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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第2部:管理者覚醒編

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第71話 佐藤誠司、四十二歳

 自分の名前が、知らない男の声で読み上げられていた。


『謎の管理者“S.S”の正体が判明した可能性があります。関係者への取材によれば、都内在住の会社員、佐藤誠司さん、四十二歳――』


 カーテンの隙間から差し込む朝の光は、昨日までと何も変わらなかった。


 薄い金色の帯が、リビングの床を斜めに横切っている。テーブルには昨夜、湊が置き忘れた消しゴムが転がり、椅子の背には陽菜のカーディガンが掛かったままだ。


 その見慣れた風景の真ん中で、テレビだけが、誠司の知らない世界を映していた。


 画面の右上に赤い枠が出ている。


【速報 謎の管理者“S.S” 都内会社員か】


 その下に表示された名前を、誠司は三度読んだ。


 佐藤誠司。


 四十二歳。


 間違えようのない、自分の名前だった。


「……俺の、名前だ」


 口に出した途端、喉の奥がひどく乾いた。


 右手のスマートフォンが震える。


 一度ではない。短く止まり、また震え、今度は息継ぎを忘れたように鳴り続ける。画面を点けると、通知の数字が上へ上へと積み上がっていた。


 着信。留守番電話。会社の連絡網。知らない番号。矢沢の名前。ニュースアプリ。動画サイト。SNS。


 表示しきれない通知が、画面の上端で潰れ合っている。


「誠司さん」


 美咲の声は、いつもより低かった。


 振り返ると、美咲はダイニングテーブルの向こうに立っていた。顔から血の気が引いている。両手で握ったスマートフォンの角が、細かく震えていた。


「……出てる」


「ああ」


「住所までは?」


「まだ、見てない」


 見たくなかった。


 だが、見ないままでは家族を守れない。


 誠司は親指を動かした。画面を滑らせるたび、自分の顔ではない画像、自宅周辺の地図、勤務先とされる会社名、過去の映像から切り取られたぼやけた人影が流れていく。


『四十二歳の冴えない会社員が国家級ダンジョンを支配?』


『救助対象を選別した“えこひいき管理者”の正体』


『一方で数百名を救った英雄との証言も』


『家族構成を特定か』


 最後の一行で、指が止まった。


 胃の底へ、冷たいものが落ちた。


「美咲。陽菜と湊は」


「まだ寝てる。今日は学校、休ませる」


「そうしてくれ」


 返事をした自分の声が、妙に遠い。


 台所で、やかんが鳴り始めた。


 細い音が次第に高くなり、蓋を震わせ、誰かに止めてほしいと訴えるように鳴り続ける。けれど誠司も、美咲も動けなかった。


 テレビでは、別の出演者がもっともらしい顔で話している。


『問題は、民間人である佐藤氏が、どういった権限で救助の優先順位を決めていたかです』


『ただ、現場の探索者からは、佐藤氏を擁護する声も多く――』


『匿名の個人に国家級施設の管理を任せていた体制そのものが――』


 誠司はリモコンを掴み、テレビを消した。


 暗くなった画面に、青ざめた自分の顔が映る。


 静かになるはずだった。


 だが、やかんの音が急に大きくなり、窓の外から車のドアが閉まる音が重なった。


 一台。


 続いて、もう一台。


 タイヤが路肩の砂を踏み、複数の足音が近づいてくる。


 美咲がカーテンの端を指一本分だけ開けた。


 その背中が固まった。


「誠司さん……」


 誠司も窓へ寄った。


 家の前に、見慣れないワゴン車が二台停まっていた。首から身分証を下げた男がカメラを抱え、別の女がスマートフォンを耳に当てながら門柱の表札を確認している。


 通りの向こうにも人がいる。


 レンズが、こちらを向いた。


 美咲が反射的にカーテンを閉じた。


 布の隙間から切り取られていた朝日が消える。部屋の中が、ひと息で狭くなった。


「早すぎるだろ……」


 誠司の声に、返事はなかった。


 二階から、小さな足音がした。


「ママ?」


 陽菜の声だった。


 美咲がすぐに顔を上げる。青ざめた表情を隠すように頬を叩き、階段へ向かった。


「陽菜、まだ下りてこないで。湊も起こさなくていいから」


「どうしたの?」


「大丈夫。ちょっとだけ、そこで待ってて」


 大丈夫。


 その言葉が、空っぽの箱みたいに床へ落ちた。


 誠司はスマートフォンを握り直した。手のひらが汗ばんで、薄い機械が滑りそうになる。


 会社からの着信は十二件になっていた。


 矢沢から短いメッセージが届いている。


『問い合わせが殺到している。今は会社に来るな。こちらから連絡する』


 その下に、見知らぬアカウントからの通知が並ぶ。


『家の場所わかった』


『英雄なら顔を出せ』


『人を選んで助けたのか答えろ』


『子どもいるんだって?』


 そこまで読んで、誠司は画面を伏せた。


 息を吸おうとしても、胸の途中で止まる。


 自分だけならよかった。


 会社を失うだけなら、まだ耐えられた。笑われても、責められても、殴られても、自分一人なら何とかできた。


 だが、二階には陽菜と湊がいる。


 目の前には美咲がいる。


 自分が毎晩、誰かを帰そうとするたび、その帰る場所を危険に近づけていたのだと、今になって思い知らされた。


「……ごめん」


 階段の下で、美咲の肩が止まった。


「俺のせいだ」


「誠司さん」


「陽菜も、湊も、こんなことに巻き込んで。俺が、もっと早く――」


「謝らないで」


 美咲は振り返らなかった。


 声だけが、強かった。


「今は謝る時間じゃない。子どもたちを守ることだけ考えて」


「でも」


「あなたが悪いことをしたなら、わたしも一緒に謝る。でも、そうじゃないでしょう」


 誠司は答えられなかった。


 門の外で声が上がった。


「佐藤さん! いらっしゃいますか!」


「“S.S”と呼ばれていたのは、あなたで間違いありませんか!」


「救助対象の選別について説明してください!」


 インターホンが鳴る。


 鋭い電子音に、美咲の肩が跳ねた。


 一度。


 間を置かず、二度目。


 画面には、門前へ押し寄せた人影の一部しか映らない。マイク。カメラ。覗き込む顔。押されて揺れる植木。


 誠司は玄関へ向かった。


「出ちゃだめ」


「話をすれば、少しは――」


「今、何を言っても切り取られる」


 美咲が誠司の腕を掴む。


 指先が冷たかった。


 そのときだった。


 門の外が、急に騒がしくなった。


「下がってください!」


 張りのある女の声が響く。


「ここは個人宅です。ご家族への接触はやめてください」


「あなたは誰ですか?」


「撮影を止めろって! 子どもがいるんだぞ!」


 今度は、聞き覚えのある若い男の声だった。


 外で人が押し合い、靴底がアスファルトを擦る。カメラマンの抗議。誰かの怒鳴り声。そのすべてを割って、もう一度、はっきりした声が届く。


「探索者組合から来ました。佐藤さんとご家族を保護します」


 誠司は息を止めた。


 インターホンが、三度目に鳴った。


 先ほどまでとは違う、短い一回だった。


 美咲が画面を確認する。


 その目が、わずかに見開かれた。


「……誠司さん。この人たち」


 誠司は玄関の鍵に手をかけた。


 金属が触れ合う小さな音が、やけに鮮明に聞こえる。


 チェーンを残したまま、扉を細く開けた。


 朝の光が、暗くなった玄関へ差し込む。


 門前の報道陣を背にして、神代玲奈が立っていた。


 その後ろには、犬飼陸斗と藤原響子。


 さらに、誠司が名前を知らない何人もの探索者たちが、家を囲むように並んでいた。


 玲奈は誠司の顔を見て、まっすぐ告げた。


「佐藤さん。今度は、私たちがあなたを帰します」


 その一言で、誠司の指から力が抜けた。


 扉の鎖が、かすかに鳴った。


「……神代さん」


「ここを離れます。車を用意しています」


 玲奈の声は落ち着いていた。だが、誠司の家へ向けられたカメラを遮るように立つ背中には、薄い緊張が張りついている。


 犬飼が報道陣を睨んだまま、片手を上げた。


「親父! 説明はあとです! まず奥さんと子どもを!」


「親父はやめろと言っただろ……」


 思わず返すと、犬飼は歯を見せた。


「そんなこと言ってる場合ですか!」


 いつもの大声だった。


 耳障りなほど真っ直ぐで、今はひどく頼もしかった。


 藤原が書類を透明な板へ表示し、扉の隙間から誠司へ見せる。


「探索者組合の正式な保護要請です。対策室にも連絡済みです。ご家族の移動先は秘匿します」


「どうして、ここまで……」


「どうして?」


 藤原は眉を寄せた。


「佐藤さんは、私たちに同じことをしてきたでしょう」


 外でフラッシュが光った。


 玲奈たちの輪の外から、記者の声が飛ぶ。


「神代さん! 佐藤氏が管理者であると認めるんですか!」


「救助の優先順位に不正があったという疑惑については!」


 玲奈は振り返らなかった。


「不正があったかどうかは、記録を確認すればわかります」


 静かな声だった。


 それでも、門前のざわめきが一瞬だけ弱まった。


「私は三度、佐藤さんに命を救われました」


 玲奈が続ける。


「その三度とも、佐藤さんは私の名前も顔も知りませんでした。私が何者か知らないまま、帰還経路を開いてくれました」


 犬飼が続ける。


「俺もだ!」


 今度は報道陣へ向けた大声だった。


「こいつは俺が誰かも知らねえのに、死にかけるたびに拾いやがった! ひいきしたいなら、もっと従順な奴を選ぶだろ!」


「それは自分で言うことですか」


 藤原が呆れたように言った。


「うるせえ!」


 外から、誰かが笑う声がした。


 ほんの短いものだったが、張り詰めていた空気に小さな亀裂が入った。


 誠司の背後で、美咲が息を吐いた。


「誠司さん。行こう」


「ああ」


 チェーンを外す。


 扉を開けると、夏の朝の熱が一気に玄関へ入り込んだ。


 汗と排気ガスと、踏み荒らされた植木の青臭い匂い。大量のレンズが一斉に誠司へ向く。


 フラッシュが白く弾けた。


「佐藤さん!」


「一言お願いします!」


「あなたが“S.S”なんですか!」


 誠司は顔を伏せかけた。


 だが、その前へ犬飼が立った。


 右には玲奈。


 左には藤原。


 その外側を、名前も知らない探索者たちが塞いでいる。


 誰一人、誠司を振り返らなかった。


 全員が外を向き、誠司たち家族へ背中を向けていた。


 守るための背中だった。


 その日の正午、探索者組合は緊急声明を発表した。


『管理者“S.S”は、確認可能な活動記録において、探索者の所属、等級、知名度、報酬額による救助対象の選別を行っていない』


 玲奈、犬飼、藤原を含む百二十七名の探索者が、実名で賛同者に名を連ねた。


 それでも、流れはすぐには変わらなかった。


 ネット上では、誠司を英雄と呼ぶ声と、権限を持たない危険人物と呼ぶ声がぶつかり合った。


『助けた人数が多ければ、何をしても許されるのか』


『管理者を個人が独占していた』


『家族を調べろ』


『勤務先は責任を取るべきだ』


 安全確保のため移動した施設の一室で、誠司は画面を閉じた。


 それでも言葉は瞼の裏へ残った。


 家族を調べろ。


 その六文字だけが、釘のように頭へ打ち込まれている。


「パパ」


 湊が隣から誠司の袖を引いた。


「悪いことしたの?」


「してないよ」


 答えたのは陽菜だった。


 膝の上で両手を握り、兄を睨むような顔をしている。


「パパは、人を助けたんだから」


「でも、テレビの人、怒ってた」


「テレビの人が間違ってるの」


 言い切った陽菜の声が、途中でわずかに震えた。


 誠司は二人の頭へ手を置いた。


「怖がらせて、ごめんな」


「謝らないでって言ったでしょ」


 美咲が窓際から振り向く。


 その目元にも、消えない疲れが溜まっていた。


 午後三時十二分。


 空気が変わったのは、星野ミナが緊急配信を始めてからだった。


 施設に設置されたテレビに、ミナの顔が映る。


 いつもの鮮やかな背景も、軽快な音楽もない。


 白い壁の前に座り、カメラを正面から見つめている。化粧は薄く、目の下には隠しきれない影があった。


『みんな、聞いて』


 コメントが猛烈な速さで流れていく。


 ミナは一度だけ唇を噛み、それから話し始めた。


『ミナを助けてくれた“S.S”さんが、佐藤誠司さんって人だってわかったの』


 陽菜が、誠司の服を掴んだ。


『一部で、ミナをひいきしたって言われてる。でも、違う』


 ミナは瞬きをしなかった。


 泣かないために、目を閉じられないように見えた。


『ミナ、調べたの。あの日の記録、全部』


『佐藤さんは、ミナのチームだけ助けたんじゃない。同じ時間に危険だった別の区画も、その隣も、全部見てた』


『一人も、見捨ててなかった』


 画面の端で、コメントの速度が一瞬だけ落ちる。


 ミナは息を吸った。


『それとね』


 声が震えた。


『ミナ、あの人に一度も会ったことないの』


『話したこともない。名前も知らなかった』


『会ったことない人が、ミナを助けてくれた』


 目に溜まった涙が、一粒だけ頬へ落ちた。


『えこひいきなんて、できるわけないでしょ』


 コメント欄が止まったように見えた。


 次の瞬間、流れが変わった。


『たしかに』


『記録あるのか』


『他の区画も同時に助けてたんだ』


『叩いてた奴、ちゃんと見ろ』


『この人、会社員しながら何百人も帰してたのか』


『佐藤さんを守れ』


 それまで罵倒で埋まっていた画面へ、別の言葉が次々に押し寄せる。


 ありがとう。


 助けられました。


 父を帰してくれた人です。


 仲間を見捨てなかった人です。


 誠司はテレビを見つめたまま、動けなかった。


 夜になり、家族は警護つきで自宅へ戻ることを許された。


 門前の人影は消えていた。


 踏み倒された花と、タイヤの跡だけが、朝の騒ぎを残している。


 子どもたちを寝かせたあと、誠司はリビングのテレビを消した。


 スマートフォンも電源を落とす。


 冷蔵庫の低い駆動音だけが、静かな部屋に続いていた。


 美咲が隣へ座る。


「……全部、バレたな」


「うん」


「これから、どうなるかわからない」


「うん」


 誠司は膝の上で両手を組んだ。


 指の節が白くなるまで握っても、震えは止まらなかった。


「俺、ずっと……バレたら終わりだと思ってた」


 美咲は何も言わない。


「家族を巻き込むって。今までの生活が壊れるって」


 実際、壊れかけた。


 カメラは家へ向けられた。子どもたちは怯えた。会社も騒ぎになった。


「でも……」


 喉が詰まった。


「玲奈さんが来てくれた」


 声が掠れる。


「犬飼が来てくれた。藤原さんも、知らない探索者たちも」


「うん」


「ミナちゃんが、俺のことを守ってくれた」


 涙が一滴、組んだ手の甲へ落ちた。


「会ったこともないのに」


 もう一滴。


「俺が帰した人たちが……今度は、俺を守ってくれてる」


 声を上げるつもりはなかった。


 だが、息を吸うたびに胸が引きつり、肩が細かく震えた。


 美咲の手が、誠司の背中へ触れる。


 ゆっくりと、子どもを寝かしつけるときのように撫でた。


「あなたがやってきたこと、無駄じゃなかったんだよ」


 誠司は顔を上げられなかった。


「ちゃんと、返ってきてる」


 深夜零時四十七分。


 誠司は地下施設の作業室に座っていた。


 三十三回目の勤務だった。


 目の奥には、泣いたあとの鈍い熱が残っている。だが、正面の端末へ手を置いた瞬間、意識は管理領域へ切り替わった。


「コトリ。最深部の解析は」


『完了しています』


 無機質な声だった。


 正面へ、二つの波形が表示される。


 一つは現在の最深部。


 もう一つは、十二年前の第一次災害記録。


 ほとんど同じ線が、わずかにずれながら重なっていた。


【最深部異常波形と第一次災害記録】


 ピアソン相関係数 r=0.9893


 p値=1.457×10⁻¹⁶⁷


 決定係数 R²=0.9788


 誠司は表示された数字を見た。


「……似てる、ってことか」


『似ている、という表現では不十分です』


 コトリの声が、乾いた作業室へ響く。


『十二年前の波形と、九十八・九パーセント一致しています』


 誠司の背筋を、冷たい汗が流れた。


『偶然である確率は、十のマイナス百六十七乗です』


「つまり」


 喉を鳴らす。


「十二年前と、同じことが起きるのか」


『いいえ』


 コトリは、すぐに否定した。


『すでに、起き始めています』


 画面が切り替わる。


【崩壊到達予測】


 E(t)=12.0×exp(0.043t)


 臨界値E=100


 到達予測 49.3時間


 数字の横で、曲線が急角度に立ち上がっている。


「四十九・三時間……」


『二日と、一時間です』


 朝、名前を知られた。


 昼、帰してきた人々に守られた。


 そして今、誠司の前には、十二年前と同じ崩壊が迫っている。


 コトリが告げた。


『誠司』


『残された時間は、約四十九時間です』


 画面の奥で、最深部の波形がまた一段、大きく跳ね上がった。



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