっていたものが、一気に喉までせり上がった。
「あなたが……」
声が震える。
「S・Sさん、ですか」
「はい」
誠司は頭を掻いた。
「たぶん、そう呼ばれてました」
そこで、限界だった。
視界が滲む。
「うわ……」
ミナは慌てて目元を押さえた。
「ごめんなさい。ミナ、泣くつもりなかったのに」
「大丈夫です」
「全然、大丈夫じゃないです。今日、ちゃんと話そうと思って、何回も練習してきたのに」
笑おうとした。
けれど頬を伝う涙は止まらなかった。
ミナは椅子へ座ることもできず、その場で深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
床へ向かって言葉を落とす。
「あの日、助けてくれて、本当に、ありがとうございました」
あの日の空気が戻ってくる。
湿った石の匂い。
切れた照明。
仲間の荒い呼吸。
背後から近づいていた、硬いものを引きずる音。
「退避経路が塞がって……戻る道もなくなって」
息を吸うたび、言葉が切れた。
「みんなには笑ってたんです。大丈夫だって。ミナが何とかするって」
実際は、何もできなかった。
配信を止めたあと、暗い通路の隅で、弟の顔を思い出していた。
明日の薬。
次の診察。
支払い期限。
自分が帰らなければ、誰が払うのか。
「もうダメだって、思いました」
頭を下げたまま、両手を握る。
「そしたら、壁が動いて……なかったはずの道が開いて」
管理経路が、暗闇を切り裂いた。
その先に出口があった。
「ミナ、あの日、死んでたんです」
声が細くなる。
「あなたがいなかったら」
床へ落ちた涙が、小さな染みを作った。
「弟を、一人にするところだったんです」
長い間、返事はなかった。
天井の空調から、乾いた風が流れている。
誠司が何を考えているのか、ミナには見えなかった。
やがて、椅子が小さく鳴った。
「星野さん」
近くで声がした。
顔を上げると、誠司は座らず、ミナと同じ高さになるように膝を折っていた。
「助かったのは、あなたたちが最後まで諦めなかったからです」
「でも、道を開けたのは」
「俺です」
誠司は否定しなかった。
ただ、手柄を受け取るような顔もしなかった。
「でも、その道を走ったのは、星野さんたちです」
ミナは唇を噛んだ。
「俺の方こそ、ありがとうございました」
「……なんで?」
「俺が何者かも知らないのに、守ってくれたでしょう」
「あれは、ミナが言いたかったから言っただけで」
「それでもです」
誠司は静かに頭を下げた。
「家族まで調べられかけていた。正直、怖かったです」
英雄は、そんなことを言わないと思っていた。
テレビの中の人なら、怯えず、迷わず、正しい言葉を選ぶものだと思っていた。
けれど目の前の男は、自分が怖かったことを隠さなかった。
「星野さんの言葉で、流れが変わりました」
「ミナだけじゃないです。助けられた人、たくさんいて」
「最初に声を上げるのは、怖かったでしょう」
ミナは答えられなかった。
配信ボタンを押す前、指が何度も止まった。
佐藤誠司を擁護すれば、自分も攻撃される。
弟のことまで掘り返されるかもしれない。
それでも、黙っている方が嫌だった。
「だから、ありがとう」
誠司はもう一度言った。
助けた人と、助けられた人。
どちらがどちらなのか、ミナにはわからなくなった。
誠司は立ち上がり、向かいの椅子へ座る。
机の上には、一冊の薄いファイルが置かれていた。
表紙には何も書かれていない。
誠司はそのファイルへ手を置き、表情をわずかに変えた。
「星野さん」
「はい」
「弟さんのことを、調べさせてもらいました」
ミナの呼吸が止まった。
机の上のファイルと、誠司の顔を交互に見る。
「……弟のこと?」
「はい」
「どうして」
「勝手にすみません」
誠司はファイルから手を離した。
「星野さんが配信で話していたことと、探索者登録時の申告内容を、黒瀬さんに確認してもらいました」
ミナの両肩が固くなる。
弟の病気について、配信で詳しく話したことはない。
同情で視聴者を集めたくなかった。金のために潜っていると知られれば、弟まで心ない言葉に晒されるかもしれない。
だから、治療費が必要だとは言っても、数字までは伏せてきた。
「二年後の生存率の差」
誠司が静かに言う。
「五十七ポイントですよね」
空調の風が、机の上の紙を一枚だけ揺らした。
ミナは息を吸うことを忘れた。
「治療を続けられるかどうかで」
「……そこまで、知ってるんですね」
「はい」
声がうまく出なかった。
五十七。
その数字は、毎朝目を覚ますたび、ミナの胸の上に乗っていた。
治療を続けられれば、生き残る可能性は大きく上がる。
払えなければ、その差が消える。
弟が生きるかもしれない未来と、失うかもしれない未来の間に、五十七ポイントの溝がある。
ミナは、その溝を金で埋めようとしてきた。
少しでも視聴数が伸びる場所へ。
少しでも投げ銭が増える危険へ。
浅い階層で一日かけて稼ぐより、深い階層へ一度潜る方が、弟の明日へ近づけた。
「だから、わかりました」
誠司の声に責める響きはなかった。
「あなたが、どうしてあんなに危ない場所へ潜り続けるのか」
「わかったって……」
ミナの喉が震えた。
「そんな簡単に言わないでください」
誠司の目がわずかに見開かれる。
ミナは膝の上で拳を握った。
「みんな言うんです。無茶するなとか、命を大事にしろとか」
笑顔の裏に押し込めていた言葉が、止まらなくなる。
「じゃあ、誰がお金を払うのって」
爪が掌へ食い込む。
「ミナが潜らなかったら、弟の薬はどうなるの。次の治療は。検査は」
「星野さん」
「命を大事にしたら、あの子の命を諦めなきゃいけないんです」
涙が、また視界を曇らせた。
「安全な仕事で少しずつ貯めてたら、間に合わない。今月の支払いは、今月しないといけない」
誠司は何も言わなかった。
わかったふりをして慰めてくると思った。
弟のためにも自分を大切にしろと、正しい言葉を並べると思った。
けれど誠司は、ミナの言葉が尽きるまで待った。
そして、少しだけ困ったように笑った。
「俺も、そうだったんです」
「……え?」
「会社で減給されました」
あまりに場違いな言葉に、ミナは瞬きをした。
「毎月赤字で。住宅ローンもあって、子どもが二人いて」
誠司は自分の両手を見る。
「娘の靴が小さくなってるのに、すぐ買ってやれなかった」
節の太い指が、ゆっくり組まれた。
「妻には大丈夫だと言って、通帳を開くたびに、来月はどうするんだって考えてました」
ミナは何も言えなかった。
「それで、怪しい求人に応募したんです」
「求人?」
「深夜の清掃管理。時給二千八百円」
「二千八百円……」
「今考えれば、ずいぶん怪しかった」
誠司は苦笑した。
「でも、そのときの俺には、怪しいかどうかより、月にいくら増えるかの方が大事だった」
ミナの拳から、少しずつ力が抜けていく。
「危ない橋だとわかっていても、渡らないと次の給料日まで行けなかった」
「佐藤さんも……」
「はい」
「数字に追われてたんですか」
「追われてました」
誠司は頷いた。
「あなたと同じです」
その一言で、ミナの目から涙が溢れた。
かわいそうだと言われたことは何度もある。
頑張っていると褒められたこともある。
けれど、同じだと言われたことはなかった。
「同じ……ですか」
「全部同じだとは言いません」
誠司は言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。
「俺は、あなたの怖さを全部知っているわけじゃない。でも、明日の支払いが、人の命より大きく見える夜があることは知ってます」
ミナは両手で顔を覆った。
嗚咽が指の隙間から漏れる。
配信中なら絶対に消していた音だった。
そのとき、扉がノックされた。
「佐藤さん。星野さん。少しよろしいですか」
黒瀬の声だった。
「どうぞ」
扉が開く。
黒瀬は数枚の書類と端末を抱えて入ってきた。
ミナは慌てて涙を拭った。
「ごめんなさい。今、顔ひどくて」
「泣いている人の顔を評価する業務は担当外です」
黒瀬は淡々と言い、二人の間へ書類を置いた。
「星野ミナさん。弟さんの件について、対策室で利用可能な制度を調べました」
ミナの指が止まる。
「制度?」
「結論から言います」
黒瀬は一枚目を開いた。
「探索者支援基金への申請が可能です」
言葉の意味が、すぐには頭へ入らなかった。
「……何ですか、それ」
「正式登録探索者と、その扶養家族を対象とした支援制度です」
黒瀬が申請要件を示す。
「探索中の事故や負傷だけでなく、扶養家族の継続的な医療費も、審査対象に含まれています」
「家族も?」
「はい」
「そんな制度、聞いたことない」
「ほとんど周知されていません」
黒瀬の声が、わずかに硬くなった。
「規定が複数の制度に分散しており、申請要件も複雑です。通常の窓口へ相談しただけでは、対象外だと判断される可能性があります」
「じゃあ、使えないんじゃ……」
「いいえ」
黒瀬は書類の該当箇所を指した。
「星野さんは正式登録探索者です。扶養実態、治療の継続性、探索収入への依存度を証明できれば、申請要件を満たす可能性が高い」
「可能性……」
「まだ認定されたわけではありません」
黒瀬は、救済を確約するような言い方をしなかった。
「ですが、申請できます。必要な資料はこちらで整理します。私が手続きを代行します」
「黒瀬さんが?」
「担当させてください」
「でも、どうして」
黒瀬は一瞬だけ黙った。
書類を押さえる指先に力が入る。
「使える制度があるのに、知らなかったという理由で人が救われないのは、間違っています」
その言葉には、十二年分の重さがあった。
ミナには、その理由まではわからない。
ただ、黒瀬が仕事として書類を持ってきたのではないことだけは伝わった。
「認定されれば、治療費の相当部分が支援対象になります」
「相当部分って……」
「現在と同じ金額を、危険な探索だけで稼ぎ続ける必要はなくなる可能性があります」
ミナは、書類を受け取った。
紙が震える。
文字を読もうとしても、涙で滲んで見えない。
「本当に……申請できるんですか」
「できます」
「弟の治療、続けられるんですか」
「認定後の支援額によります。しかし、少なくとも、今まで一人で負担していた状況は変えられます」
ミナの膝から力が抜けた。
椅子の脇へ、身体が崩れる。
床に膝が当たる音がした。
「星野さん!」
誠司が立ち上がる。
けれどミナは、痛みを感じなかった。
書類を胸に抱えたまま、床へ座り込む。
「……よかった」
声が漏れた。
「よかった……っ」
顔を覆う余裕もなかった。
鼻水も、涙も、喉から出る嗚咽も止められない。
「ミナ、もう……」
何度も息を吸い損ねる。
「もう、無理しなくていいんだ……」
深い階層へ潜らなくてもいい。
笑えない日に笑わなくてもいい。
怖いものを怖くないと言わなくてもいい。
「弟、生きられるんだ……」
確定した未来ではない。
それでも、初めて道が見えた。
五十七ポイントの溝へ、橋を架けられるかもしれない。
誠司が、ミナの前へしゃがんだ。
救出された日と同じだった。
上から手を伸ばすのではなく、同じ高さまで下りてくる。
「星野さん」
ミナは涙で濡れた顔を上げた。
「もう、無茶な配信はしなくていい」
「……はい」
「弟さんのためだけじゃない」
誠司の声は静かだった。
「あなたは、あなたのために生きていい」
その言葉を、自分へ向けられたことがなかった。
弟の姉。
配信者。
探索者。
金を稼ぐ人。
いつも、誰かのために必要な役を演じてきた。
星野ミナ自身が何をしたいかなど、考える時間はなかった。
「はい……」
涙が、また零れた。
「はい……っ」
黒瀬は二人から視線を外し、窓のない白い壁を見つめていた。
やがて端末が短く振動する。
彼女は表示された通知を確認した。
【最深部作戦負荷試算】
【十万回シミュレーション完了】
黒瀬の指が止まった。
画面の中央に表示された数字を、何度も読み直す。
ミナの重荷が下りた、その同じ部屋で。
今度は、佐藤誠司の未来を示す数字が確定していた。
【蓮との分担時 危険閾値超過確率】
【18.5%】
黒瀬は静かに端末を伏せた。
「佐藤さん」
その声に、誠司が振り返る。
「明日、作戦会議を開きます」




