第69話 63.7パーセント
佐藤誠司という名前は、まだどこにも書かれていなかった。
それでも、正体へ伸びる指は、すでに彼の背中まで届いていた。
午前二時十三分。
内閣府ダンジョン対策室の分析棟で、黒瀬環は画面を流れる投稿を一件ずつ追っていた。
『管理者S.Sって夜中しか活動してなくない?』
『海外じゃなくて日本人だろ。反応が日本時間と完全に一致してる』
『喋り方が若くない。たぶん四十代』
『前に家族がどうこう言ってなかった? 既婚者では?』
数秒ごとに新しい投稿が加わり、古い推測を飲み込んでいく。
星野ミナが弟の治療について語った配信は、切り抜き動画として急速に拡散していた。
再生数が増えるほど、彼女を救ってきた存在にも注目が集まる。
視聴者の多くに悪意はない。
『恩人にお礼を言いたい』
『S.Sを表彰してほしい』
『この人がいなかったら、何人死んでたんだ』
善意だった。
だからこそ、止めにくい。
「主任、また増えました」
西尾が別のモニターを操作した。
「新しい考察動画が三本。登録者数二十万人以上の配信者も取り上げています」
「内容は」
「活動時間、推定居住地、職業、年齢。それと家族構成です」
環の指が止まった。
「家族構成まで?」
「過去の救助音声を解析したそうです。『家へ帰る』という言葉の使い方と、子どもに対する話し方から、既婚で子持ちの可能性が高いと」
「可能性だけで、よくそこまで広められますね」
「本人たちは、謎解きのつもりなんでしょう」
環は眼鏡を外し、目頭を押さえた。
一つ一つの情報は曖昧だ。
深夜に活動している。
東京近郊にいる可能性が高い。
事務職らしい。
四十代の男性。
既婚で、子どもがいる。
どれか一つだけなら、該当者は無数にいる。
だが、条件が重なれば、候補者は急激に減る。
「推定を更新します」
環は解析画面を開いた。
最初に置いた事前確率は二・〇パーセント。
ネット上の考察だけで、特定の個人へ到達する可能性は低い。初期段階では、そう判断していた。
だが、新しい手がかりが出るたび、その確率は更新される。
環は、情報ごとに設定した尤度比を確認した。
深夜活動。
尤度比三・二。
事前オッズに掛けると、特定確率は六・一パーセントへ上昇。
東京在住。
尤度比二・八。
十五・五パーセント。
事務職。
尤度比二・一。
二十七・七パーセント。
四十代男性。
尤度比一・九。
四十二・二パーセント。
「ここまでは、昨日と同じです」
西尾が言った。
「ええ」
環は、最後に追加された条件を選択した。
既婚。
子どもがいる。
尤度比二・四。
ベイズ更新を実行する。
画面上の数字が切り替わった。
六三・七%。
「……まずいですね」
西尾が椅子から身を乗り出した。
「六割を超えた」
「正確には、六十三・七パーセントです」
「でも、まだ名前までは」
「あと一つか二つです」
環は画面を閉じなかった。
「勤務先の業種、通勤経路、住んでいる地域。どれか一つでも精度の高い情報が出れば、九十パーセントを超える可能性があります」
「投稿を削除させますか」
「一件消せば、別の場所へ転載されます。理由を説明すれば、それ自体が情報になる」
「じゃあ、どうすれば」
「わかりません」
環は、その言葉を口にする自分へ苛立った。
数字なら解析できる。
通信記録なら追跡できる。
だが、何万人もの善意と好奇心は、犯人一人より扱いにくい。
「厄介なのは、これが悪意で進んでいるわけではないことです」
環は、星野ミナの配信画面を見た。
映像の中で、彼女は笑っている。
『ミナが稼げば、あの子が生きられる確率、上がるから』
その言葉に心を動かされた者たちが、彼女を守った人物を探している。
「星野さんも、視聴者も、ただ恩人に礼を言いたいだけ」
環の声が低くなる。
「でも、その善意が佐藤さんの家族を危険にさらす」
◇
「六十三・七パーセント?」
誠司は、操作室の椅子に座ったまま聞き返した。
勤務終了後だった。
複数の画面を同時に監視した影響で、目の奥にはまだ鈍い痛みが残っている。手を開くと、指先に細かな震えがあった。
今夜の勤務を終えた。
残りは、十八回。
黒瀬は誠司の正面に立ち、携帯端末を机へ置いた。
「ネット上の情報だけを用いて、あなた個人へ到達する可能性を推定した数値です」
「昨日までは、そんな話」
「昨日までは四十二・二パーセントでした」
「一日で二十パーセント以上も?」
「既婚で子どもがいる可能性を示す考察が拡散しました」
誠司の表情が固まる。
「どうして、そんなことまで」
「過去の救助時の発言や、話し方を分析したようです」
「そんなので、わかるものなんですか」
「確定はできません。しかし、候補を絞る材料にはなります」
黒瀬は解析結果を表示した。
初期値、二・〇パーセント。
深夜活動で、六・一。
東京在住で、十五・五。
事務職で、二十七・七。
四十代男性で、四十二・二。
既婚、子持ちで、六十三・七。
数字が一段ずつ階段を上り、誠司の名前へ迫っている。
「こんなの、ただの予想でしょう」
「はい」
「外れている情報もあるかもしれない」
「あります」
「なら」
「ですが、すべてが外れている必要はありません」
黒瀬は最後の数字を指した。
「正しい情報が重なるほど、候補者は減ります。あと一つか二つ、具体的な手がかりが出れば、九十パーセントを超えます」
「九十……」
「名前が出るのは、時間の問題です」
操作室の換気装置が、低い音を立てている。
誠司は濡れたような指先をズボンで拭った。
「名前が知られたら、どうなりますか」
黒瀬はすぐに答えなかった。
それが答えの重さを示していた。
「正体が露呈した場合のリスクも試算しました」
「……聞きます」
「過去の類似事例から、報道関係者や配信者が自宅を特定する可能性は八十五パーセント以上」
誠司の喉が動いた。
「家族の氏名、学校、勤務先など、私生活に関する情報が拡散される可能性は九十パーセント以上」
「学校……」
「政府が安全確保を理由に、ご家族を含めて保護下へ置く可能性は六十から七十パーセント」
「保護って」
「行動を制限される可能性があります。事実上の拘束です」
誠司は椅子の肘掛けを握った。
「オービットゲート社は」
「あなたへ接触する確率は、ほぼ百パーセントです」
白瀬総一郎の顔が浮かぶ。
「特に、ご家族が危険です」
黒瀬の声がさらに低くなった。
「白瀬は既に、あなたのご家族への接触を試みています」
「何ですって」
誠司が立ち上がった。
椅子が後ろへ倒れ、床へ激しい音を響かせる。
「いつですか」
「先日です。奥様の周辺を調べていた形跡があります。こちらで阻止しました」
「どうして、すぐ言わなかったんです」
「確証を得るまで伝えれば、あなたが勤務を放棄して動くと考えました」
「当たり前でしょう!」
誠司の声が操作室に響いた。
「家族ですよ!」
「だから今、伝えています」
「今じゃ遅いかもしれない!」
「落ち着いてください」
「落ち着けるわけないでしょう!」
息が荒くなる。
心拍数を示す端末の数字が、急激に上がった。
黒瀬は一歩も退かなかった。
「佐藤さん。今あなたが外へ飛び出せば、その行動自体が新しい手がかりになります」
誠司の足が止まる。
「この施設の周辺には、既に管理者を探している者がいる可能性があります。感情のまま帰宅すれば、あなた自身が家まで案内することになる」
拳を握る。
爪が掌へ食い込んだ。
「じゃあ、俺は何をすればいいんです」
「こちらで警護を強化します。学校と勤務先にも、本人たちへ気づかれない形で人員を配置します」
「気づかれない形って……」
「ご家族へ話すかどうかは、あなたが決めてください」
誠司は机へ両手をついた。
視界の端が暗くなる。
美咲。
玄関で、自分を送り出してくれる妻。
陽菜。
父親が何をしているのか知らず、それでも最近は帰りを待ってくれる娘。
湊。
まだ小さな手で、誠司の指を握る息子。
自分が救った人々の顔は知らない。
けれど、自分のせいで危険にさらされる三人の顔は、目を閉じても浮かぶ。
「……美咲」
誠司の声が掠れた。
「陽菜。湊」
三人の名前が、無機質な操作室の中へ落ちた。
誠司は机に両手をついたまま、しばらく顔を上げられなかった。
家族を守るためなら、すぐにでも帰りたい。
けれど、帰る姿を追われれば、自分が危険を連れていく。
助けるために動くことが、家族を危険にさらす。
何もできないことより、何かをする方が悪い結果を招く。その可能性が、誠司の足を床へ縫いつけていた。
「黒瀬さん」
「はい」
「美咲には、俺から話します」
声を絞り出す。
「陽菜と湊には、まだ言わない。あの子たちに背負わせる話じゃない」
「承知しました」
「警護をお願いします」
「既に手配しています」
「学校も」
「はい」
「美咲の職場も」
「はい」
同じ返事を聞くたび、胸の奥にあった焦りが、重い鉛へ変わっていく。
誠司はゆっくりと身体を起こした。
倒れた椅子を拾おうとしたが、震える指が背もたれを掴み損ねる。
黒瀬が先に椅子を起こした。
「今日は帰らないでください」
「でも、美咲に」
「ここから連絡してください。帰宅する場合は、警護の準備が整ってからです」
「俺が家に帰るだけなのに」
「もう、ただ帰るだけでは済まない状況です」
その言葉が、誠司の胸を冷やした。
地下施設へ通い始めた頃、誠司は自分をただの深夜アルバイトだと思っていた。
誰にも知られず、働いた分だけ金を受け取り、朝になれば家へ戻る。
それだけのはずだった。
いつの間にか、家へ帰るという行為さえ、自分一人では決められなくなっている。
「少し、一人にしてください」
黒瀬は何か言いかけ、やめた。
「五分後に戻ります」
扉が閉じる。
誠司は椅子へ腰を下ろし、端末の黒い画面に映る自分の顔を見た。
疲れている。
目の下は暗く、頬も以前より痩せていた。
英雄などではない。
減給され、生活費を補うために夜の仕事を始めた、どこにでもいる中年の会社員だ。
それなのに、今は何万人もの人間が自分を探し、企業と政府が自分の家族を見張っている。
「何やってんだろうな、俺」
返事はない。
コトリも、今は黙っていた。
扉が二度叩かれた。
「黒瀬さん?」
「俺です」
若い男の声。
誠司が返事をすると、天城蓮が入ってきた。
昨夜より服装は整っていた。しかし、目の下には眠れていないことを示す薄い影がある。
右手には、折り目のついた紙が握られていた。
「天城くん。どうした」
蓮は扉を閉じた後も、そこから動かなかった。
「聞こえました」
「何が」
「家族が危険だって話」
誠司の表情が硬くなる。
「黒瀬さんから聞いたのか」
「廊下で少し。全部じゃないです」
「そうか」
蓮は、誠司の顔を見た。
「それでも、続けるんですか」
「何を」
「管理者を」
誠司はすぐに答えられなかった。
残り十八回。
正体特定確率、六十三・七パーセント。
家族への危険。
続ける理由より、やめるべき理由の方が、数字として多く並んでいる。
「わからない」
誠司は正直に答えた。
「今は、まだ」
「辞めればいいじゃないですか」
「そうだな」
「家族が危険なんですよ」
「わかってる」
「身体も壊れる」
「わかってるよ」
「なのに」
「それでも、辞めた後に何が起きるかも考える」
蓮が黙る。
「俺がいなくなっても、ダンジョンは止まらない。赤いランプも消えない」
「俺がやります」
「一人で?」
蓮の唇が止まる。
「前にも言ったけど、君に全部背負わせて俺だけ逃げるのは違う」
「逃げるんじゃない。合理的な交代です」
その言葉を口にした瞬間、蓮の眉が歪んだ。
自分が何度も使ってきた言葉だった。
合理的。
効率的。
正しい選択。
痛みを数字の陰へ隠すための言葉。
「佐藤さん」
蓮は握っていた紙を見下ろした。
「俺、白瀬さんから離れます」
誠司が目を見開く。
「天城くん」
「契約解除を申し出ました。施設の権限も、返却手続きを始めています」
「急にどうしたんだ」
「急じゃないです」
蓮は首を振った。
「ずっと考えてた。あの人のやり方が正しいのか。俺のやり方が正しいのか」
折り畳まれていた紙を開く。
誠司と蓮の操作結果を比較した資料だった。
「数字が出た」
誠司は黙って聞く。
「俺の方が二・一倍速い。でも、あんたの方が四・二四ポイント多く救ってる」
「昨日も聞いたよ」
「聞いてください」
蓮の声が強くなる。
「俺のやり方なら、年間で四十二人多く死ぬ」
「天城くん」
「それは効率じゃない」
蓮の指が、紙の上で震えている。
「ただの、取りこぼしだった」
操作室の換気音が、低く二人の間を流れた。
「俺は、効率が正しいと思ってた」
蓮の視線が床へ落ちる。
「全員を救おうとしたら、全員失ったから」
誠司は何も挟まなかった。
「昔、一度に救助要請が重なったことがありました」
蓮の呼吸が浅くなる。
「誰から助けるか決められなかった。一人を選んだら、残りを見捨てる気がして」
指先が紙を強く握る。
「画面を何度も切り替えた。迷って、迷って、結局……誰にも指示を出せなかった」
警告音。
途切れていく声。
赤から黒へ変わる表示。
蓮の中では、今も終わっていない。
「全員、死にました」
その言葉の後、誠司は動かなかった。
慰めの言葉を急がなかった。
「それから、考え方を変えた」
蓮は続ける。
「助からない人間を早く捨てれば、残りは救える。迷わなければ、もう全員を失うことはない」
「それで白瀬のところへ?」
「はい」
「白瀬さんは、俺が正しいと言った。感情を捨てれば、より多く救えるって」
蓮は乾いた笑いを漏らした。
「信じたかったんです」
声が掠れる。
「効率が正しいんじゃない」
拳が震えた。
「俺はただ、もう一度、全員を失うのが怖かっただけだ」
誠司は蓮の顔を見た。
十九歳。
白瀬の代わりになろうとした少年ではない。
あの日から一人で警告音を聞き続けてきた、まだ若い人間が立っている。
「怖かったんだな」
蓮が顔を上げた。
責められると思っていた。
間違っていたと言われると思っていた。
だが、誠司の声には、怒りも失望もなかった。
「怖いに決まってるだろ、そんなの」
「でも、あんたは」
「俺も怖いよ」
誠司は自分の手を見た。
震えはまだ残っている。
「毎回、怖い」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「怖い人間が、あんな操作できるわけない」
「怖いから、何度も確認するんだ」
誠司は小さく息を吐いた。
「迷うし、手も震える。間に合わなかった人のことも、ずっと考える」
「それでも、また端末に座る」
「座る」
「どうして」
「怖いからだよ」
蓮の目が揺れる。
「目の前の人が、いなくなるのが怖い。帰れなかった人の家族を想像するのも怖い」
誠司は、掌を握った。
「怖くなくなったら、たぶん俺は、人を数字で数え始める」
「数字は必要です」
「必要だよ」
誠司は頷いた。
「でも、数字の向こうに人がいることまで忘れたら駄目なんだ」
蓮の肩が落ちる。
「怖いままでいいんですか」
「いいんじゃないか」
「迷ったままでも?」
「迷っていい」
「また間違えるかもしれない」
「俺も間違える」
「また誰かを失うかもしれない」
「それでも、怖くないふりをするよりはいい」
蓮の目から、一滴だけ涙が落ちた。
本人が気づく前に、床へ消えた。
「俺に、教えてください」
蓮は頭を下げた。
若い首筋が、蛍光灯の光に晒される。
「どうすれば、あんたみたいに立っていられるんですか」
「立ててないよ」
誠司は苦笑した。
「今だって、家族が危ないって言われて、何をすればいいかわからなくなってる」
「でも、座り込んではいない」
「椅子には座ってるけどな」
蓮が、わずかに息を漏らした。
笑ったのか、泣いたのかはわからない。
「俺は速い」
「うん」
「あんたは、俺より確実だ」
「そうらしいな」
「両方できたら」
蓮は顔を上げた。
「もっと多く帰せる」
誠司はしばらく蓮を見た。
自分の残り時間を増やすと言った少年。
白瀬の論理から離れ、自分の恐怖を認めた少年。
その手を取れば、蓮にも危険が及ぶかもしれない。
それでも、一人で背負わせるよりはいい。
「そうだな」
誠司は立ち上がり、右手を差し出した。
「一緒にやろう」
蓮は差し出された手を見つめた。
数秒後、その手を強く握った。
◇
同じ時刻。
オービットゲート社の最上階で、白瀬総一郎は一通の申請書を開いていた。
天城蓮。
契約解除申請。
白瀬は最後まで読み終え、静かに端末を閉じた。
「あの男は、人を変える」
暗い窓に映る自分へ向けて、白瀬は呟いた。
「ならば、変える力そのものを奪えばいい」




