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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第2部:管理者覚醒編

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第75話 最深部へ


 地下へ向かう車の中で、誠司は右手の小指を何度も親指で撫でていた。


 何かが巻かれているわけではない。


 それでも、陽菜と湊と美咲の指が、まだそこに絡んでいる気がした。


 絶対に帰る。


 根拠のない約束だった。


 危険閾値を超える確率は十九パーセント。コトリの最適化が理論どおり働いても、六・二パーセント。


 何度計算しても、ゼロにはならない。


 けれど、約束を確率で割ることはできなかった。


 地下施設へ到着したとき、崩壊予測までの残り時間は、二十時間余りになっていた。


 誰も急かさなかった。


 廊下を走る職員も、作業室の前に立つ警備担当者も、誠司を見ると黙って道を空けた。


 自分の正体が知られる前なら、誰も振り返らなかったはずの男へ。


 今は、いくつもの視線が向けられていた。


 期待。


 不安。


 祈るようなもの。


 誠司は、そのどれにも応えられず、小さく頭を下げて歩いた。


 作業室の扉の前に、柴田が立っていた。


「佐藤さん」


「柴田さん」


 いつもの作業着だった。


 十二年前の記録を見守ってきた男は、何か特別な言葉を用意しているようには見えなかった。


 柴田は両手に持っていた缶コーヒーを差し出した。


 二本。


 一つを誠司へ。


 もう一つを、後ろから来た蓮へ。


「帰ってきた時の分だ」


 誠司は缶を受け取った。


 冷たい金属が掌へ触れる。


「今、飲むんじゃないんですか」


 蓮が尋ねた。


「帰ってから飲め」


「温くなりますよ」


「文句があるなら、早く帰ってこい」


 柴田の声は平坦だった。


 けれど二本の缶を見つめる目だけが、少し赤かった。


 十二年前。


 柴田は、四人を送り出した。


 そして、誰も帰ってこなかった。


 今回は二人分を、ここに残して待つ。


「いただきます」


 誠司は缶を両手で握った。


「必ず」


 柴田は頷かなかった。


 代わりに作業室の脇へ置かれた小さな冷蔵庫を開け、二本の缶を最上段へ並べた。


 扉が閉じる。


 低い機械音が鳴り始めた。


「冷やしておく」


「はい」


「二人とも、帰ってこい」


 それだけ言い、柴田は背を向けた。


 誠司と蓮は作業室へ入った。


 二つの椅子。


 二組の接続器具。


 壁一面に展開された管理領域の構造図。


 上層から最深部までを示す立体表示は、巨大な血管のように脈打っていた。


 最も下にある黒い領域だけが、周囲の光を吸い込むように明滅している。


 アマテラスの心臓部。


 十二年前の第一次災害が始まり、今も異常波形を吐き続けている場所。


『両名の接続準備を確認しました』


 コトリの声が作業室へ響いた。


『佐藤誠司。天城蓮。最終確認を行います』


「必要ありません」


 蓮が即座に答えた。


『質問は蓮に対するものではありません』


「俺も大丈夫だ」


 誠司は椅子へ座った。


 手首を固定し、接続端子を装着する。


 向かいでは蓮が、既に上層から中層の処理経路を開いていた。


「佐藤さん」


「ん?」


「途中で負荷が上がりすぎたら、接続を切ります」


「最深部に入ってからは、勝手に切るな」


「死にそうでも?」


「死なない」


「確率の話をしてるんです」


「約束したんだ」


 蓮の指が止まった。


「家族と?」


「ああ」


「……確率は、約束を守ってくれませんよ」


「知ってる」


 誠司は最深部の表示を見た。


「だから俺が守る」


 蓮は何も言わなかった。


 数秒後、接続器具へ手を置く。


「上層と中層は俺が持ちます」


「頼む」


「佐藤さんは、最深部だけ見てください」


「見落としがあったら呼べ」


「ありません」


「そう言ってC―十四を落としかけただろ」


「……あったら呼びます」


『深層対話を開始します』


 三十五回目の勤務が始まった。


 最初に聞こえたのは、音ではなかった。


 数百の登録活動者の位置情報。


 区画ごとの魔力密度。


 亀裂の進行。


 経路の閉塞率。


 無数の数値が、冷たい濁流となって誠司の頭へ流れ込む。


「ぐっ……」


 喉の奥で声が潰れた。


 指先の感覚が遠ざかり、代わりに管理領域の広さが自分の身体のように感じられる。


 上層で誰かが走る。


 中層で壁が崩れる。


 深層で三人が進路を迷っている。


 すべてが同時に触れてきた。


『誠司の負荷指数、十五・四』


「上がるのが早い」


 蓮の声が聞こえる。


『十五・八』


「上層を切り離します」


 蓮が処理を引き受ける。


 誠司の意識から、上層の数百本の情報が剥がれた。


 わずかに呼吸が戻る。


「次、中層も渡してください」


「君の負荷は」


「まだ九・一です。余裕があります」


「余裕がなくなる前に言え」


「それ、そっくり返します」


 蓮の指が動くたび、情報の束が誠司から切り離されていく。


 上層。


 中層。


 深層の通常区画。


 蓮が高速で仮判定し、コトリが負荷を再配分する。


『負荷配分を最適化します』


 光の流れが二つに分かれた。


『誠司は最深部へ集中してください』


【リアルタイム負荷指数】


 佐藤誠司 十六・二

 天城蓮 十・七


【理論上の危険閾値超過確率】


 六・二パーセントへ接近中


 画面上の数字が下がっていく。


 十八・五。


 十四・一。


 九・八。


 そして、六・五で一度止まった。


「いける」


 蓮が言った。


「理論値に近づいてる」


『最深部への接続後も維持できる保証はありません』


「わかってる」


 誠司は意識をさらに沈めた。


 管理領域の底へ。


 光の届かない場所へ。


 深くなるほど、身体の輪郭が薄くなる。


 自分が椅子に座っているのか、巨大な空洞の中を落ちているのか、わからなくなった。


 耳鳴りが始まる。


 鼻の奥が熱くなり、唇へ生温かいものが触れた。


『鼻腔内出血を確認』


「止めないでくれ」


『継続します』


 まぶたの裏で、細い血管が切れる感覚がした。


 視界へ赤い筋が混じる。


「佐藤さん!」


「大丈夫だ」


「どこが」


「まだ見える」


 意識の先で、最深部が開いた。


 音が消えた。


 蓮の声も。


 換気設備も。


 自分の呼吸さえ聞こえない。


 そこには巨大な歪みがあった。


 黒い渦。


 光を呑み込みながら、内側から空間を押し広げている。


 十二年前の記録で見た波形が、今は形を持って目の前に存在していた。


 渦が脈打つたび、管理領域全体が震える。


 一度。


 二度。


 その振動が、誠司の骨と内臓を直接揺らした。


「これが……十二年前の」


 言葉の途中で、渦の中に光が見えた。


 一つではない。


 四つ。


 消えかけた小さな光が、黒い歪みの四方へ張りつくように存在している。


 誠司は、その光を知っていた。


 二十一話で、一度だけ触れた四つの影。


「コトリ」


 返事がない。


「この四人は、ここで何をしてる」


 数秒後。


 コトリの声が、初めて聞くほど小さく響いた。


『解析中です』


 四つの光が揺れる。


 渦に呑み込まれそうになるたび、互いの光を伸ばし、歪みの広がりを押し返している。


 消えかけながら。


 削られながら。


 それでも手を離さずに。


『解析が完了しました』


 コトリの声が震えたように聞こえた。


『誠司』


『四人が、崩壊を内側から抑え続けています』


 誠司の喉が動いた。


「いつから」


『十二年前からです』


 黒い渦の中で、四つの光がまた一度、同時に明滅した。


『十二年間、ずっと』



 誠司は言葉を失った。


 十二年。


 陽菜が生まれるよりも前から。


 湊が歩き始めるよりも前から。


 四人は、この光も時間もない場所で、崩壊を押さえ続けていた。


 帰れなかったのではない。


 帰らなかった。


 自分たちが手を離せば、その瞬間に何人もの命が失われると知っていたから。


「そんな……」


 喉から漏れた声は、黒い渦に呑まれた。


「十二年も、人がこんなことを続けられるのか」


『生体反応はありません』


 コトリが答える。


『四名の肉体は、既に生命活動を停止しています』


「じゃあ、この光は」


『管理領域に残留した意識情報です』


「意識……」


『正確な定義はできません。記憶、判断、人格を保持した情報構造体です』


 人間なのか。


 記録なのか。


 誠司にはわからなかった。


 だが、四つの光は歪みが膨らむたびに動いている。


 苦しみ。


 耐え。


 互いを支えている。


 それを人でないと言い切ることなど、できなかった。


 一つの光が、わずかに誠司の方角へ傾いた。


『よう』


 男の声が響く。


 耳から聞こえたのではない。


 記憶の奥へ、直接言葉が届いた。


『また来たな』


 誠司はその声を覚えていた。


 二十一話で、初めて四つの影へ触れたとき。


 自分を追い返した男。


「あんたは……影山恭一さんか」


 光が小さく明滅した。


『名前まで調べたのか』


「四人とも調べました」


 誠司は、順番に光を見る。


「影山恭一さん」


 一つ目の光が揺れる。


「桐島鷹也さん」


 二つ目。


「宮前千紗さん」


 三つ目。


 最後の光は、ほかの三つよりも少し弱かった。


「黒瀬大輝さん」


 四つ目が、大きく震えた。


『……なぜ、俺の名前を知っている』


 誠司は答えようとした。


 その瞬間、黒い渦が膨張した。


 視界いっぱいに闇が広がる。


 四つの光から細い線が伸び、歪みの外縁へ食い込んだ。


『来るぞ!』


 影山の声。


 四人が同時に光を強める。


 歪みが一度、押し戻された。


 だが、四つの光は明らかに先ほどより薄くなっていた。


『残留情報量、減少』


 コトリが告げる。


『現在の出力を維持した場合、四名の構造崩壊まで推定十九・七時間』


「それじゃ、臨界到達より早い」


『はい』


 誠司の拳に力が入る。


「十二年も耐えたのに、あと少しで消えるのか」


『十二年、保たせた』


 影山の声に、かすかな笑いが混じった。


『上出来だろ』


「上出来で終わらせるな」


『おいおい』


「俺は、帰すために来た」


 四つの光が揺れた。


「八十九人だけじゃない」


 誠司は、黒い渦の前へ意識を進める。


「あんたたちもだ」


 返事はなかった。


 やがて、女の声がした。


『私たちの身体は、もうないわ』


 宮前千紗だった。


『ここから出ても、戻る場所がない』


「それは出てから考えます」


『無茶を言う管理者ね』


「よく言われます」


 今度は、別の男の声が響く。


『こちらを救おうとして、外を失うな』


 桐島鷹也。


 四人の中で最も冷静な響きだった。


『我々の目的は、この歪みを停止させることだ』


「わかっています」


『ならば、優先順位を間違えるな』


「間違えません」


 誠司は言い切った。


「歪みを止める。外の人たちを帰す。そのあと、あんたたちを帰す」


『三つとも、できると思っているのか』


「一つを選べと言われて、一人取りこぼしました」


 消えた光点が、誠司の胸を刺す。


「だから今度は、選ぶ前に方法を探します」


 四人は何も言わなかった。


 黒い渦の脈動だけが続く。


 大輝の光が、ゆっくり前へ出た。


『管理者』


「はい」


『俺たちは、もう長く保たない』


「保たせます」


『聞け』


 強い声だった。


 誠司は口を閉じる。


『俺たちが消えれば、歪みを内側から押さえる力も消える』


「はい」


『外側から停止させられるのは、お前だけだ』


「わかっています」


『なら、頼む』


 大輝の光が、歪みの向こうで震える。


『俺たちが消える前に、これを止めてくれ』


 誠司は拳を開いた。


 家族と絡めた小指の感触を確かめる。


「止めます」


『言い切るな。できる保証はない』


「約束したので」


『誰と』


「家族とです」


 影山が小さく笑った。


『それは破れないな』


「はい」


 誠司は大輝の光へ視線を戻した。


「あの」


『なんだ』


「あなた、黒瀬大輝さんですよね」


『さっき自分で呼んだだろ』


「妹さんがいますよね」


 光の動きが止まった。


 黒い渦が脈打つ。


 ほかの三つの光が、歪みを押し返した。


 大輝だけが、誠司の言葉へ縫い止められたように動かない。


『……環を知っているのか』


「はい」


『どうして』


「今、対策室で分析を担当しています」


 大輝の光が震え始めた。


「十二年前の記録を調べていました」


『環が?』


「あなたに何があったのかを知るために」


『あいつが、国家機関に?』


「はい」


『馬鹿だな……』


 声が掠れる。


『俺みたいなのを探すために、十二年も使ったのか』


「馬鹿ではありません」


 誠司は首を振った。


「あなたが帰ってこなかった理由を、誰も教えてくれなかったからです」


 大輝の光が、細かく明滅した。


 泣いているように見えた。


『……環が』


 声が途中で途切れる。


『あいつ、まだ俺を待っていたのか』


「待っています」


『すぐ帰るって言ったんだ』


 大輝の言葉が、黒い空間へ滲む。


『出かける前に、あいつがうるさくてな。晩飯までには帰れって』


 誠司は、黒瀬の顔を思い出した。


 感情を数字の裏へ押し込み。


 兄を救えなかった制度を調べ続け。


 他人の家族を救う書類を、一枚ずつ探していた女。


『俺は、すぐ帰るって言った』


 十二年。


 その言葉だけが、帰れないまま残っていた。


『管理者』


「はい」


『頼みがある』


「伝言ですか」


『ああ』


 大輝の光が、歪みに引かれて大きく揺れた。


『環に伝えてくれ』


 誠司の両目から、血の混じった涙が流れた。


 痛みはなかった。


 ただ、大輝の声だけが、はっきり届いた。


『すぐ帰るって言って、帰れなくてすまなかった』


 誠司は唇を噛んだ。


「自分で伝えてください」


『無理だ』


「まだ決まってません」


『俺たちはもう』


「決まってない」


 声が震える。


「伝言は預かります」


 誠司は頬を流れる血を拭わなかった。


「必ず伝えます」


『……頼む』


「でも、あなたも少しだけ持ちこたえてください」


 誠司は黒い渦へ意識を向けた。


「外側から止めます」


 大輝の光が、弱く明滅する。


『ああ』


『頼んだ』


        ◇


「佐藤さん!」


 遠くから蓮の声が届いた。


 誠司は最深部との接続を維持したまま、意識の一部を作業室へ戻す。


 口元まで流れた鼻血が、顎から服へ落ちていた。


 両目の端からも、赤い筋が頬を伝っている。


『誠司の負荷指数、十九・八』


「まだ危険閾値には届いてない」


『上昇速度が加速しています』


 二十・〇。


 二十・二。


 二十・四。


『危険閾値まで、あと四・六』


 蓮の指が端末を走る。


「上層は完全に押さえました! 中層も残り二件!」


「見落としは」


「ありません!」


「本当に?」


「今それ聞きますか!」


「君の九十四・二パーセントは信用してない」


「共闘なら九十九・〇五です!」


 蓮が叫びながら最後の区画を処理する。


「終わりました! 上層から深層通常区画まで、全部俺が持ちます!」


『蓮の負荷指数、十四・三』


「まだいけます!」


「無理するな」


「今の佐藤さんにだけは言われたくない!」


 コトリが二人の間へ光の経路を構築する。


『最終負荷配分を開始します』


 上層と中層の情報が、完全に蓮へ移る。


 最深部の制御権限が、誠司へ集中する。


『理論最適化率、九十三・八パーセント』


「六・二パーセントに届くか」


『保証はできません』


「それでいい」


 四つの光が、内側から歪みを押さえる。


 誠司が、外側の制御層へ手を伸ばす。


 蓮が、ほかのすべての区画を支える。


 コトリが、二人の負荷を秒単位で組み替える。


「始めるぞ」


『はい』


「やりましょう」


 誠司は、黒い歪みの外縁へ制御権限を打ち込んだ。


 世界が軋んだ。


 十二年前に始まった戦いの、決着が動き出した。


        ◇


 そのころ。


 地上の監視室で、白瀬総一郎は作戦の全記録を見ていた。


 四人の残留意識。


 佐藤誠司。


 天城蓮。


 コトリ。


 本来なら交わるはずのなかった存在が、一つの歪みを挟んでつながっている。


「佐藤誠司」


 白瀬は、モニターに映る血まみれの男を見つめた。


「あの男が、十二年前の亡霊と手を組んだか」


 端末には、ミラージュの緊急介入コマンドが開かれていた。


 実行すれば、管理領域の接続を強制切断できる。


 誠司の身体を守れる可能性は上がる。


 同時に、最深部の制御は失われる。


 白瀬の人差し指が、実行ボタンの上へ伸びた。


 残り、一センチ。


 そこで止まる。


 押せば、佐藤誠司を止められる。


 押さなければ、あの男は自分の命を削って作戦を続ける。


 モニターの中で、誠司の負荷指数が二十一・一へ上がった。


 白瀬の指は、ボタンの上で動かなかった。


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