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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第2部:管理者覚醒編

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第70話 その名前を、呼ぶな

 白瀬総一郎は、暗い窓に映る自分から目を逸らし、再び端末を開いた。


 天城蓮の契約解除申請は、承認待ちのまま画面の隅に残っている。


 黒瀬環。


 佐藤美咲。


 星野ミナ。


 そして、天城蓮。


 一人の男と関わった者たちが、次々に自分の想定から外れていった。


 能力で支配したわけではない。


 金でも、権力でもない。


 佐藤誠司は迷い、失敗し、怯えながら、それでも目の前の人間を見捨てなかった。


 ただそれだけで、周囲の者が変わっていく。


「厄介だ」


 白瀬は小さく呟いた。


 怒りではなかった。


 理解できないものへ向ける、薄い困惑が声に混じっていた。


 窓の向こうでは、夜の東京が無数の光を浮かべている。


 その一つ一つに人間がいて、家族がいて、守りたいものがある。


 かつての白瀬にも、あった。


 その記憶が浮かぶ前に、彼は端末へ指を置いた。


「英雄は、正体を知られた瞬間に、ただの人間になる」


 背後に立っていた部下が、息を呑んだ。


「情報を流すのですか」


「既に世間は、答えの直前まで来ている」


「ですが、三神副長官も、今は黒瀬主任の動きを警戒しています。ここで不用意に」


「我々から発信する必要はない」


 白瀬は二つの文書を表示した。


 一つ目。


 管理者S・Sは、都内在住の一般企業に勤める事務職の男性である。


 二つ目。


 管理者S・Sには、特定の配信者を優先的に救助している疑いがある。


 部下の視線が、二つ目の文書で止まった。


「優先的な救助……星野ミナですか」


「世間は、英雄が公平であると信じている」


「実際に優遇した証拠はありません」


「証拠が必要なのは、裁判だけだ」


 白瀬は淡々と答えた。


「疑問さえ与えれば、人は自分で答えを作る」


 星野ミナが危機へ陥った時刻。


 S・Sによる介入が確認された時刻。


 他区画で救助が遅れた事例。


 別々に見れば意味を持たない記録でも、順番を変えて並べれば、一つの物語になる。


 ミナだけを守った。


 他の人間を後回しにした。


 英雄ではなく、若い女性配信者を特別扱いする男だった。


「佐藤誠司は、実際には彼女を優先していません」


 部下が言った。


「あなたは、随分と彼を信頼しているのですね」


「そういう意味では」


「事実とは、起きたことだけを指す言葉ではない」


 白瀬の指が送信欄の上で止まる。


「人々が事実だと信じたものも、社会では同じ力を持つ」


「彼の家族まで巻き込まれます」


 部下の声が低くなった。


 白瀬の指は動かなかった。


 閉鎖会議室で、黒瀬に問われた言葉が蘇る。


 あなたが失ったものを取り戻すために、他人の家族を失わせるのは、正しいことですか。


 白瀬は目を閉じた。


 数秒後、指を下ろした。


「巻き込むのではない」


 送信完了の表示が現れる。


「管理者という役割から、彼を引きずり下ろすだけだ」


     ◇


 最初の記事が公開されてから、十四分。


 匿名掲示板に転載された。


 二十二分後には、複数の配信者が取り上げた。


 三十一分後、星野ミナを優遇したという疑惑に、切り抜き映像が添えられた。


『やっぱりS・Sってミナ専属なんじゃない?』


『他の探索者より対応早い場面あるよな』


『既婚者って考察されてなかった? それで若い女配信者を特別扱い?』


『管理者の私物化じゃん』


『いや、何人助けてもらったと思ってんだよ』


『助けてれば何してもいいの?』


 恩人を探す善意から始まった流れは、疑惑を裁く熱へ変わった。


 誰も、白瀬の名前を知らない。


 誰も、自分が渡された筋書きの上を歩いているとは思わない。


     ◇


 内閣府ダンジョン対策室の分析棟に、警告音が響いた。


 黒瀬環は手にしていたコーヒーを机へ置き、画面へ顔を寄せた。


「情報源は」


「追跡中です」


 西尾が複数の通信経路を開く。


「最初に掲載した媒体は小規模ですが、投稿から三分以内に複数の大手アカウントが拡散しています」


「準備されていた」


「その可能性が高いです」


 環は新しく出た情報を解析画面へ入力した。


 直前の特定確率は六十三・七パーセント。


 事前オッズに変換する。


 〇・六三七÷〇・三六三。


 一・七五五。


 新しい情報は二つ。


 一般企業の事務職であるという、より限定された勤務情報。


 星野ミナとの関連性。


 ただし、両者は完全に独立した手がかりではない。既に拡散している活動時間や職業推定と一部が重なる。


 単純に尤度比を掛ければ、特定確率を過大評価する。


「重複を補正します」


 環は、情報間の依存を反映した結合尤度比を算出した。


 六・〇六。


 事前オッズ一・七五五に、六・〇六を掛ける。


 事後オッズ、一〇・六三。


 確率へ戻す。


 一〇・六三÷一一・六三。


 解析結果が赤く表示された。


 九一・四%。


 西尾の顔色が変わった。


「九割を超えました」


「佐藤さんへ連絡します」


「名前が出るまで、どれくらいですか」


 環は、情報拡散の速度と候補者照合の進行を確認した。


 都内。


 一般企業。


 事務職。


 四十代。


 既婚。


 子どもがいる。


 深夜に定期的な外出をしている。


 条件を満たす人間の勤務先や住所をまとめた一覧まで、既に作られ始めていた。


「早ければ、四十八時間以内です」


     ◇


 地下施設の通路を歩いていた誠司の端末が震えた。


 黒瀬からの緊急連絡だった。


「はい、佐藤です」


『佐藤さん。リークされました』


 環の声は、いつもより速い。


「何をですか」


『あなたの職業に関する情報と、星野ミナさんを優遇していたという疑惑です』


 誠司の足が止まる。


「優遇なんてしてません」


『わかっています』


「一度、しようとは思った。でも、してない。コトリにも止められて」


『こちらは理解しています。しかし、問題は事実ではありません』


 通路の蛍光灯が、誠司の頭上で白く明滅した。


『特定確率を更新しました』


「何パーセントですか」


 返事までの一秒が、異様に長かった。


『九十一・四パーセントです』


 誠司は壁へ手をついた。


「昨日は、六十三・七だったでしょう」


『二つの情報が加わりました。拡散速度も、想定を超えています』


「家族は」


『警護は継続しています。ただし』


「ただし、何ですか」


『早ければ四十八時間以内に、あなたの名前が特定されます』


 誠司は目を閉じた。


 残り勤務、十八回。


 正体特定確率、九十一・四パーセント。


 四十八時間。


 数字が、逃げ道を一つずつ塞いでいく。


『佐藤さん。今夜は、ご自宅へ戻ってください』


「でも、勤務は」


『天城さんが対応準備に入っています。ご家族へ説明する時間が必要です』


 蓮の言葉を思い出す。


 俺が、あんたの時間を増やします。


 誠司は震える息を吐いた。


「……わかりました」


     ◇


 警護車両に送られ、自宅へ着いたのは午前二時を過ぎていた。


 住宅街は眠っている。


 街灯の下で、夏の虫が何度も光へぶつかっていた。


 誠司は玄関の前に立ち、鍵を差し込む。


 いつもなら聞こえるはずのない金属音が、今夜はひどく大きく響いた。


 扉を開ける。


 灯りのついたリビングで、美咲が一人、待っていた。


 テレビの音だけが、薄暗いリビングに流れていた。


 画面には、黒い人影を模した輪郭と、大きな文字が映っている。


『謎の管理者S・S、正体判明は目前か』


 誠司が靴を脱ぐ音に、美咲が振り返った。


「おかえりなさい」


「……ただいま」


 いつもの言葉だった。


 けれど、美咲は立ち上がらなかった。


 ローテーブルの上には、冷めた紅茶と、画面を伏せたスマートフォンが置かれている。


 誠司はリビングへ入り、テレビを見た。


 司会者が、管理者は都内の一般企業に勤める事務職の男性だと繰り返している。画面の下には、星野ミナを優先的に救助した疑惑という文字が流れていた。


 美咲がリモコンを取り、テレビを消した。


 音が途切れる。


 冷蔵庫の低い駆動音と、壁時計の秒針だけが残った。


「誠司さん」


「うん」


「これ、あなたのことだよね」


 誠司は頷いた。


「九十一・四パーセントまで来てる」


「何が?」


「俺だと特定される確率」


 美咲の眉がわずかに動いた。


「そんなものまで数字にできるの」


「黒瀬さんが計算した」


「あと、どのくらい?」


「早ければ四十八時間」


 美咲は伏せていたスマートフォンを裏返した。


 通知が何十件も並んでいた。


 管理者の正体に関する記事。


 S・Sの候補者を探す投稿。


 星野ミナへの優遇疑惑。


「あなたが、あの子を優遇したって書いてある」


「……うん」


「したの?」


 誠司はすぐに否定できなかった。


 美咲は急かさずに待っている。


「一瞬、しようとした」


 美咲の目を見て答えた。


「あの子の弟が病気で、治療を続けるかどうかで二年後の数字が五十七ポイント違うって知った」


「五十七ポイント」


「それを見たら、あの子だけは絶対に守らなきゃって思った」


 誠司は両手を見た。


「他の人より、優先して見ようとした」


「実際にしたの?」


「してない。コトリに止められた」


「止められなかったら?」


 その問いから逃げず、誠司は考えた。


「してたかもしれない」


 喉が乾く。


「すぐに間違いだと気づけたかもわからない」


「そう」


「だから、記事に書かれていることが全部嘘だとは言い切れない」


 誠司は唇を噛んだ。


「実際には優遇してない。でも、一瞬でもそう考えた俺は、卑怯なのかもしれない」


 美咲は椅子から立ち、誠司の前まで歩いてきた。


「手、出して」


「え?」


「いいから」


 誠司が差し出した右手を、美咲は両手で包んだ。


 まだ微かに震えていた。


「一瞬でも迷って、それでやめられる人が、卑怯なわけないでしょ」


「でも」


「間違った考えが一度も浮かばない人なんていないよ」


 美咲の親指が、誠司の手の甲をゆっくり撫でる。


「浮かんだ考えを、どうするかでしょう」


「俺は、コトリに言われなかったら」


「言われて、聞けた」


 美咲は言った。


「自分が間違ってたって認めて、やめた」


 誠司は顔を上げた。


「あなたはね、誠司さん。迷える人なの」


「迷ってばかりだよ」


「迷わない人の方が、よっぽど怖いよ」


 美咲は少しだけ笑った。


「正しいと思い込んで、人の話を聞かなくなるから」


 誠司の目の奥が熱くなる。


「でも、俺のせいで、美咲たちまで」


「それは今から考える」


「怖くないのか」


「怖いよ」


 美咲は即答した。


「陽菜の学校が知られたらどうしようとか、湊が外で写真を撮られたらどうしようとか、考えたら吐きそう」


 包んでいた手に力が入る。


「でも、怖いからって、あなた一人に戻していい話じゃないでしょ」


「美咲」


「わたしも戦うって言ったよね」


 そのとき、廊下の床が小さく鳴った。


 二人が振り返る。


 寝間着姿の陽菜が、リビングの入口に立っていた。


 片手にスマートフォンを持っている。


「陽菜。まだ起きてたのか」


「目、覚めた」


「今の話、聞いてた?」


 美咲が尋ねると、陽菜は首を横へ振った。


「よく聞こえなかった」


 誠司は胸の奥で息を吐いた。


 陽菜がスマートフォンを持ち上げる。


「パパ」


「何だ?」


「学校で、みんなが話してるの」


 誠司の背中に冷たいものが走る。


「何を?」


「管理者って人」


 陽菜は画面へ目を落とした。


「ダンジョンで、いっぱい人を助けてるんだって」


「……そうらしいな」


「すごい人なんだよね」


「どうだろうな」


「でも、悪く言ってる人もいる」


 陽菜の小さな指が、スマートフォンの端を握り締めた。


「一人の女の人だけ、ひいきしてるって」


 誠司は美咲を見た。


 美咲は黙っていた。


「陽菜は、どう思う?」


「わたし、その人のこと知らないから、わかんない」


「そうだよな」


「でも」


 陽菜は顔を上げた。


「たぶん、優しい人だと思う」


 誠司の喉が詰まった。


「どうして?」


「だって、助けたい人がいるって、優しいことでしょ」


 陽菜は不思議そうに首を傾げる。


「たくさんの人を助けたいのに、一人のことも助けたくなっちゃうのって」


 言葉を探すように、視線を少し上へ向ける。


「ぜんぶ、優しいからだよね」


 壁時計の秒針が進んだ。


 誰も、すぐには言葉を返せなかった。


 誠司は陽菜へ歩み寄り、その身体を抱き締めた。


「わっ。どしたの、パパ」


「なんでもない」


「苦しいよ」


「ごめん」


 腕を少し緩める。


 陽菜の髪から、家で使っているシャンプーの匂いがした。


「ありがとうな」


「何が?」


「なんでもない」


 涙が落ちないように天井を向く。


 喉が震えた。


 陽菜には見えない位置で、美咲が誠司の背中へ手を置いた。


     ◇


 夜が明けるまでに、家族で決めた。


 しばらく陽菜と湊の登下校には警護をつける。


 美咲も一人では行動しない。


 知らない番号からの連絡には応じない。


 誠司の仕事について子どもたちへ話すのは、名前が公表されるまで待つ。


 隠すためではない。


 子どもたちが理解できる形で伝える時間を作るためだった。


 翌日の夜。


 誠司は玄関で靴を履いた。


 残り勤務、十八回。


 正体特定確率、九十一・四パーセント。


 名前が知られるまで、長くても四十八時間。


 美咲が玄関まで見送りに来る。


「行ってらっしゃい」


「行ってきます」


 誠司は扉へ手をかけた。


「誠司さん」


 振り返る。


「帰ってきてね」


 いつもと同じ言葉だった。


 今夜は、願いではなく約束を求める声に聞こえた。


「帰ってくるよ」


 誠司は答えた。


     ◇


 地下施設へ着くと、操作室の照明がすべて赤く染まっていた。


 警告音が、途切れることなく響いている。


「コトリ!」


 誠司は端末へ駆け寄った。


『誠司。緊急事態です』


 画面には、アマテラス最深部の立体図が表示されている。


 これまで反応のなかった領域から、黒い波形が何度も広がっていた。


「何が起きてる」


『最深部で、これまでにない規模の反応を検出しました』


 波形が一度大きく跳ねる。


 施設全体が、遠くから殴られたように震えた。


 天井から細かな埃が落ちる。


「この波形、前にもあったのか」


 コトリの返答が、一瞬遅れた。


『一致率、九十七・八パーセント』


「何とだ」


『十二年前に発生した、第一次災害の記録です』


 誠司の呼吸が止まる。


『この波形は、十二年前の第一次災害と、酷似しています』



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